改めて話を擦り合わせてみるとコミジュル──ソンヒは、についてやはりおおよその事情を把握しているようであった。
 そもそも異人町に足を踏み入れた時から、はコミジュルの目をかいくぐれるとは思っていない。しかし自惚れこそ無かったにせよ、同業に近い立場にあるものとして自身の詰めの甘さや未熟さが突き付けられたようで、悔やまれる点はあった。
「正直難しくはなかったぞ。お前も、隠そうとはしていなかっただろう?」
 その言葉にが目を開くと、彼女の向かいのソファーで脚を組むソンヒは艷やかな笑みを浮かべた。
 この広い応接室のような場所も、コミジュル内にあるどこかの一室らしい。らしい、というのははここに来るまで目隠しをされて案内人であるハンジュンギに従って来た為、確信は持てなかったからだ。
 の感情の揺らぎを察してか、ソンヒは言葉の意図を説明するかのように先を続けた。
「誤解が無いよう話すが、私達も神室町の情報屋については深く調べられなかった。ただ、その人物が何らかの理由で情報屋を休止してから、この異人町に来るまでの足取りを掴む事はそう難しくはなかったという事だ」
「それはどういう……」
「情報屋としての面を取った女には、自分の正体を隠すよりまず先に守りたい何かがあったんだろうさ」
 確かに神室町での激動があってこの地にやって来るまでは、もなりふり構っていられない所があった。それをこうも見透かしたように言い当てられては、もはや下手な誤魔化しをしようとする気すら起きなかった。
「予定より時間を取らせた。そろそろ迎えにこさせよう」
 同時に立ち上がってから、は改めてソンヒに頭を下げた。
「お茶、美味しかったです。ご馳走様でした」
 ソンヒは何も言わずにの前まで来ると、の顎にそのしなやかな指先を添えてクッと持ち上げた。
 或いは、異性に同様の事をされるよりも戸惑うものだ。固まるを存分に眺めた後で、ソンヒは頷きながらその手を離した。
「男でも女でも美しいものはいいな」
「それなら鏡を見るのが一番ですよ」
「ふふ。自分自身を愛でながら手元に置いておくというのは難しいだろう」
 その時。部屋の外からノックと共に声が掛けられると、ソンヒもああと短く応じた。
「そうだ。本当に義理立てしている相手がいないというのであれば、もう一人の私のお気に入りはどうだ?私が言うのも何だか、あれはいい男だぞ」
「誰の事ですか?」
の口に合う、甘い香りのリンゴ茶を淹れる事が出来る男の事さ」
 扉がガチャと音を立てて開けられると、そこにはを迎えに来たハンジュンギが立っていた。
 ハンは口を開こうとして、しかし彼女らから自分に向けられている意味有りげな眼差しに気が付くと僅かに目を見張った。
「どうかされましたか?」
「なに、お前の淹れてくれたお茶が美味しかったという話をしていた所だ」
「それは良かった。シロップはまだありますから、よろしければ瓶でお分けしますよ」
 嬉しそうに語り掛けるハンに対し、先の話の意図を理解したはやや硬い口調で礼を告げる。ソンヒはその隣から、彼らに悪戯っぽい眼差しを向けていた。


