住まいは賃貸だと聞いていたのだが。鉄製の外階段を登った広い屋上らしき場所には、明らかにプレハブ小屋にしか見えないようなそれがポツンと一つ。
 他に住居らしき建物もないので、はその小屋のドアをトントンと二回ノックした。
 そしてこれを言うのを忘れるなと言われていた台詞を思い出すと、急に気配を潜めてしまった中の人物に向かって声を掛ける。
「すみません。六代目からの紹介で訪ねてきた者ですが」
『………あ。あ、今日でしたっ、け……!?あはは、お、おかしいな〜確かに覚えてたのに。今!あの、本当にすぐ開けますから!』
 部屋を忙しく動き回る音がしたかと思うと、カチャリ……と、恐る恐るといった感じでドアが開けられた。
 縋るようにドアノブを掴む家主の品田はひきつり笑いで、へこへこと頭を下げながら喋り続ける。
「はは……え〜と、この通り狭いし汚い所なので、東城会の方には居心地が悪いと思いますけど……」
「私東城会では無いです」
「えっ?」
 そこでパッと顔を明るくしようやくこちらに目を合わせた品田は──しかしまた、どんな顔をすれば良いか分からないという微妙な表情をした。
 どうやら心配していた厳ついご職業の方では無いらしいが、狐の面を着けたスーツ姿の女というのも品田から言わせれば充分“ヤバイ”。
 それも大吾からの紹介であるし、そう言えば以前東京に行った時に姿だけは見た気がする。組員で無くとも、関係者には違いないのだろう。
 正直何と言って良いか迷っていた品田の前で、同じくじいっと黙っていただが、やがて「あのっ」と思いきったような声を出して顔を上げた。
「は、はいっ!?」
「私見掛けはこうですが本当に怪しいものじゃないので……どうか、安心して下さい」
「え………」
 その必死な訴えを聞いた途端。品田は目の前にいる狐の中身が、恐らく自分よりずっと若い女性であるだろう事にようやく気が付いた。


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「そっかあ、情報屋さんってやつね。だからお面で素性隠してるんだ?いや〜俺さ、ひょっとしたら組員さんよりも質の悪い、頭のおかしい感じの人が訪ねてきたと思ってビビっちゃったよ」
 互いの自己紹介も済ませすっかりとリラックスした様子の品田は、部屋に置いてあったコンビニの袋から飲み物を取り出した。
正座するに、蓋を開けた缶のお茶を差し出す。
「ありがとうございます」
「いえいえ。それにしても堂島君も人が悪いな〜。君みたいな子が来るって最初から教えてくれれば、俺はこの一日怯えて過ごさなくて済んだのにさぁ」
 の正面に──というより敷きっ放しの万年床にどさりと腰を落とした品田は、緊張から解放された為か早速アルコールの缶を口にしている。
 品田の部屋は、畳敷の狭い室内に辛うじての最低限の生活スペースを形成しているといった感じで、外から見た印象とそう大差は無かった。
 床には彼が担当している風俗誌、他週刊紙が雑多に積み重なっている。いかにも自由気儘な男の独り暮らしといった部屋で、目を引くのはちゃぶ台の上に乗ったパソコンくらいだろうか。
「(……そうだ、お仕事頼まなくちゃ)」
 初めてあがった他人の部屋をあれこれ詮索してしまうのは悪い癖だ。
 は品田に貰った缶コーヒーを飲み干すと、本題とばかりに持参した地図を懐から出し広げた。更に、手にはペンを用意する。
 既に大分酒を口にしてぼんやりとした顔になってきていた品田も、「ん?」と身を乗り出して地図を覗く。
「品田さん。地域の風俗店には詳しいんですよね」
「ん〜……今、君が丸い印付けた所?あはは、詳しいどころの話じゃないよ〜!そこらへんは俺の庭と言ってもいいくらいだね!」
「そ、そうですか……」
 酒が入ったせいか大分テンションは高いが、誇らしげに語る様は心強い。は質問を変える事にした。
「それじゃあ、ここ二ヶ月の間で入店した新人さんのリストなんか作れますか」
「おう、任せなさい!それくらいならすぐにでも作れちゃいますよ〜……っと、少しだけ待ってね」
「助かります」
 品田はに背を向けると、散らかった枕元まで腕を伸ばした。
しかしなかなか目的の物が見付からないのか、緩慢な動きでそこを探しながらに声を掛ける。
「堂島君にさ、秋山さんも元気?あっ、ひょっとして秋山さんの事は知らないか……」
「いえ、良くして貰っていますよ。お元気です」
「ああ、そいつは良かった。二人には特に世話になったからね。……っと、こいつだ。あったあった。……でも新人で、尚且つ女同士OKのお店かあ。特殊だから限られてきちゃうかな〜」
「………」
 品田は手帳を探し出すと、再びに向き直りどさりとあぐらを掻いた。
「鑑賞のみ可能の所もあるけど、俺に聞いてきたって事はプレイをご希望でしょ?ソープ……デリヘルの方がそういう店はあるかな」
「あの、違います。私は違います」
 は誤解されている事に気が付き否定したが、内心焦りどうもたどたどしくなってしまった。品田は忙しく手帳を捲っていた手を止めると、キョトンと顔を上げる。
