重たいマンホールの蓋を持ち上げると、地上からの光が射し込んでくる。もう随分と久しぶりに見た気がするそれに春日は眩しげに目を細めた。
「おい、後がつかえてるんだ。早く上がってくれよ」
「!おっと、悪ぃ悪ぃ」
 下から声を掛けるナンバに急かされるようにして春日が梯子を登りきると、残りのメンバーも後に続いて姿を表した。外に出るなり、紗栄子は周囲をそわそわと気にしながら身なりを整える。
「ねえ、大丈夫?今出てくるところ誰かに見られたりしてない?」
「はは、そんな事か。もう何度も行き来してるんだし、見られたとしても誰も気にしてないだろ」
「そりゃあナンちゃんみたいなのが出てきても誰も気にしないかもしれないけど、私みたいないい女が出てきたら違和感どころの話じゃないでしょ」
「お前な……」
 紗栄子とナンバがいつもの調子でやり取りをしている横で、足立が首元を掻きながら春日に尋ねた。
「俺も今更人目は気にしちゃいねえが……春日、お前最近やけにここに潜るよなぁ。おかしな連中の溜まり場になってるだけで、そう面白いもんは無いと思うんだが」
「何言ってんだよ、足立さん。その“おかしな連中”の中にいるだろ、はぐれホームレスが」
「はぐれホームレスぅ……?」
 熱っぽく語る春日は、力強く拳を握って続ける。
「あいつを倒すと経験値がガッポリもらえるからな!ここはレベル上げにはもってこいの場所って事よ」
「まあ、不思議と腕が上がったような気はしてるが……」
「相変わらずそういうのが好きだな、お前も」
 事情を知る足立とナンバが呆れた表情を見せる中、会話に加わってきたのはハンと趙だ。
「失礼。それは何の話です?」
「俺知ってるよ、ドラクエでしょ」
「おお、趙も結構ゲーム好きそうだもんな」
 すると、春日は嬉しそうに破顔しながら趙の肩をバンバンと叩いた。
「いやー、はぐれホームレスは堅くてなかなかダメージが通らないからな。毎回趙の連続技には助かってるぜ、ありがとよ!」
「え。ああ、うん。役に立ててるなら良かったよ」
 それでも何の事なのかいまいちよく分かっていない他の面々に対して、ナンバが説明を付け加える。
「何でも一番には喧嘩の時に、敵も味方もゲームのキャラクターみたいに変身した姿に見えてるんだとよ」
 その言葉に一瞬、各々が反応に戸惑うような間が空いた後。
「まあ、一番も色々と苦労してるから……」
「しかし乱用はあまりよろしくないですね」
「春日君も薬とかやるんだ」
「やってねえよ!!」
 あらぬ疑いを掛けられた春日は怒鳴ると、一歩引いた位置から彼らのやり取りを見ていたにバッと顔を向けた。その剣幕に、は思わず身構える。
は分かってくれるよな!?こう、つまりはイメージみたいなもんなんだって、俺が言ってるのは!」
「イメージという事であれば」
 前のめりになりながら距離を詰めてくる春日の勢いに気圧されつつ、は彼を宥めるように同意する。
「あのさ、とりあえず移動しよ?ね?」
 気まずそうな紗栄子の視線を追うと、頭上の橋を渡る人々が、その下で騒ぐ謎の集団に物珍しげな眼差しを向けていたのだった。


 + +


 一同が移動した先は、やはりそこからほど近いサバイバーであった。各々がいつもの定位置へと落ち着くと、話題は先程の続きに戻る。春日はカウンターに項垂れながら大きな溜息を吐いた。
「何かお前らに言われたら自信がなくなってきたわ……。そういや昔よ、ミツの野郎からもいちいち相手の攻撃受けるのはドMじゃないかって言われたんだよなぁ」
「ははは、ドMか!いいじゃねえか、なにも恥ずかしがる事じゃねえぞ?」
「だから、違うって!」
 豪快に笑う足立にばんばんと背中を叩かれながら言い返す春日。するとその背後、ピアノ側のカウンター席から、趙は彼らの方へ身体を向けて声を掛けた。
