春日は、紗栄子らに背を押されて二階にあがってからも自分は大丈夫だとしばらくごねていたが、実際は無理やり布団に横にさせるとそう間もないうちにいびきを掻き始めたようだった。
 チームのリーダーである彼は特に忙しく、決して狭くはない伊勢佐木異人町を朝から晩まで駆け回っている。一度走り出すと止まらない気質と相まって、自分でも気が付かないうちに疲労が溜まっていたのだろう。
「さて、と……それじゃあ私もお店に顔出してくるけど、も一緒に来る?」
 春日を待つ間に手が空いたメンバーは、それぞれが自分の用事を済ませるため自由行動となった。
 席を立った紗栄子に声を掛けられたは、その正面で首を振る。
「私はここで待ってようかな」
「分かった。それじゃあ、一番が起きたら連絡ちょうだいね」
 店を出ていく紗栄子を見送ると、はふと横顔に視線を感じた。
 ヴィンテージ感漂うサバイバーの店内、その中でも一際目を引くグランドピアノの脇に備え付けられたカウンター席から、趙がに向かってちょいちょいと手招きをしていたのだ。
 その意図を計りかねて一瞬戸惑うに、彼は口角を持ち上げてみせる。
「おいで」
 は飲みかけのグラスを手に席を立ち、言われた通り今度は彼の隣に腰を降ろした。すると趙は彼女の方へと身体を向けて気さくに出迎える。
「良かった、断られたらどうしようかと思っちゃったよ」
「趙さんは用事済ませてこなくて大丈夫なんですか?」
「だって俺は今無職だもん、横浜流氓(ハンピンリューマン)の事ならソンヒがしっかりやってくれてるしさ。春日君から聞いたけど、たしかちゃんも休職中なんでしょ」
「……そういう感じですね」
「俺もそういう感じ。ま、時間を持て余してる者同士仲良くしようよ」
 趙はニッと笑みを浮かべると、自身が手にしていたグラスを軽く持ち上げた。
「はい、乾杯ー」
 重なったグラスが、カチンと小さく音を出した。


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 かつて横浜流氓の総帥であった頃の趙には、飄々として本心の読めない振る舞いに背筋を寒くさせられたものだ。しかしその後、彼が仲間に加わって実際の人間性を知るにつれ、徐々にそういった感情は薄れていった。
「俺、ちゃんとはゆっくりお話してみたかったんだよね」
 しかし──、元来奔放な彼の言動は所々での警戒心を引き戻す。すると彼女の様子の変化に目ざとく気が付いた彼も、おっと、と小さく呟いて断りを入れた。
「いや、これは口説いてるとかじゃなくて。ただ、口説いてると思ってもらっても別にいいんだけど」
「はあ」
「まず、俺とちゃんって春日君風に言うと戦闘のスタイルっていうの?ちょっと似てるでしょ」
 そう言って、趙は手で形を作って構えてみせた。いかにも軽くおどけながらやったようでも、その指先は洗練されており綺麗に揃えられている。
「俺のも少し我流が入ってるんだけど、ちゃんのもどこか変わってるよね」
「私は完全に我流です。最初は護身術として始めたものでしたから」
「へえ……でも基礎はしっかりしてるみたいだし、そこは性格かな。護身術なら他に選択肢もあったんじゃない?」
「……好きな映画があって」
 少し恥ずかしげに応えたに、趙は目を開く。彼は身を乗り出し、目を逸らす彼女を面白がるように覗き込みながら続けた。
「え、その話本気で?その映画を見て、わあカッコイイー私もやってみようって?」
「そ、そんなに食いつくところですか」
「そりゃ食いつくでしょ。意外ってのもあるけど俺も多分同じ映画知ってるし。いやあちゃんからそういう話が聞けて嬉しいなぁ、すごい親近感だよ」
 趙は身体を起こしながら、自身の顎髭を撫でて続けた。
「そうだな……捻りがないかもしれないけど、やっぱ俺はシリーズだと一作目が好きかな」
「!私もです」
