「えっ、ここ出てくのかよ」
 サバイバーのカウンター席で顔を合わせていた紗栄子との会話を聞きつけた春日が、彼女達の間に立って声を掛けた。問いに応えたのは、椅子を回して彼に身体を向けた紗栄子だ。
「出ていくというより、だってこことは別に帰る家があった方がいいでしょ」
「へ、なんで?」
「それ!」
 紗栄子にびしっと指先を突き付けられると、春日は思わず後ずさりしながらたじろいだ。その様子を見て、紗栄子は呆れたように肩を竦める。
「そもそも私やえりちゃんだって自宅はあるんだし、人数が増えて男臭くなったところにを雑魚寝させておくわけにはいかないでしょう。それもデリカシーが無くて気も利かないわ、いつ間違いが起こらないとも限らないメンバーなんだし」
「ヒデェ言われようだな……」
 背後にあるピアノ側のカウンターで話を聞いていたナンバがげんなりと呟くと、それに同調して春日も抗議の声を上げる。
「ざ……、雑魚寝なんかさせてねえよ!なぁ、ちゃんと寝る時は部屋だって別にして」
「押し入れは部屋とは言わない!」
 自分では応えづらそうなに代わって、紗栄子が春日の言葉を遮った。するとそれまで周りで話を聞いていた足立や趙も、彼らの会話に加わる。
「まあ、確かにドラえもんじゃねえんだしなぁ……」
「しかもあそこ、カッパと同室だしね」
「揃いも揃って、今まで気が付かなかった事に驚きだわ……」
「それでは、コミジュルにいらしてはどうでしょう」
 そこでに提案したのはハンだ。彼女が顔を向けると、彼は端正な顔に涼やかな笑みを浮かべてみせる。
「空き部屋なら用意できますし、隠れ家としても最適かと。それに光熱費も掛かりませんよ」
「いや、それ盗電してるからだろ」
 春日の言う通り、本来自分が支払うべき光熱費を他に負担させるというシステムはにとっても居心地が悪い。周りがそれぞれ意見を出したところで、紗栄子が改めてに聞いた。
はどういう所がいいの?オートロック付きとか収納は多い方がいいとか」
「そういう条件は無いんだけど、今聞いて思ったのはやっぱり不動産は通さないで探した方がいいかなって」
 ハンが口にした“隠れ家”という言葉がには引っかかった。サバイバーのアジトを含めおおよその場所は特定されているだろうが、それでも本隊から離れた場所に居を構える以上は用心するに越した事は無い。それが不動産相手といえど、どこから情報が漏れるかは分からないのだ。
「それじゃ、ここは俺の出番だね」
 得意げな声に、皆が発言者である趙の方へと顔を向けた。趙は軽く片手を持ち上げながら先を続ける。
「結局この中で一番の地元っ子って俺なわけだから」
「あ、そうか。それなら俺も取引先の物件とか紹介出来ると思うぜ」
「んー……、春日君が扱ってる所はちょっと陽当たりが良すぎるんじゃないかな」
「は?陽当たりが良いのはいい事じゃねえかよ」
 確かに、今やこの街でも指折りの大手企業である一番ホールディングスの取り扱い物件ともなると、人目に付く可能性は高い。おそらく趙はその事を指摘しているのだろう。
 その点、趙であれば今の状況に適した住居にも心当たりがあるのではないか。が少し考えてから頼んでもいいかと尋ねると、趙は勿論と頷いた。
「……というか、どうして一番はまず俺達にその物件を紹介してくれねえんだ……?」
「一度で良いから、住んでみてえなぁ。タワマン……」
 そんな中、ナンバと足立は、揃って遠い眼差しを浮かべていたのだった。


 + +


 後日趙とはサバイバーの前で待ち合わせる事にした。物件まで案内をしてくれるという彼だが、特に荷物があるでもなくいつも通りの身軽な服装のままだ。
「少し距離があるからタクシーで行ってもいいんだけど、天気も良いし歩こうか」