 + +


「段差があります。気を付けて」
 来た時と同様に目隠しをされたは、ハンに手を引かれながらコミジュルの中を進んでいた。最後ソンヒにからかわれたせいか、それとも視界を塞がれているせいか、少しひんやりした硬い手の感触に意識が集中してしまう。
「(汗を掻きにくい体質で良かった)」
「それにしても──、ソンヒは貴女を気に入ったようですね」
「……、そうですか?」
 さすがに動揺が伝わってしまったかとは思ったが、ハンはその点については特に追求する事無く先を続けた。
「ええ。随分と楽しそうにされていましたから」
 ソンヒがそうしていたのは、また別の理由であった気もするが。は話の矛先を自分から逸らそうと、口を開いた。
「私にはハンさんの事をお気に入りと仰ってましたよ」
「それは光栄ですね」
 の言葉にハンも嬉しそうに返す。そして彼は、一息吐くような間を置いた後。
「他にはどんな話を?」
 対象から情報を引き出す時には、決して警戒心を持たせてはいけない。しかし彼にしては珍しく、そこにはが身構えてしまうだけの明確な違和感があった。
 自身でもその誤りに気が付いたのだろう。繋いだ手の先に僅かに込められた力が、ハンの後悔を示した。
「すみません。今の、貴女に対して探るような聞き方は失礼でしたね」
「気にしないで下さい。自分のボスの面会相手ともなれば、警戒するのは当然かと」
「いえ……それが、そういう事ではなく」
 ハンが言葉を濁した事をが不思議に思った時、空気の流れが変わって、どこか部屋の中に入った事に気が付いた。
 来る時はずっと通路のような場所を進み、どこにも立ち寄る事は無かったというのに。間もなく繋がれていた手が離れたかと思えば、の目隠しがはらりと解かれる。久々の光に一瞬だけ目を顰め、改めて前を見たの視界には、正面から真剣な眼差しで彼女を見つめるハンの姿があった。
さんに頼みがあります。どうか、聞いていただけないでしょうか」
 やけに気迫のこもったハンに気圧されながらもが周囲を確認すると、そこは狭い部屋に小さなシステムキッチンが備え付けられた所謂給湯室のような場所であった。おそらくまだ建物の外には出ていないため、コミジュル内部にはこのような場所もあるのかと、彼女は改めて目を見張る。
「(キッチンが新しい……。この部屋は後からリフォームしたんだろうな)」
 思わずそんな事を考えてしまってから、はハンが返答を待っている事に気が付いて改めて彼と視線を合わせた。
「あ。その、勿論私で出来る事であれば協力します」
 が答えるとハンは安堵したようだった。しかしまたすぐに、その表情は翳る。
「頼みたい事というのは、これです」
 調理台に向けられたハンの目線を追うと、そこには丸い取手が付いた蓋付きのカップとソーサーが二客置かれていた。
 には見覚えがあった。それはつい先程ソンヒが使っていたものと同系の装飾であったからだ。格調高さとオリエンタルな雰囲気併せ持ったそれを彼女が手にすると、非常に絵になっていた。
「ソンヒが使っていたものと似ていますね」
「似ている……、そうですか。それではこちらのカップ、もう少しよく確認していただいても?」
 ハンの態度に気になる点を感じながらも、はコロンと丸い蓋の取手に指先を掛けた。
「えっ」
 すると。カチャンと小さく音がして、が持ち上げた蓋の下、割れたカップが左右に倒れた。
「ああ……」
 何が起きたか分からず固まっていたは、隣から聞こえたハンの呟きで我に返る。
「ごめんなさい、私」
 するとハンは伏せ目がちに倒れたカップに手を伸ばし、割れた箇所を合わせるように包み込んだ。