「でも実際、指示は的確だと思うよ」
 すると趙の隣で、ハンも彼の言葉に頷いた。
「同感です。春日さんならではのユニークな発想も、戦略的に見ると正しい事が多いですからね」
「そうそう。およそ戦いは正を以て合い、奇を以て勝つって言うけど、春日君のやり方ってそんな感じだよね」
「へ?およそ戦いは……?」
 趙の言葉に疑問符を浮かべる春日に、ナンバが隣からこそっと声を掛ける。
「確か孫子の兵法だろ」
「あ……あー、それな!ええと、つまり……褒めてくれてるんだよな……?」
「勿論」
 すると春日は先程まで暗くしていた表情を明るくして、両隣のナンバと足立の肩にガバっと両腕を回した。
「ほーら聞いたかよ、二人とも!俺のドラクエ戦法は間違ってねえってよ!」
「だー!分かったから離せ!ナンバはともかく、俺は綺麗なお姉ちゃん意外に抱き着かれる趣味はねえよっ」
「俺だってそうだよ!というか、おっさん三人でこの距離感はきついだろ!」
 相変わらず騒がしい春日らに窓際のテーブル席から顔を向けるのは紗栄子、そして、その正面に座るのはであった。
「うるっさいなぁ、もう。少しは落ち着くって事が出来ないのかしらねー……」
 そう言いながら、紗栄子はふっと表情を和らげた。
 口で呆れたような態度を取りつつも瞳を細める彼女の横顔は、まるでやんちゃな弟達を見守る優しい姉のようであり──。
「いや、おじさん三人が弟とか無いから。その場合だと私の歳いくつになるのよ」
「それは例え話というか」
 しかし案の定、の言葉に紗栄子はナイナイと真顔で手を横に振って否定する。はそれも彼女なりの照れ隠しなのではと思ったが、これ以上は機嫌を損ねそうなので黙っている事にした。
 そんなの前で、今度紗栄子は短く溜息を吐く。
「でも正直、私も一番の事言ってられないんだよね」
 その言葉に対し、は視線で問い返す。すると紗栄子は少し躊躇うようにしてから、テーブルの上で腕を組み、前のめりに彼女へと顔を近付けた。
「あのね、なんかさ。厄介な連中を追い払った後に、今の私ってちょっとアイドルみたいだったかもー……なんて」
「アイドル?」
「や、やっぱ自意識過剰だよね!?一番じゃあるまいし私もそういう妄想はどうかと思うんだけどさ」
「いいや、そいつは妄想じゃねえぜ」
 紗栄子とが顔を上げると、彼女らのテーブル横にはいつの間にか春日が立っていた。
「今さっちゃんのジョブはアイドルだからな!当の本人がそう感じるのも不思議はねえよ」
「は……?……えっと、私っていつアイドルになったの?」
「そんなの、随分前からさっちゃんは俺らのパーティのアイドルだろ」
 平然と言ってのけた春日に一瞬言葉を失った後、紗栄子は彼から視線を逸して恥じらうように身を動かした。
「そ、そうなんだ。私はアイドルかぁ……、へへ」
 満更でも無さそうにする紗栄子に対して、春日は不思議そうに首を傾げている。
「なあ。そのジョブ……ってやつ、ひょっとして俺達にも何かあるのか?」
 すると足立が、彼らの背後でそろりと手を挙げた。
「いやあ、実は俺にもちらっとおかしな光景が見えた事があってな。その時は前の晩の酒が残ってたのかくらいに思ってたんだが」
「勿論あるぜ。ただ、今は皆わりと初期のやつに落ち着いてるな。足立さんだと刑事とか」
「刑事!免許センターの職員じゃねえのか、それは悪い気しねえなあ」
「って事は、俺の場合は看護師ってところか?」
「いや、ナンバはホームレス」
「ホームレスは職業じゃねえよ!」
 その話を聞き、興味深そうに口を開いたのは趙だった。
「つまり、初期のジョブは春日君から見た時の第一印象って事?」