「はい。お願いします」
 頭を下げて応じたは、じいとこちらを見る趙に対し思わず目を瞬かせた。
「悪くないね。デートっぽい」
 趙はその発言に対してのの反応を待つでもなく、その場で踵を返すと「それじゃあ行こうか」とを先導し始めた。そんな彼に始めからペースを乱されている事に不安を覚えつつも、もそれに従う。
 橋の上に差し掛かると、心地よい風が吹いていた。
 普段は落ち着いて景色を見渡す事も少ないが、伊勢佐木異人町という街は都会的で、こういった美しい自然の魅力も持ち合わせていながら──しかし一歩路地を曲がると寂れて猥雑な姿も見せるという、実に複雑な街であった。それは、この土地に異人三という勢力が拮抗しあってあり続けた事ともどこか重なる部分がある。
 拠点としていた神室町を後にして。今は伊勢佐木異人町という全く見知らぬ街で、そこを支配する三大勢力のかつての総帥であった男と肩を並べて歩いている事に、は今更ながら現実味の無さを感じていた。
「そう言えば、ちゃんってここに来る前はどこに住んでたの?」
 まるでこちらが考えていた事を読み取ったかのような質問に、は一瞬ドキッと心臓を跳ねさせ、思考に耽っていた意識を引き戻した。
 だが、今の自分は狐の面で顔を隠す情報屋ではない。必要以上に素性を隠す必要も無いのだ。彼女は気を取り直して、趙からの問いに応える。
「神室町です。東京の神室町」
「ああ、そうか。春日君を追い掛けてきたって事はちゃんも元はそっちの人って事になるよね」
 すると趙は顎に手を当てて、何やら考え込み始めた。それを不思議に思ったが声を掛ける。
「どうしました?」
「……ちゃんみたいな都会の人にはさ。これから俺の紹介する物件は合わないんじゃないかなー、とか思ったり」
 このように自信なさげな趙の姿はなかなか珍しい。それも思った以上に律儀に今回の件を考えてくれていた事が分かって、は自然と表情を和らげた。
「それを言うなら、春日さんだって同じじゃないですか」
「春日君はいいの。そういう都会的な匂いはすっかり消えちゃってるから」
「私だって押し入れで寝ていた女ですよ」
 の言葉に趙は目を見張るようにすると、ふっと笑いながら返した。
「確かに。ドラちゃんだったもんね」
 冗談めいた会話に笑い合ってから、はふと思い出すように続けた。
「それに神室町にいた頃もそんなに立派な暮らしはしていないですから。ほとんど地下暮らしで、陽当りとかも気にした事は無かったですし……」
「…………地下?」
 賽の河原にいた頃を懐かしむに趙が若干の戸惑いを見せた頃、二人は建物が密集した薄暗い路地へと脚を踏み入れていた。年季の入った雑居ビルや小さな商店がひしめき合うように建ち並んでいる
「この辺りって……」
「横浜流氓のシマからは外れちゃってるかな。俺も出てきた立場上、あまり実家の目が近すぎるのもやりづらいし」
 趙が言うように、そこは横浜流氓の管轄区域外となる地域であった。てっきり異人通り付近を案内されるのかと思っていたは、意外そうに辺りを見渡す。すると少し前を歩いていた趙が足を止めて振り返った。
「着いたよ」
 そう言って、趙が片手をかざした先。古ぼけた電飾看板には、どこか昔懐かしいレトロな英字体で店名が綴られている。看板はプラスチックの劣化なのか端から割れて欠け、営業中なのかも怪しいが、そのいかがわしげな雰囲気からどのような店なのか判断するのは難しくなかった。
 “ホテル”と言うよりは、“モーテル”と言うのがしっくりくるだろうか。何にせよ潜伏先としては定番である。は納得して店の入口に進もうとした。
「え」
「?」
 僅かに驚いた声を出した趙が改めて指した先を、も視線で追う。