「このカップはソンヒのお気に入りで、私が釜山の蚤の市を訪れた際に見つけた年代物です」
「そんな」
「ええ、本当に──どうしたらいいと思いますか」
 弱ったように眉を下げたハンに視線を向けられては目を丸くした。
 ハンがそっと慎重に手を離すも、当然カップは元に戻る事は無く。割れた状態のまま倒れたその上に、彼の重たげな溜息が落ちた。
「ここしばらくは代わりのもので誤魔化していました。しかし察しのいいソンヒの事だ、そろそろ気が付く頃でしょう」
「は、はじめから割れてたなら言ってください。今私は、自分が割ってしまったのかと」
「……なるほど」
 その手もあったかと呟くハンに、は思わず非難の視線を向けた。冗談なのか本気なのか。も最近徐々に分かってきた事なのだが、彼の場合、意外にもどちらの可能性も考えられるからだ。
「失礼しました。そのような意図は無かったのですがまずは実際に見ていただいた方がいいと思ったのです。ソンヒと親しく、同じ女性であるさんのお立場からどうか助言をいただけないでしょうか」
「助言なんて。こういう場合は御本人から素直に謝られるのが一番ではないでしょうか」
「実際に割ってしまったのは私の部下なのですが、カップを割ったその日の内に失踪してしまいまして」
 それは、どうやら冗談では無いようだった。予想していたよりも不穏な気配が増してきた話の内容に、彼女は言葉を詰まらせる。
「追手を差し向けないのは、同胞に対する我々からのせめてもの慈悲です。組織を抜けて生きていく事の意味は、彼も当然承知の上でしょうから」
 ハンの話を大袈裟だとする事が出来ないのは、彼と近い世界、似た境遇にある者達の気苦労や嘆きをはこれまでにも目にしてきたからであった。上下関係や縦社会などといった言葉では括れない、絶対的強者による統治は存在する。
 から向けられる視線に同情の色合いが濃くなったのを感じ取ってか、ハンは自嘲気味にふと笑った。
「困らせてしまいましたね」
「いえ、大してお力になれず申し訳ないです」
「そんな事はありませんよ。私も、実際のところはこうしてただ愚痴のような話を聞いてもらいたかっただけなのかもしれません。“ハン・ジュンギ”を知る貴女にね」
 その言葉にが少し驚く。互いの素性については普段他の仲間がいる場所では口にする事は無い為、こうして改めてこられると不意打ちのように感じられる。まして彼が自分自身について言及するのは、初めての事かもしれなかった。
 の態度が分かりやすかったのか、ハンは彼女の心を読んだかのように続けた。
「ここまでくると、私だけが素知らぬ顔で通すのはフェアじゃないでしょう」
「いいんですか?そんな大事な話を私が聞いてしまって」
「もしさんが情報屋として私の素性を何らかの交渉事に使われるつもりであったなら、こちらも他のやり方を考えさせてもらうつもりでいましたが」
 ハンが薄く細めた瞳の奥に冷たい光が宿る。
 しかしそれもほんの一瞬。が思わず身体を固くした頃には、彼は何事も無かったかのように穏やかな笑みを浮かべていた。
「どうやらその必要は無かったようです。我らが敬愛したボスがかつてそうしたように、私は貴女を信用する事にしました」
「……今までは信用されてなかったという事ですね」
「性分なもので、どうかお許しを。……それに、こうして自分の事を誰かに話す事も悪くないと思えたのは、つい最近の事ですので」
 そう話すハンの心変わりには、おそらく春日が関係しているのだろうとは直感した。本人にそのつもりは無くても関わる相手の心に強い影響を与える事が出来る、春日もまたそういう力を持つ人間だ。そして──、