「ね。燃えるよね」
 趙はニィと笑みを浮かべて返した。
「あのシリーズはうみねこ坐でもたまにリバイバル上映してるんだ。あそこの上映期間って謎だから次いつ演るかは分からないんだけど、よかったら一緒に行こうよ」
 突然の誘いには返答に窮する。しかし趙は彼女の反応を見越していたかのように、ややわざとらしく肩を竦めた。
「あー、そういうのはまだ早かった?振られちゃったか……残念残念」
 そして趙はカウンターで腕を組むと、改めてに視線をやりながらその瞳を細めて。
「──ところでさ、“”ちゃんって偽名?」
「え……」
 それまで互いに好きな映画の話をしていたのと何ら変わらぬ気軽さで、に尋ねた。
 口調の柔らかさとは別に、サングラス越しの瞳の奥には相手を見極めようとする冷静さがあり──それは横浜流氓の総帥であった彼の姿を思い起こさせた。
 今にも切れそうな細い糸の上に人の生死が乗せられた緊迫した状況の中、一人それすら愉しむように、銃の引き金に指を掛けて笑みを浮かべていた“あの瞬間”の彼だ。
「なんていうかー……、名前を呼ばれた時の反応にほんの少し違和感みたいなものがあるんだよねぇ。あれって……何?」
 こうなると下手な誤魔化しは効かないだろう。は観念して趙からの質問に答える事にした。
「本名ですよ。今まではむしろそちらで呼ばれる機会が少なかったというか……ずっと偽名で、顔も隠してきたので」
 趙はがそこまで自身の手の内を明らかにする事がやや意外だったのか、軽く片眉を上げた。
「ただ、そちらについては今休職中で、春日さん達の側に置いていただいてるのは個人的な理由からです」
「……その個人的な理由って、俺が聞いちゃってもよかったりする?」
「それは、探している人達がいるのと……あと知りたい事があって。これだけでは納得してもらえないかもしれないですけど……」
「いやいや、オッケー。了解」
 拍子抜けする程すんなりと受け入れた趙に、今度はが目を開く番であった。彼は顎に手をやりながらふんふんと頷く。
「なるほどなるほど……、これまでがずっと偽名だったからって事かぁ。長くやってるとそういう癖みたいなのって付いちゃうもんね」
「私が言うのも何ですけど、……いいんですか」
「うん、全く問題ナシ。俺の方こそ変な事聞いちゃってごめん」
 今度はまた雰囲気を先程までのように戻し、明るく接してくる趙には戸惑う。これまでにも彼と似たように掴み所の無いタイプの相手とは接した事があるが、彼女にとっては未だ慣れないものであった。
 趙がグラスを傾けると、その中で既に溶けかけている氷がカラリと音を立てた。
「人探し、か。ひょっとして恋人とかだったりして」
「そういうのでは。言うなら仕事相手というか」
「ああ……その仕事が偽名を使って顔も隠してたってやつ。けどそれさ、ちゃんめちゃ美人さんなのに顔隠しちゃってたのは勿体なくない?」
 やはり──、こういうタイプは慣れない。
 の表情の変化を愉しむように、趙は笑う。
「いいねえ、その反応。分かりやすくて。あ、だから顔も隠してたのかな」
「からかわないで下さい」
「いやからかってないし。美人さんってのは本心、もっと言うと俺のタイプ。だから探し相手が恋人とか言われなくて良かったよ」
 取り留めのない会話を続ける二人の背後、それまでカウンターの中で黙々とグラスを磨いていた店のマスターが僅かに顔を上げた。趙も一瞬だけそちらに視線を向けてから、再びの方へと向き直ると。
「映画、行こうね。俺ポップコーン奢るから」
 どうにも食えない笑顔で、そう言ったのだった。


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 とあるホテルの一室。広い室内に見合った大きなテレビ画面に流れていたのは、古い外国の映画であった。するとスピーカーから流れる映画の音声に混じって、背後でドアが開く音が響く。そこから入ってきた人物は室内の状況を見てやや呆れたような声を出した。
