午後の試験を終えた春日が大海原資格学校を後にしようとすると、自動ドアのガラス越しに彼の仲間の一人である趙の姿を見つけた。
 その場からヒラヒラと片手を振ってくる趙に対し、春日は何か約束をしていただろうかと自身の記憶を探るも、特にこれといった心当たりはなく首を傾げる。そうして外に出た彼に、趙は親しげに声を掛けてきた。
「お勤めご苦労さま」
「悪ぃ、何か約束してたっけか」
「いや何も。ただ外から春日君のこと見掛けたからさ、本当に勉強してるんだなと思って」
 会話をしながらどちらともなく並んで歩き出す。この後は皆サバイバーで落ち合う予定になっていたので、向かう先は同じだ。
「なんだよ、気になったんなら入ってくりゃ良かったじゃねーか。俺でよければ案内するぜ。あそこだったら顔見知りもいるしよ」
「一緒に試験受けてると仲良くなったりするんだね」
「ああ、俺なんか勉強の仕方なんて完全に忘れちまってたところからだろ?それでコツとか教えてもらったりしてな」
「ふーん……。今日はそのオトモダチの中に、黒髪の癖っ毛で中肉中背、緑色のシャツと黒いショルダーバッグの男っていたりした?」
「は?誰のこと言っ──」
 春日の返事を聞き終わる前に、趙が踵を返した。
 趙はそのまま一切の躊躇も無く彼らの背後に距離を取っていた男の眼前まで距離を詰めると、反射的に身を引こうとした男の胸ぐらを片手で掴み引き寄せる。
 僅かながらも抵抗を試みようとする男に、彼は更にグッと顔を近付けた。怯えた瞳を覗き込むその表情はやけに楽しげだ。
「じゃあ、ずーっと付いてきてたこいつはひょっとして熱狂的なファンってやつかな。相変わらずモテるじゃない、春日君」
「おい、止めとけ!たまたま方向が同じってだけかもしれねえじゃねえか」
「俺の勘違いって?」
 そう言われると、春日には趙がその辺りの判断を誤るようには思えなかった。ではどういう事なのかと問うように視線を投げると、それまで顔を青くしていた男は必死になって口を開く。
「待って下さい!僕はただ忘れ物を渡したかっただけで、それでどう声を掛けようかと……」
「忘れ物って、俺のか?」
「貴方ではなくて、以前に貴方と一緒にいた人で……こ、こちらの方も」
 そこで男が趙の顔色を窺うようにチラと見ると、彼はやや瞳を薄くして、男の胸ぐらを掴んでいた手をようやく離した。突如呼吸が自由になったことで咳き込む男の傍ら、春日は頭に手をやりながら考える。
「趙も一緒にって事は、うちの面子の誰かか……」
「結局本人には声を掛けられなくて……。貴方とその人が一緒に歩いてるのを見て、資格学校にわざわざ通うくらいなら見た目より怖くない人なんだろうし、代わりに頼もうと……」
「そりゃ別に構わねえけど……。その思い込みも何か危なっかしいから気を付けた方がいいぞ」
 同じ資格学校に通っているくらいで話した事もない相手の人間性を測るというのは、春日には些か軽率に思えた。
 趙が先に手を出した事も原因だろうが、男の様子はどこか落ち着きなく口調も早口で、会話自体もあまり噛み合っていない。するとそれまで春日と男のやり取りを黙って聞いていた趙が、口を開いた。
「春日君。その忘れ物をしたのが誰なのか聞かなきゃ」
「おっ……と、だな。俺達の中で忘れ物とかしそうなのは……、足立さんか?あの人元刑事のわりに適当っつうか、大雑把だし」
「名前は分からないんですけど……え、えっちな女の人です」
 男の口から出た意外な言葉に、春日と趙は「え」と声を揃えて思わず動きを止めた。そんな彼らの反応には構わず、男はそこから堰を切ったように続けた。