 よく見ると──そこには、一件隣の建物から鉄骨の階段がひっそり伸びてきていた。自身の早とちりに気が付いたは足を止めて固まる。
「いいよ、そっちも覗いていく?」
「いや」
 趙はそんな彼女に対してからかうように瞳を薄くすると、階段にカンと音を立てて足を掛けた。
「それじゃ、ここの階段は隙間が空いてるから、足を踏み外して落っこちちゃわないように気を付けて」
 階段脇、雨風に晒されて薄汚れた一階のガレージはぴっしりと閉まりきっていた。隣のモーテルについ気を取られていたが、一見すると入口すら目立たず、ただそこにあるかのような建物は排他的な印象を纏っている。
「一階には入口が無いんですね」
「中階段があるけど、外からはこっちだけだね」
 階段を上がると、趙はポケットから出した鍵を挿してかちゃと回した。玄関ドアを開いた彼に土足でいいからと促され、は小さく会釈をして部屋の中へと足を踏み入れる。
 一目見て分かったのは、以前はそこが何か事務所のようだったという事だ。今は何も物が置かれていないためがらんとしているが、おそらく広さは十四畳程、ウッドタイル敷のワンフロアは外から建物を見た印象よりもずっと小奇麗に感じられた。玄関から入ってすぐの脇には、簡易的ながらキッチンも備え付けられている。
「さていかがでしょう、お客様」
 の背後から声を掛け、趙がパチっとスイッチを入れると、やや遅れて室内にあかりが灯った。
「両隣の影になって昼間でも薄暗いのが気になってたけど、ちゃんが気にしない人で良かったよ。隣にユニットバスも付いてるし、案外悪くないでしょ」
「はい、とても……床に、天井のシーリングライトも新しい感じがするんですけど大家さんがリフォームされたんですかね」
「リフォームね、“した”よ」
 えっと反応するの脇をすり抜けて部屋の中に進むと、趙は天井を見上げる。
「本当はもうちょっといじりたかったんだけど、ちゃんの趣味もあるかなと思って。俺も元々こういう作業は嫌いじゃないし、やってみると案外楽しいもんだよね」
「趙さんは……、器用ですよね」
「うん、俺もそう思う」
 からの賛辞を嫌味無く受け入れる趙。彼の話を聞くにつれ、にはどこか胸がざわつくような感覚があった。まるで自分が何か些細な、しかしとても重要な事を見過ごしてしまっているかのような、そんな違和感だ。
 部屋の中央に立つ趙は、確かめるようにぐるりと辺りを見渡した。そしてキッチンに目を留めると、悩ましげな表情を浮かべて腕組みする。
「そうだ、どうせならキッチンはもう少し立派にしておきたいな……火力の強いコンロに変えて、そうなると換気扇よりもレンジフードの方が良いだろうし」
「わ、私は今のままで充分ですよ。それだけやると費用も掛かると思いますし」
「ああ、ちゃんはそういうのは気にしなくて大丈夫。俺がやりたくてやってるだけだから」
「……あの、確認ですけどここを使うのって……」
「ん?ちゃんと、俺だけど」
 ──“実家の目が近すぎるのもやりづらい”、と。
 まるで当事者のように語っていたあの時点で、趙との思い違いに気が付くべきだったとは思った。何と言っていいか言葉に詰まるに趙は小首を傾げるも、それ以上は特に気にした様子も無く続けた。
「俺って、家庭環境は複雑だったけど、一応はお坊ちゃんだったからさ。春日君達には悪いけど、出来ればもう少し足を伸ばせるような場所が欲しかったんだよね」
「なるほど……?」
「料理全般は任せてくれていいよ。ちゃん美味しそうにたくさん食べてくれるから、俺も作り甲斐があるし」
 物件の条件的には申し分無く、何よりこれからの生活について目の前で愉しげに語る趙に対し、は今更難色を示すのは申し訳なく感じた。