 “かつて”の彼がそうしていたように。ハンはに呼び掛けると、彼女に向かって右手を差し出した。
「今後は私もそう呼ばせていただいても?許していただけるのであれば、貴女の友人として」
「ええ、勿論。よろしくお願いします」
 断る理由など無いがハンの手を握り返すと、彼も表情を和らげる。そうしたところで、ハンは再び彼が置かれた現状を思い出すと。
「それでは、私はこれからソンヒの元へ謝罪に行きますが……友人であるに改めて頼みます。私に万が一のことがあった場合、春日さん達にはどうかよろしくお伝え下さい」
 ついに覚悟を決め、戸惑うへとそう託したのだった。



 + +



「どうしたの?何か落ち着かないみたいだけど」
 あの後コミジュルの外まで送り届けられたは、ハンより先にサバイバーに戻ってきていた。待つ間、店の入口を気にするに、その正面に座る紗栄子が不思議そうに声を掛ける。
 するとカウンター席でナンバらと語らっていた春日が、彼女らの方へぐるりと椅子を回した。
「そういやハン遅えよな。と一緒に出てたんだろ」
「確か、ちゃんがソンヒに呼ばれてたんだっけ」
 同じくカウンター席で肘を突いていた趙がそう言って、流すような視線をに向けた。
「大丈夫?いじめられたんじゃない?」
「そんな事ないですよ。ただ話を、!」
 趙の言葉にが応えていた時、店の扉が開いてちょうど彼らの話題に上がっていたハンが姿を表した。自身に注目が集まった事を感じ取って、彼も一同に対して顔を向ける。
「これは申し訳ない、お待たせしてしまったようです」
「いや、足立さんも腰に貼る湿布買いに行くって出てったきりだからな。俺達もゆっくりさせてもらったとこだよ」
「腰痛ですか。あの年代の方ですと、慢性化してしまわないか心配ですね」
 ハンはそうして春日に言葉を返すと、彼の方へ物言いたげな視線を向けていたに気が付き、その席の方へと歩み寄った。も隣に来た彼を見上げる。
「どうでしたか?」
「ええ、それが予想外に首尾よくいきまして」
 どこか意味有りげな彼らの会話に、一同の耳が思わず大きくなる。
「けじめとして、件の部下を呼び戻し直接謝罪だけはさせるようにと。話を大きくし過ぎだと、むしろ呆れられてしまいましたよ」
「良かった。素敵なカップだったので、それは残念ですけど……」
「それについては今度また替わりのものを用意しようかと。それで、もしよろしければその際にはご一緒していただけないでしょうか。が選んだものであれば、おそらくソンヒも喜ぶと思うのです」
 ハンの口から飛び出した決定的な発言に、周囲の空気がざわっと揺れた。中でも紗栄子は興味津々に瞳を輝かせながら、彼女らに向かってすかさず身を乗り出す。
「えー、何なに“”って!二人とも、何か知らない内に距離感近くなってない?」
「そうですか?以前からこのような感じだったと思いますが」
 先に紗栄子に応えたハンから「そうですよね」と同意を求められたは、その流れに乗って頷いた。今回彼がいくらか心を許してくれた事は、彼女にとっても喜ばしい事であったからだ。
 が紗栄子からの尋問を楽しげに受ける傍ら、ハンは先程ソンヒに言われた言葉を思い出す。

──“折角私が機会を作ってやったというのに、そんなくだらない報告をする為に戻ってきたのか”
──“どうせなら、この件をダシに使って誘い出すくらいはしてみせろ。お前ならそれくらいの事は容易いはずだろう?”

「(しかしソンヒ……、私はようやく彼女の友人になれたばかりなのですが……)」
 そちら方面でも相変わらず容赦無くスパルタな主に対し、内心そう告げるハン。
 そんな彼らの様子を少し離れたカウンター席から窺っていたナンバは、グラスを揺らしながら感心したような口調で言った。
「は〜……、さすがイケメンは仕事が早えな。ありゃ俺らには出来ねえ芸当だわ」
「おい、そこで一緒にすんじゃ、!」
 ナンバに反論しようとした春日だったが、突然ギクッとその言葉を途中で止めてしまう。ナンバは首を傾げると、自身の肩越しに向けられた彼の視線を追うように、反対隣へと顔を向けた。するとそこに座る趙は、ナンバに対して瞳を薄く細めながら、冷ややかに──。
「一緒にすんじゃねえよ?」
「い……、いや、俺は趙には言ってねえぞ。お前はほら、結構整った顔してんじゃねえか。なあ、そうだよな一番」
「お、おお。俺もそう思うぜ。そりゃあナンバや俺とは一味も二味も違うっつうか」
「あーいいよ、冗談冗談。それにおじさん二人に褒められても嬉しくないし」
 慌てる二人を見てくつくつと可笑しそうに笑いながら、趙はそのまま視線を再びらの方へと向ける。
「何も気にしてないからさ、本当」
 むしろ一層愉しげに、うわ言のようにそう呟く趙。春日とナンバは不穏な気配を感じつつも、これ以上は触れまいと心に決めたのだった。