「きっとこの忘れ物をしたのはさっき入れ違いになった人だろうって、すぐ追い掛ければ間に合うって。でもあの日はコインランドリーに他に怖そうなおじさんがいたんですよ。その人に睨まれたような気がしてそれで咄嗟に」
 何かに対して後ろめたさがあるのか、男の口調は追い立てられるようにどんどん早くなっていく。
「僕が悪いんですか?資格の勉強だってしなきゃならないのに、このおかげでずっと気が散って集中出来なくて、それでも僕が悪いんですか?」
 ガシガシと乱暴に頭を掻く男。段々と様子がおかしくなってきた男に、春日は言葉を選ぶように声を掛ける。
「お、落ち着けって。忘れ物をわざわざ届けてくれたんだよな。だから少しはこっちの話も聞、うぉ!?」
 男は話している途中の春日の胸元に紙袋を押し付けると、そのままダッと駆け出し去っていった。紙袋を手に呆気に取られる春日に対して、趙はからからと笑う。
「思ったより危ないタイプだったねぇ。その紙袋が刃物とかだったら春日君死んじゃってたかもよ」
「笑えねえよ……!」
 状況的にこの紙袋の中身が、男の話していた忘れ物なのだろう。振ってみるとやけに軽いその感覚に首を傾げながら、春日は続けた。
「えっちとか言われてもな……、お色気担当っつう線で考えるとさっちゃんか?」
「俺は、ちゃんだと思うけど」
「つうかそのパターンで趙に聞いたら何でもになるだろ」
 呆れたような春日の言葉を肯定するように、趙はニッと軽い笑みをみせた。
「それはそれとして、ちゃんコインランドリー使ってるからさ。その近くで見たって事なら、俺も一緒に歩いてた事あるし。だから──」
「おぉ、そういやそんな事言ってたな。へえ〜、が忘れ物ねえ」
 趙の言葉を最後まで聞く前にガサゴソと紙袋の中身を物色し始めた春日に、趙が「あ」と声を上げる。しかし、春日が声に反応してそちらを向いた時には、彼の手には既にその忘れ物が握られていた。


 + +


 事態をすぐには飲み込めない様子の春日に代わって、珍しく少し戸惑ったように口を開いたのは趙であった。
「取り敢えず、その状態で固まるのはどうかと思うよ」
 その言葉にハッと我に返った春日は、手にしていたものを再び勢よく紙袋に押し込んだ。
 未知であるようで慣れ親しんだような、懐かしくも馴染み深い、男のそれとはまた違う艷やかな手触り──動揺する春日に対し、趙は落ち着いた様子でふぅんと自身の顎を撫でると。
「Tバックだったね」
「おい!」
 このまま何となくやり過ごそうとしていたものを、むしろ更に深掘りするような趙の発言に、春日は慌てたような声を上げた。しかし趙はそんな春日の反応すら面白がるように笑って、彼の肩に手を回す。
「駄目だよ、春日君〜。コインランドリーにあった忘れ物でその紙袋に入るサイズって、絶対勝手に開けちゃいけないやつでしょ」
「俺は何もそういうつもりは……って、分かってたなら言えよ!」
「言おうと思ったら先に開けちゃうから」
 趙の誘導で人目のつかない道の端に来た二人は、植え込みの縁に腰を下ろした。
 紙袋を持つ春日の手は、一度中身を確認してしまったせいか、どうしてもその扱いに慎重になってしまう。先程は中身を確かめるため気軽に振ったりなどしていたというのに、今はほんの僅かな衝撃ですら割れてしまうガラス細工でも手にしているような気分であった。
「よく考えたら、俺がこいつをに渡さなきゃなんねえのか……?」
「そうなるだろうね」
「いやいや、無理だろ!どんな顔して渡しゃいいんだよ」
 先程の男が本人に直接声を掛けられなかったという話も無理はない。絶対に中身は見ていないと伝えたとしても、状況的にどうしたって疑念は残るだろう。