「(それに私が意識し過ぎの気も……)」
 異性との共同生活という事であれば春日達とて例外では無い。趙は今や信頼出来る仲間であるし、ただそれが、一対一になるというだけだ。
 は気を落ち着かせるように小さく息を吐くと、改めて趙に笑みを向けた。 
「何もかもお任せするのは申し訳ないので、私にも手伝える事があれば言ってください」
「……おや。意外な展開」
「はい?」
「いやいや、こっちの話」
 呟きに対してが聞き返すも、趙は何でもないと首を振ったのだった。


 + +


「ちょっと待て、どうしてそんな話になってんだ!?」
 サバイバー二階のアジトで荷物をまとめると、立って壁に寄り掛かりながらそれを眺める趙。二人から事の成り行きを聞いた春日は理解が追いつかずに、万年床の上で胡座を掻きながら声を裏返らせた。
「あれ?ちゃんの家探しの事は伝えてたよね」
「一緒に住むとは聞いてねえよ!何だよ、お前らいつの間にそんな」
 嘆くような春日の言葉を、は慌てて止めた。
「趙さんとは拠点を共有させてもらうんです」
「どう違うんだよ」
 すると趙がの言葉に補足する。
「ベースはあくまでこっち、必要な時に使うって事。アジトの一つみたいに考えてくれていいし、何なら春日君達の荷物も預かるよ」
「そ、そういう事か。……俺はてっきり知らねえうちに二人が付き合い始めでもしたのかと思ったぜ。何だよ驚かすなよなぁ」
 春日が安堵の息を吐いた所で、コンビニで買った肉まんをコンロで炙るように温め直していたナンバが、台所から戻ってきた。
「おっと、あちち……そうだ、ひょっとしてその建物ってあの古いラブホテルの隣にあるやつか?」
「ナンバさん、ご存知なんですか?」
 ナンバは自身も春日の正面に腰を下ろして会話に加わる。
「俺が弟を探してここに来たばかりの頃に行った事があるんだよ。あそこはどちらかと言うとコミジュルの管轄に近いだろ。実際に何か商売してる様子も無いし、怪しいってんでな」
「え……」
「結局弟の件は空振りだったが、明らかに堅気ではなさそうな連中が出入りしてたのは見かけたぜ。あれは横浜流氓の奴らだったのか?」
 色々と初耳であるが真偽を確かめるように趙を見上げる。すると彼は今の話を聞いても特に顔色も変える事なく、ゆったりと口を開いた。
「いや、横浜流氓とは関係無いよ。ついでに言うとコミジュルでも星龍会の人間でも無い。俺にとっては知り合いの知り合いって所かな」
 その口振りで何かしらピンときたのか、春日があっと拳で手のひらを叩いて声を上げる。
「その知り合いって馬淵の事か?」
「春日君、ご明答〜。そうそう、あれは馬淵のおトモダチ」
 おどけたように、趙は話す。
「……と言っても、俺は直接会った事は無いんだけど。最後に一言くらい挨拶したかったんだけどさ」
「最後って……お前、まさかそいつらに何かしたんじゃねえだろうな……」
「はは!饅頭の具にしちゃったと思った?まさか、直接組織とは関係が無い相手にそんな事はしないよ」
 春日に向って笑う趙の言葉に、ナンバは肉まんにかぶりつこうとしていた姿勢のままビタッと固まった。そんなナンバをは気の毒そうに見る。
「馬淵が出ていってから俺が訪ねた時は、もうあそこは荷物だけ残ってもぬけの殻だったんだよね」
「そりゃあどう言う」
 春日の困惑はもっともで、趙の話す通りだと、会った事も無いという相手から物件を譲り受けた経緯に疑問が残る。ナンバとも春日と同様の反応を示す中、趙も一度口を開きかけたが、再びそれを閉じて。
「まあまあ。大丈夫、とりあえず今は俺のだから」
 色々面倒になったのかざっくりと応えた趙の朗らかさに反し、今は彼が味方である事のありがたさを感じざるを得ない一同であった。