「ん〜……俺も深く考えた事は無いけどそうなるのか?あ、ちなみに趙はマフィアでハンはヒットマンって事になってるぜ」
「はは、俺マフィアなんだ。春日君、まんまだねー」
「私はヒットマンですか……」
 神妙な面持ちで、春日の言葉を繰り返すように呟くハン。それに気が付いた春日は、ややばつが悪そうにして声を掛ける。
「ひょっとして、気悪くさせちまったか」
「いいえ、そういうわけでは。ただ、その……おかしな事を聞くかもしれませんが、春日さんが見るビジョンの中で私がワインボトルのようなものを持って戦闘をしたりという事は……」
「ああ、少し前まではホストだったからな」
「ホスト!?」
 やや声を上ずらせて珍しく動揺を見せたハンに、ナンバは意外そうな表情を浮かべた。
「そんなに驚く事かね。お前さん確か経験者だろ」
「あれは私のスマートな接客とは全くタイプが違います。……どうやら春日さんは、ホストという職業に対して少し偏見があるようですね」
「わ、悪い。強いんだけどな、ホスト……」
 ハンに鋭く目を光らされ、春日は引きつった笑みで返した。そこで話が一区切りついたところで、紗栄子がポツリと口を開く。
「という事は、一番だけじゃなく皆似たような光景に覚えはあるって事ね……」
 その呟きに対してそれぞれが顔色を窺うように見合う様は、無言の肯定を示していた。春日のようにその場全体に作用するものではないとして、少なくとも、己の姿に錯覚めいたものを感じた事はあるのだと。
 カウンター内でグラスを磨いていたマスターが手を止めて、怪訝そうに眉根を寄せる。
「おい……、お前ら集団で何かヤバイもんに手出してるんじゃねえだろうな。悪い事は言わねえ、やめとけよ」
 皆が否定出来ず重い空気を漂わせている事に責任を感じてか、春日は敢えておどけるようにその場でくるっと軽快なターンを決めて、振り向きざまにカウンターの方へと指先を向けた。
「そーんな事言って!実はマスターの手作り弁当に何か入ってたりし──」
 春日の言葉にマスターは薄く、笑みを浮かべていた。涼し気な瞳の奥に息を飲むような凄みを感じた春日は、すすす……とその指先を下げていく。
「す、すんませんっした……」
「ああ」
 分かればいいとばかりに短く応えて、マスターは再び手元に視線を戻す。
 この寡黙な男が謎多き過去の一端を垣間見せる度、それを何とも言えない表情で見つめるのはであった。
 そんなだが、実はこの話題中は出来る限り己の存在を消すよう努めていた。ゆえあって、今の彼女の願いは、皆の関心が一刻も早く他へと移る事であったのだ。しかし──。
「ところで、ちゃんはどうなの?」
 その言葉には小さく肩を揺らす。
 の思惑を知ってか知らずか。グラス越しの瞳を薄くして問い掛けてきた趙に、彼女は取り繕うかのように急いで口を開いた。
「私は特に」
「…………、あ」
 するとの態度に何か思い当たる事があったのか、春日がやや遅れて反応を示した。今度皆の注目が春日に移ると、彼は明らかに気まずそうに視線を泳がせる。
「あ、って何よ」
「え?あ〜……その、何っていうか……」
 口ごもりながらの様子を窺った春日は、そこで思わず顔を逸らした彼女に、慌てて声を上げた。
「違っ、違うぞ!俺はの打撃を活かすのに向いてると思っただけで、ボンテージ姿に対しての下心は断じて」
「春日さんっ」
 珍しく声を張ったに制止されると春日はハッと口を抑えた。
 周囲から、様々な感情の入り混じった視線が彼に向けられる中。で、だからこの話題には触れたくなかったのだと──消え入りたいような気持ちで俯いていた。


 + +


 が“その姿”の自分を見るのは、実力以上の力を出せていると感じている時が多かった。