 それに実際は見たどころか直接触ってしまった春日からすると、ますますどんな顔をしてこれをに渡せばいいのか分からなかった。そんな春日の隣、趙は上半身を倒して、彼の顔を下から覗き込むようにしながら口を開いた。
「普通に渡したら?春日君は頼まれただけなんだし」
「そう言うなら趙が渡してくれよ。お前、何かそういうのすっと出来そうじゃねえか」
「まあ、春日君よりは上手く出来ると思うけど」
 趙は「んー……」と唸りながら身体を起こした。
 春日が色よい返事を期待してその横顔を固唾を呑むように見つめていると、やがて趙はサングラスの隙間から悪戯めいた視線だけをニッと彼に寄越して。
「ごめん。俺ちゃんとは清いお付き合いしてるから、そういう話題はNGで」
「なっ……お前、別にそういうガラじゃねえだろ!」
「あー、そういう事言うんだ。人を見た目で判断するのは良くないと思うよ」
 そこで趙にからかわれたという事に気が付いた春日は悔しげに口を尖らせた。
「よく言うぜ……、ちゃっかり同じ家に連れ込んどいてよ。アジト代わりとか言って、絶対に下心あるだろ」
「そう。だから、こんな事がきっかけで距離を取られちゃ困るんだよね」
「は……」
 すると趙は今度、前方に向かって軽く片手を上げた。つられてそちらに視線を向けた春日は、彼らの姿を見つけて歩み寄ってくるに、驚いて目を丸くする。
!?なんでここに……!」
 背後の植え込みに倒れ込みそうな程の大きな動揺をみせた春日に、は僅かに首を傾げて足を止めた。
「?趙さんから、サバイバーに行く前にここに寄るよう連絡をもらったんですが……」
「お前、いつの間に……」
「さっき話してる途中に。多分皆が集まっちゃうと、こういう話は切り出しづらくなるでしょ」
 趙の言う事はもっともだと春日は思った。
 気が回る彼の事だから、おそらく自身の事も気遣ったのだろう。すると春日も覚悟を決めたのか、彼の前に立つに対し、改めて顔を上げた。
「あー……なんだ、別にそうかしこまった話じゃねえんだが……」
「あっ」
 すると、春日が話し出した所で、が小さく声を上げて背後を向いた。
 見るとの足元には散歩中らしき小型犬が人懐こくまとわりついていた。飼い主の女性が慌てたようにそのリードを引きながら、頭を下げる。
「ごめんなさい!この子、急に走り出してしまって……」
「大丈夫ですよ」
 女性に応対し、腰を軽く屈めて「またね」と犬を軽く撫でてから、は再び春日らの方へと身体を向けた。
「すみません、お話の途中で」
 しかし──、先程と違ってどうにも“視線”が合わず彼女は不思議そうに再度呼び掛ける。
「春日さん?」
「……え!?」
 ハッと我に返ったように慌てて顔を上げた春日に、趙がその隣から呆れたように声を掛けた。
「春日君って、分かりやすいよねえ……」
「い、いや、俺ぁ別に」
 気まずそうに口ごもる春日を前に、もここまで彼を躊躇わせるその話が何なのか、段々と不安になってきていた。
「心配しなくても、そう深刻な話じゃないよ」
 するとの心の内を見透かしたようにそう言った趙が、春日の手にしていた紙袋を取って、彼女に差し出した。反射的に受け取ったに、趙は続ける。
「春日君と同じ資格学校に通ってる子がコインランドリーでちゃんの事を見かけたみたいでさ。それがちゃんの忘れ物じゃないかって預かったんだけど、中身確認してもらえる?」
「忘れ物ですか?」
 は、言われた通りに紙袋を開封していく。
 話の流れについていけず反応が遅れた春日は、趙を肘で小突きながら彼女には聞こえないよう声を潜めた。
「おい……、ここで開けさせるのはまずいんじゃねえか……?」
「大丈夫」
 一体何が大丈夫だと言うのか。やけに落ち着いた態度の趙に春日は怪訝そうにする。するとその間に中身を確認したが、明るい声を出した。