「えっ、それじゃあノーマルなん…………、」
 酒のせいでうっすらと赤い品田の目線がすすす……と下がり、の胸元で止まった。
 部屋が狭い為に、まるで互いに膝を付き合わすような距離だ。
 突然濃度を増したただならぬ空気にがどうして良いか戸惑っていると、彼の喉仏がごくりと上下する。
 そうして、再びゆっくりと上がってきた眼差しは、続く言葉が不要な程正直であった。狐面越しに目を合わせたが僅かに身体を引くと、彼は頭を掻いて照れ臭そうにえへへと笑う。
「そ、そっかぁ〜だから堂島君はわざわざ俺に……いやでも俺だって別に百戦錬磨とかじゃないから、お相手が勤まるかどうか……」
「いや、品田さん」
「女を手配させる……ってのは俺もよく聞くけど、やっぱり逆もあるんだな〜。あっ、普段の人達と勝手が違ったらごめんね」
「し、品田さん?」
「その、お面は付けたままかな……っ、それも良いかも」
「(そういう為のお面じゃないのに……!)」
 こちらの話を全く聞かぬうえに、品田はまるで独り言のように言いながら、四つん這いでじりじりと距離を詰めてくる。
 の背中に、ぴたりと壁が当たる感覚がした。こちらに顔を近付けてきた品田がうっとりと目を細める。そして一度、すんと鼻を動かした。
「部屋に入ってきた時から思ってたけど……、君っていい匂いするよね……」
 からからに渇いたような声で言われたは、品田に心の中で謝りながら後ろ手にぐっと拳を握った。


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 仕事の完了と礼を告げる為東京にいる大吾に電話したは、彼に昨日の出来事も簡単に話して聞かせた。
 呆れたような溜め息が耳元に届く。
『全くあいつは……何を都合の良い勘違いしてるんだ。いや、俺が詳しく話さなかったせいだな。悪ィ、
「いえ、私が来る前にも緊張してお酒飲んでたみたいなんです。それに、私も品田さんの手帳を勝手に見てしまったし……」
『自業自得だ。気にするな』
 片手に携帯、片手にコンビニの袋をぶら下げて、は外階段をカンカンと足音を立てて昇った。
 品田の部屋前に立つと、少し声を潜めて大吾に断りを入れる。
「品田さんの家に戻りました。また連絡しますね」
『何?外からだったのか……ふっ、その面で昼間から彷徨いてると目立つぞ。不審者扱いで捕まるなよ』
「わ、分かってますよ」
 電話を切るとは一度外していた狐面を付けてから、部屋の扉をそうっと開けた。
 出る前と同様に、タンクトップと下着姿の品田は丸めた布団を腕に抱いて眠っていた。荷物を置いたは枕元に座り、彼の肩を揺する。
「品田さん、起きて下さい。もうお昼ですよ」
「……う〜……んん……?」
 目を擦りながらのそっと身体を起こした品田は、今一状況が把握出来ない様子でを見る。
「……情報屋さんだ」
「おかげさまでこちらのお仕事は終わりました。謝礼は口座に振り込んだので確認して下さい」
「えっ?俺って昨日は〜……うっ、痛づづ……!二日酔いで記憶が定かじゃないんだよなあー……」
 頭を押さえて顔を下に向けた品田はなぜか急にハッとし、下着姿の下半身を慌てて布団で隠した。
「あ、はは……ごめんね、何だかお見苦しい所を」
「?大丈夫ですよ。それよりお腹空いてませんか?コンビニからお水と軽く食べられそうな物と……あと、もし台所お借りできたらシジミのお味噌汁でも作ろうかと思って材料買って来たんですが……」
「えっ、情報屋さんが作ってくれるの!?ああ、そいつはありがたいなー」
「それじゃあお借りします。出来上がるまで、買ってきたものは好きに食べていて下さいね」
 は立ち上がり、台所で慣れた手つきで準備を始めた。
 ふと視線を感じてそちらを見ると、品田は飲み物にも食べ物にも手を付けず、ぼうっとこちらを見ていた。
「食欲が無いなら、まだ寝ていても……」
「あっ、違う違う!ただこういう家庭的な感じって、情けない事に最近はとんと縁遠くてさ……良いもんだなあーって、ね」
 へらりと幸せそうな笑顔で語られると、何だかの方まで恥ずかしくなる。
 彼女は赤い顔を隠せた狐面に感謝して作業に戻ると、品田の方は見ずに言った。
「……また、品田さんさえ良ければ名古屋に来た時は訪ねてきても良いですか?」
「ああ、そりゃもう是非!時間さえあれば、案内したい場所や人がたくさんあるんだけどなぁ。……あっ、も、勿論そっちは健全な方でね?」
 はくすりと笑った。
 話には聞いていたし、昨日実際話をしても思ったが、品田はそれゆえに貧乏くじを引かされてしまう、憎めない“善人”なのであろう。
「うーん……それにしても頭が痛いんだよな。二日酔いとは違う、額のど真ん中あたりが……」
「あっ。あ、あの、冷却シートなら買い物袋の中に……」
「え?」
 例えば。本人の記憶には無い“こぶ”などが出来たりしていた場合、応急処置くらいにはなるだろうと。