猥雑な街の雰囲気の中に身を潜めるかのようにひっそりと佇む雑居ビル。その部屋の中には、少し前からそこを“アジト”としている趙がいた。彼が背を壁に預ける傍ら、大きな窓ガラスの外にはすぐ隣の建物の壁が迫るようにある。そのため室内は昼間でも薄暗かったが、彼は照明も点けないまま、メモの切れ端のようなものに視線を落としていた。
 その視線がふと持ち上がったのは、鉄骨の外階段を上がってくる足音が聞こえたからであった。サムターンが回ってドアが開くと同時、彼は手元のメモをポケットにしまうと、瞳を薄くして人当たりの良い笑みを浮かべた。
「おかえり」
 趙に声を掛けられたは、後ろ手でドアを閉めながら驚いたような反応をみせた。鍵もかかっていたため、彼女としては中に人がいるとは思わなかったのだろう。相手が趙である事を確認すると、彼女は一瞬極限まで高めた警戒心をまた徐々に解いていった。
「いらしてたんですね」
「春日君に言われた時間まで微妙に空いてたからさ。そっちは?随分と大荷物みたいだけど」
 壁から背を離した趙がふと気が付いたように視線を向けると、は自身が両手に提げていた高級ブランドのロゴが描かれたショッパーを持ち上げた。
「皆さんから服をたくさん譲っていただいたので一度置きに来たんです。私がこちらに来てから服を買いに行った事が無いって話をしたら心配してくれて」
 紗栄子、えりといろは達が、が着られそうな服をわざわざ持ち寄ってくれたのだ。特に職業柄、衣装持ちである紗栄子が用意してくれた中には一度も袖を通していないという新品の服もある。女性らしい露出や曲線が意識されたそれらの品々を、スタイルのいい彼女のように着こなせるかがにとっては密かな問題でもあったのだが。
 荷物を床に降ろしたの傍までやって来ると、趙は興味深げにしゃがみ込んだ。
「こういう所に気が付けるのはやっぱり感性の違いってやつかな。駄目だね、男は疎くて」
「趙さんは私よりずっと詳しそうですけど」
 がやや意外そうな声を上げると、趙は自身のゴールドのバングルをするりと掴むようにしながら、彼女を見上げた。
「こういうのは、自分が好きなものを好きなようにしてるだけだから。横浜流氓の頃なんか、もっと総帥らしい格好しろってどやされてたし」
 しかしの経験上では、組織の上に立つ人間はむしろ服装などは自由な者が多かった。例えば、特に──幹部会から戻り、性に合わんとばかりに鬱陶しそうにスーツのネクタイを緩めていた人物の姿を思い出して──彼女は小さく笑いを零す。
 そんなの事を、趙はしゃがんだまま静かに見上げていた。
「……俺もちゃんに服おくっちゃおっかなー」
 そう言ってよっと背伸びしながら立ち上がった趙に、は手を振った。
「もう充分で──」
「ベタだけど、旗袍(チーパオ)とかどう?ちゃんなら絶対似合うと思うよ」
 旗袍(チーパオ)とはチャイナ服の事であったはず。
 しかしそんな事を気にするより、強引に畳み掛けるように言いながら朗らかな笑みを近付けてくる趙に対し、正体の見えない圧を感じたは後ずさりをした。


 + +


 趙は用事を済ませてから向かうという事で、だけが再びサバイバーに顔を出していた。カウンターにいた春日に彼からの伝言を伝える。
「そんなには掛からないと仰ってました」
「なんだよ趙もか。足立さんとさっちゃんも野暮用って言ってたし、時間通りに集まった暇人は俺らぐらいなもんって事かね」
「おい、時間を守った側がそんな事言われるのはおかしいだろ」
 春日の隣で抗議の声を上げたナンバは、そのまま背後を指さした。
「それに、それを言うなら最初に来てたのはハン・ジュンギだぜ」
 ナンバの言葉を受けて、店の隅で壁にひっそりと背を預けていたハンが静かに顔を上げた。その冷静な視線に射抜かれて、思わず唸った春日は気まずそうに顔を逸らす。
「い、いや、俺は何も冗談で言っただけでな」
 すると。ハンは、ふっと口元を緩めた。
「確かに少し早すぎましたかね。私も、これは長年組織にいて染み付いた癖のようなものですのでお気になさらず」
「へえ、意外だな。コミジュルってのは案外体育会系だったりするのか?」
 春日らの傍に来たハンは、ナンバの言葉を否定するように「いえ」と首を振った。
「そういうわけでは無いのですが。少なくとも、ソンヒから指定された時間に遅れようなどと考える者は一人もいないでしょうね」
「あ〜……、美人は怒ると迫力あるからな」
 春日が納得したように相槌を打つ傍らで、は彼の言葉について少し考えていた。
 周囲を束ねる人間には、ある程度の“格”というものが必要である。己より優れたものに従うのが生物としての本能。多くは経験により培われるものだが、中にはそれを生まれながら持ち合わせている者もいる。本人が望む望まないに関わらず、上に立つべき資格を持つ者が確かに存在するのだ。そういう意味では、春日が話した優れた容姿という点についてもあながち的外れではない。
 かつて、と言うべきか。伊勢佐木異人町を牛耳る異人三のトップであったソンヒや星野、そして──趙もそういった資格を持った人間である気がしていた。仲間として親しく接するようになってから、特にその飄々とした態度を前につい忘れがちではあるが。は、先程の彼とのやり取りを思い出す。
 ──何かが、彼女の中で引っ掛かっていた。