「よう、飽きもせんと見とるな」
「アホ言え。とっくに飽きとるわ」
 冴島に頭上から声を掛けられた真島は、テレビ正面のソファーに座りながらそちらを一瞥もせず応えた。冴島は鼻から息を吐くと、自身は真島の斜めに置かれた一人掛けのソファーへと腰を沈める。そうして彼も真島の視線を追うように、画面へと目をやった。
「それでも俺から言わせると好きな方やで。俺はこれまで映画なんて滅多に見てこんかったからな……。ニックが言うとったが、これで何でも見られるんやろ」
 真島は手を伸ばしてテーブルのリモコンを取る。
「何でもとはちゃうで、配信されとるやつだけや」
「配信……?それは普通のテレビと何がちゃうんや」
「……おじいちゃんと会話しとる気になるわ」
 所謂映像配信サービスというものの仕組みについていまいちピンときていない冴島に対して、真島は慣れた手付きでメニュー画面に戻ると、他に目ぼしい作品が無いか、しかし大して興味は無さそうに流し見を始める。
 そんな中“名作アクション特集”と銘打たれたコーナーで手を止めると、ふと思い出したように呟いた。
「こういうの、好きな女がおったな」
 おそらくは同じ人物を思い浮かべたのだろう、冴島も顔を上げて応えた。
「あれだけおったホームレス連中も、今の神室町ではほとんど見掛けんらしいな。今回の件が片付くまで、大人しくしとるつもりらしいが……連絡取っとらんのか?」
「この状況でわざわざ情報屋に自分の居場所なんぞ知らせるか?おかげさまで挨拶のひとつもせんとそれっきりや。ま、縁があればそのうちまた顔合わす事もあるやろ」
 軽い調子で言うと、真島はその特集の中から一本の映画を選んでリモコンをソファーに放った。そんな彼の横顔を見ながら、冴島はふっと息を漏らす。
「そやな。あいつも面倒なおっさんらの世話から離れて、案外伸び伸びやっとるかもしれん」
「あ?」
「お前……、やっぱり六代目の話聞いとらんかったやろ。荒川が横浜に置いとる手札の中に、その誰かさんに似た背格好の奴がいるらしいで」
 その言葉に真島が僅かにぴくりと眉を動かした。
「俺もそれ以上詳しくは知らんし教えてもらっとらん。ただ、六代目はあいつの面付けとらん顔も知っとるんやなかったか」
「──……、」
 先程は大して興味の無い素振りを見せていたわりにじっと黙ってこちらの話に聞き入っている真島を見て、冴島は少しからかうように続けた。
「次会った時は、その中でいい仲になった奴でも紹介されたりしてな」
「……兄弟も、なかなかおもろい冗談言うようになったやないか」
 しかし挑発された事で冷静になった真島は、不敵な笑みでそれを受けた。彼は改めてソファーの背もたれに両腕を乗せながら、満足げな様子で脚を組む。
「そうかそうか。俺に会いとうてはるばる横浜までとは健気やのぉ〜」
「相変わらずおめでたいやっちゃな……。探しとるのはおそらくお前だけとちゃうやろ」
 真島は、冴島からの指摘を気にするでもなくヒヒと笑って受け流すと、それから静かにその瞳を薄くした。
「さっき……、いい仲になった奴でもおるかもしれんて、そう言うとったな」
「ん?ああ、それか……正直俺も、他にどないな連中集めとるかはよう知らんで」
「……いや、あり得ん話でもないわ。本人に自覚は無くてもあれで絆されやすいところがあるからな。んで、今はそれを隠す面も付けとらんと……」
 既に再生を始めていた映画は導入部に差し掛かった所であった。画面の光を顔に反射させながら、真島はゆったりと口角を上げる。
「次に縁があった時……、どんな顔しとるんか楽しみやな」
 今は遠い誰かに語り掛けるかのように。
 画面から、物語の開幕を知らせるドラの音が大きく響いた。