「ああ、これ!取ってくれてた方がいたんですね」
「え、意外とそんな反応……って、いや!俺達は中身は見てねえんだけどよ」
「届けてもらえて良かったです。キャサリンちゃんが探してたので」
「……へ?キャサリン?」
 の言葉を聞いた春日は思わず間の抜けた声を出す。すると趙はそんな春日をにこにこと楽しげに見ながら、彼に声を掛けた。
「大丈夫って言ったでしょ」


 + +


 ぜひ直接礼を伝えたいとの事で、春日とキャサリンは直接の対面を果たす事となった。普段はキャサリンが夜から勤務しているという、この時間はまだ準備中となる店で熱烈な“感謝”を受け取った春日は、ふらふらとした足取りで階段を降りる。その後には、彼に同行した趙とが続いた。
「私は、何度かコインランドリーで顔を合わせたご縁で仲良くしていただいて。話は聞いていたので、春日さん達のおかげで力になれて良かったです」
「ああ、そうなんだ。……それにしてもキャサリンさん、俺や春日君より明らかに腕太かったよね」
「普段から鍛えてるらしいですよ」
 ようやく地面に降り立った春日は、そこで気を取り直したように勢い良く趙の方を振り向いた。
「お前、さては分かってやがったな!?」
 最初に声を掛けてきた男が話していた、その日のコインランドリーにもう一人いたという“怖いおじさん”。先程キャサリンと対面した事でそれらの点と点が線となった春日が抗議の声を上げると、趙は彼を宥めるように「まあまあ」と両手を上下させた。
「結果、無事に落とし主の所まで届けられたんだから良かったじゃない」
「調子のいい事言いやがって。けど、どの時点で気が付いたんだ?」
「ひょっとしたら春日君も気が付いたかなと思ったんだけど……、デザインはともかくフロントの作りは俺達寄りだったでしょ」
 言われてみると。デザインは女性もののそれと遜色なかったが、フロント部分には何かをカバーするようなゆとりと厚みがあったような気がする。つまり、男性にあって女性にないナニかを、だ。
 趙の解説を聞いた春日はそれをあの短い時間で見抜いた彼に感心しつつ、自身も実際手にしたその感触を思い出し納得した。
「はあ〜……、なるほど」
「そもそもあれが本当にちゃんのだとしたら、俺は最初に紙袋を渡してきた奴からは、もう少しじっくり話を聞いておきたいところだったかな」
「まあ、あいつも確実に勘違いしてたよなぁ……」
 するとそれまで春日と趙の会話を聞いていたが、言いづらそうにしながら口を挟んだ。
「あの……、さっき春日さんは中身は見てないって」
「!いやっ、それは」
「ごめんごめん。俺達も突然預けられたものだから、不可抗力だったんだよね」
 ぎくっと身体を跳ねさせた春日に代わって趙が謝罪の言葉を述べると、は少し考えてから頷いた。
「そうですよね……、今の状況だと用心はするべきです」
 が納得した事で、春日はほっと安堵の表情をみせた。
「そうでなくても、俺はおかしいとは思ってたぜ?のイメージ的にTバックって感じでも……、あ」
 それは気を緩めた事でつい口をついて出た言葉だったが、その誤りに気が付いた春日は途中でハッと顔色を変えた。
 春日は、軽蔑の眼差しを覚悟しながらおそるおそるの様子を窺う。しかし彼女はどこか反応に困るような──つまり、否定も肯定も出来ずに──恥ずかしそうな表情をみせながら、それを誤魔化すように彼らの脇を早足で過ぎた。
「もう行きましょう、皆さんを待たせてますから」
 そう言って、は先に歩き始める。その場に残された春日と趙はそんな彼女の背を見つめながら。
「……たまの親切はするもんだね」
「ああ……、本当だな」
 何か大きなものを得たような充足感に、男同士で頷き合っていたのだった。