「楽器の経験は?」
 ハンに呼び掛けられ、は彼に顔を向けると同時、その問いに対しては首を左右に振った。
 今は、サバイバー二階の小さな台所で彼と向かい合っていた。階下から春日とナンバが言い争う賑やかな声が届くとハンは肩を竦める。
「まさか春日さんの用件が、バンドをやりたいなんて話だとは。始めは冗談なのかと思いましたよ」
 偶然知り合ったイベントの主催者から頼まれて引き受けてしまったらしい。もはやそういった経緯については驚きもしなくなった。
「春日さんらしいですね。自然と周囲を引き込むというか」
「そこはやはり、桐生一馬さんとは違いますか?」
 は改めてハンの顔を見た。すると彼は腕組みしながら、顎に手をやってああと続ける。
「貴女は真島吾朗さんとの方がお付き合いは深かったんでしたね」
 この異人町に秘密を持って足を踏み入れた者が──、当然コミジュルという蜘蛛の巣に掛からぬはずがなかったのだ。それどころかハン、“彼”とは、どこかで面識を持っている可能性すらあった。
 は、静かに口を開いた。
「桐生さんは、あの人は、何でも黙って一人で背負われているような方でした」
「ああ……、話には聞いています」
「真島さんは、春日さんと少し似ていて周りを巻、引き込む方ではありましたけど」
 そこで少し雰囲気を変えたに、ハンは僅かに目を開く。すると彼女はどこか吹っ切れたように息を吐いて続けた。
「あの人は嵐で、私達はそれに薙ぎ倒される木々でしかないんです。文句を言いたくて顔を上げた時には、もういないんですから」
 だから春日さんとは違います、と。
 やけに実感の籠もった、やさぐれた物言いをする。彼女の意外な面を目の当たりにしたハンはやや驚いたようで、やがて面白がるように目を細くした。
「お互い苦労しますね」
「貴方に比べたらそんな……、それに今は休業中ですし」
 そう言えば、二階のコンロの火が点かないのだと。春日とナンバが言い合いをする傍らで彼が目配せと共に声を掛けてきた時から、ある程度の予感があったからか、は落ち着いていた。
「私も折角お休み中の所、こういった話をするのは気が引けるのですが」
 するとここからが本題と言わんばかりにハンはに懐から一枚の写真を差し出した。
 それは、まるで証明写真のようだった。真正面から顔を写された男が陰気な目付きをこちらに向けている。
 が視線を落として男の顔を確認したところを見計らって、ハンは再び彼女に問い掛けた。
「見覚えは」
「あります。少し痩せて印象は変わっていますけど、おそらく……」
 の記憶では男はフリーの情報屋であった。
 それが対立している組織間だとしても、とにかく金になりそうな方へと調子良く渡り歩く、同業から見ると相当な命知らずであり愚か者だ。
 そのせいか、花屋の元へ自らを売り込みに来た時は半ば逃げ込んできたような状態だった。当然相手にせず、上手い具合に情報だけを受け取って放り出そうとした花屋に、殺意に近い感情を叫んでいた男の姿を覚えている。
 後から聞くと。男が持ってきたその情報とやらも、どうやら大した内容では無かったらしいが。
「その後も方々に借金を重ねて逃亡。神室町から遠く離れた異人町で、偶然目にしたさんの正体を掴んだのは、最期の執念かもしれないですね」
「私の事を?」
「ええ。この男がコミジュルに接触しようと、コリアン街を必死に嗅ぎ回って聞きまわっていたと私の部下から報告を受けまして」
 自分なんかの正体がどこの誰であれ、それがどうして金になると思ったのか。脳裏を掠めた疑問を、は次の瞬間には自身ですぐ打ち消した。
「今、この異人町の──いいえ、そもそも今回の一件の中心には春日さんがいます。かつての東城会とも繋がりのある情報屋が、正体を隠してその近くにいるとなれば」
「火種程度には、どうにでも使いようはありますね」
 情報をどう使うかは全て依頼人次第だ。そんな事は充分に分かっていたはずなのに、一瞬でも甘い考えを持ってしまった己をは恥じた。
 そんな彼女の様子を見て、ハンは気遣うように声を掛ける。
「ご安心を。我々(コミジュル)は、彼との取引には応じませんでした」
「えっ」
「こちらとしても、“既に持っている”情報を買う必要性は感じませんでしたから」
「同業の方に言われると、さすがに少し傷付くんですけど……」
 表情を引き攣らせるに対して、ハンは笑顔をみせた。
「すみません、私もようやくさんと腹を割って話す事が出来たので嬉しくて。差し出がましいようですが、これを機に他の方にも話をされては?」
「それは考えます……けど、それじゃあなんでわざわざ」
 すると、ハンはそれまで浮かべていたにこやかな笑みをやや奥へと潜めた。
「それが、我々にとっても不利益になりそうな男だったのでしばらく動向を窺っていたのですが……。突然消えてしまったんですよ」
「消えた?」
「ええ、さんが店にいらっしゃるほんの少し前に。ですから、一応ご報告だけはしておこうかと思いまして」
 不穏な話の展開に、の背がざわっと粟立った。男が自身の情報を持ったまま姿を消したからではない。コミジュルに断られ、男がこの異人町で次にあたるのはどこか。
 あの暗い部屋で──、“彼”は一体何をしていたのか。