 かつて関わってきた強者達の話を思い返すと、苛烈な戦いの中オーラのようなものを纏う事で、更なる強い力を引き出す者もいるのだと聞いた。おそらくはそれに近い現象なのではないか。つまり、春日が話したようにそこに下心なんてものは存在していないのだと。
「でも、一番ってたまにのおしり見てる時あるよね」
「え」
「人聞きの悪い事言うんじゃねえよ!」
 否定する春日だが、こうなった場合に強いのは当然紗栄子である。彼女は負けじと彼を指さして返した。
「見てますー!私も何かの拍子で目がいくのは仕方ないと思ってたけど、あれがボンテージに見えてるなら話は変わってくるからね。痴漢よ、痴漢」
「痴漢ってな……だから、ああいう気を張らなきゃいけない場面でそんな事考えてねえって」
「本当に?絶対?少しも?」
 紗栄子が畳み掛けると、春日はうぐと言葉を詰まらせた。彼は、申し訳なさそうにの方をチラと見てから。
「そりゃまあ……、少しくらいは」
。やっちゃっていいわよ」
「春日さん……」
「こ……、こればっかりは仕方ねえだろ!?男ってのはなんつうか、そういうもんなんだからよ……!」
 そう言って鼻息も荒く居直る春日が、ひたすら墓穴を掘り続けていた頃。
「くそ、あいつのよく分からん特技を羨ましいと思う日が来るなんて思わなかったぜ」
 その背後では、悔しげなナンバの言葉に残る男性メンバーが各々頷いていた。
ちゃんは女王様って感じじゃないけど、そこはギャップで逆にありだよね」
「なんだ趙、もしかしてお前も春日と同じ性癖か?ははっ、馬渕に拷問されてた時はあれだけ弱ってたのになあ」
「な。おい、あんたちょっとそれは」
 春日や足立より早くにこの街に来たナンバは、マフィアのボスであった頃の趙についても彼らよりは見聞きしている。こうして仲間になったとはいえ、さすがに今の足立の発言は気安かったのではないか。そんなナンバの心配をよそに、当の本人である趙は気にする様子も無くあっさりと応えた。
「そりゃあ、馬渕みたいなごついのにされるのとちゃんみたいなきれいな子にされるのとじゃ、話は別でしょう」
「おお……まあ、そういうもんか」
「いいよ、俺。ちゃんが相手ならドMでも」
「まったく……」
 そこで呆れたような呟きを漏らしたのはハンだ。他三人の視線が向くと、彼は表情を引き締める。
「皆さん一体何の話をしているんですか」
「……確かにちとふざけすぎたか。悪かったよ」
「今論ずべきは、どうしたら私達にも春日さんと同じ光景を見る事が出来るかでしょう」
 予想外の返答に、謝罪を入れたナンバが思わず、は?と間の抜けた声を出す。
「自分自身の姿について感じる事は出来るわけですから、可能性が無いわけではないと思うんですがね……」
 本人が真剣な表情を保ったままである為なかなか指摘しづらい雰囲気の中、年長者である足立が頭を掻きながら言葉を選ぶように口を開く。
「そりゃあつまりお前さんも“見たい”って事か?」
「ええ。見たいです」
「うお、あっさり言ったぞ」
「意外……、でもないか。よく考えたら、わりと元からこういうノリだったよね」
 そこにナンバと趙も加わって互いの理解を深め合っていると、大して広くは無い空間でどうしても彼らの会話が耳に入ってきてしまうは、益々浮かない表情を見せていた。
「春日さん……私、転職って出来ないんでしょうか」
「あ、ああ。そろそろランクも上がりきる頃だから、検討してもいいと思うけどよ」
「けど……?」
 これは春日の勘であったが。何となく、近いうちに更なる“やりこみ要素”のようなものが追加されそうな気がして──つまり、がそれを極める道のりもまだまだ長くなりそうだと──当然彼女にそんな事を伝えられるはずもない春日は、後ろめたそうに視線を泳がせるしかなかったのである。