 カチッと小さな音がして。
 が意識を戻すと、ハンは火の点いたコンロのスイッチから手を離し、再び彼女に顔を向けた。
「点きましたね」


 + +


 届いたメッセージの内容を確認した趙は、手にしていたスマホの角を自身の額に軽く当てた。
「春日君にベースが出来るなんて言った事あるっけ……?」
 いやナイナイ、と彼は自身が漏らした言葉を否定してからスマホをしまい、再び視線を落とした。
 そこには、椅子に両手足を拘束されている男がいた。青白い顔には脂汗が滲み、浅く短い呼吸を繰り返している。男は目隠しもされているせいか、露出した配管から落ちた水滴がコンクリートの床に落ちると、その僅かな物音にすらビクッと大きく身体を震わせた。
 この明らかに異様な状況の中。趙はいつもと変わらぬ様子で、「あのさ」と男に声を掛けた。
「俺、早く行かないと何か無茶振りされるっぽいんだよね。だから分かってると思うけど嘘は無しで」
 趙からの呼び掛けに対し、男は首が千切れんばかりに必死に頷く。それにいくらかは満足したのか、趙は瞳を薄くした。
「そもそも、何で俺だったわけ?……あ、質問に答える時は声出してもいいよ」
 は、と男は強張った息を吐いた。
「横浜流氓の総帥……だろ、あんたは……?それなら、情報には金を出してくれると思って……」
 趙からの反応は無い。その表情すら確認出来ない事で更に不安を掻き立てられた男は、挽回せんとばかりに矢継ぎ早に続けた。
「な、なぁ、さっき俺に打った薬は何なんだ!?疑うのも分かるがあんたにとっては聞いておいて損はない、あの女は何か魂胆があるに決まっ」
「うるせえな。勝手にべらべら喋るなよ」
 趙の冷ややかな声が被さると、男は身体を揺らした。
 先程まで辛うじてあったどこか気安い雰囲気は、そこで完全に消え失せた。一層身を硬くする男を前に、趙は溜息を吐く。
「まぁ、大体分かった。三年ぐらい前にうちの奴らと組んで、大陸相手に商売してたやつだろ?おそらく俺の事はその時に聞いたんだろうけど」
「…………、……」
「随分と雑な商売してくれたおかげでさぁ、あの時も結構面倒な事になったんだよ。うちも何人が……」
「違う違う違う!!頼む、話を聞いてくれ!!」
 反射的に声を出してしまってから、男は先程の趙の言葉を思い出してハッとしたが、なぜか今回彼の発言は許されたようだった。むしろ先を促すかのような無言の圧を感じると、彼は乾いた喉を小さく鳴らしてから再び慎重に口を開いた。
「し……商売の事は知らない。あんたの事は今回たまたま聞いただけで……疑うなら、その俺と組んでたって連中にも聞いてみてくれ」
「それじゃあ、代わりに聞いてきてよ。あとついでによろしく言っといて」
 えっ、と言葉の真意を問い質す前に、男の心臓がドクン!と大きく動いた。
「っが!?」
 咄嗟に抑えようとするが、手足を縛られているためそれは叶わない。思わずもがく様に暴れて身体を折り曲げた男を、趙は見下ろしていた。
「あいつらに聞いた情報なら、そりゃあ古いままだよね。俺も今は部外者だし、本当は余計な真似したくないんだけどさ」
「待……情報を聞い……!」
「それ、そもそも俺が“知らない”と意味ないから」
 ビッと、小さく紙を破くような音がした。
「あー……、やっぱり私物は増やさないようにしてるか。服くらい何着でもおくるけど、案外重たいとか思われんのもなぁ……」
 それは、趙があの部屋で見ていた、男が彼の元に残してきたメモだった。
 すっかりこの場への関心を無くした趙の独りごちるような呟きと共に、頭上からパラパラと──閉じられたままの真っ暗な視界にその白い紙片が降り落ちる幻を見て──男は諦めたように、濡れた布の下にある瞳を裏返した。