辛うじて車二台が擦れ違えるかという狭い路地。ひっそりと佇む雑居ビルの前で、見覚えのある大きな背中が通りからの灯りを受けていた。
 男は誰かと話しているようだが、その背中に隠れ相手の姿はよく見えない。やがて路地に入ってきた黒塗りの車が静かに停車すると男らは体の向きを変える。少し離れた位置から見るの姿に気が付いたのは、ほとんど同時のようだった。
「ん、お前か。偶然やな」
「……いやぁ?狐ちゃんの事やしどうか分からんで」
 振り向いたのは冴島、そして彼と向かい合っていた真島の姿もあった。
 真島が言うように故意というわけではなかったが──東城会の大幹部二人が相手では必要以上に“知ろうとしない”選択肢もにとっては身を守る手段である。
「おお、待て待て」
 頭を下げて立ち去ろうとしたを真島が手招きして呼び止めた。
「逃げるこたないやろ。ほれ、おっちゃんがええもんやるわ」
「なんですか、これ?」
 真島から胸にぐいと押し付けられたビニール袋をは反射的に受け取った。
「みかん以外のナニに見えんねん」
「…………」
「なんや、その間は」
 大量のみかんを前にが沈黙していると、同じような袋を提げていた冴島がそれを持ち上げて彼女に見せた。
「怪しいもんとちゃう。古い馴染みから貰ってな」
「そ、そうなんですか」
「俺らだけでは食いきれんかったところや。みかん、好きか?」
「はい」
「その反応おかしないか?」
 真島が不機嫌そうに言うも、冴島は何てことはないというように応じた。
「そらお前みたいなもんからなんぞ分からんもんいきなり手渡されたら警戒するに決まっとるやろ」
「決まってへんわ!兄弟とどこがちゃうねん」
「日頃の行いや。なあ?」
 何と言うべきか、が無言で同意を示すと、真島は更に苛立ちを募らせる。
「アホ。お前らみたいなもんと比べたら俺なんかよっぽどの常識人やで。真っ当な人生経験かて積んどる」
「真っ当、か」
 ドアを開けたまま停車していた車がエンジン音を低く響かせていた。真島と冴島は顔を合わせる。
「ありがとうございます。改めてお礼に伺います」
「気にせんでええ。お前もあんまうろつかんと、用心するんやで」
「狐ちゃん」
 が冴島から真島に視線を移す。後部座席のシートにゆったりと背を預けた彼はニッと笑って。
「ほな。“また”」
 ばたんとドアが閉められ、車は来た時と同様に静かに走り去っていく。残された不穏な気配は、が持つ袋を更に重く感じさせていた。


 + +


 児童公園の自販機にチカっと灯りがともる。
 桐生はを見下ろしながら、困惑したように眉間に皺を寄せていた。そんな彼の両手には、つい数日前にがそうしていたのと同様に、みかんが入ったビニール袋がある。
「やっぱり私も一人では食べきれなくて……。桐生さん、よく大量に買われている所をお見かけするのでお好きかなと思ったんですが」
「あ、ああ。嫌いじゃねえが……」
 まさかあれは『喧嘩の道具』として使っているのだとは言い出しづらい雰囲気に、桐生は言葉を飲み込んだ。
「たまには普通に味わってみるか……」
「?」
「いや、何でもない。気を使わせちまったな」
 その時、公園の入口に一台の車が停車した。後部座席の窓ガラスがゆっくりと降りる。
「お前ら、ここにおったんか」
「冴島?」
 冴島は車内のシートに腰掛けたまま、軽く顎をしゃくって二人を招いた。
「少し面倒事に付き合ってもらうで」

 ──そのまま冴島に連れられて訪れたバンタムの店内には他の客の姿が見られず、ただ静かなBGMのみがしっとりと流れていた。
 だがそれより何よりひと目で分かる“異変”といえばカウンターの中。いつもとは違う黒のタキシードに身を包み、入店した三人を恭しい礼で迎えた真島である。
「ようこそお客様。何をお呑みになりますか」
「……。俺は帰らせてもらう」
「まあ待ち、桐生」
 早速その場から踵を返そうとした桐生の肩を押さえて冴島はそのまま席につかせた。その冴島から同様に視線で促され、も躊躇いながら桐生の隣に腰を降ろす。
「俺が最初に呼ばれた時からこの調子や。何を考えてるかは知らんが、こういう時は適当に付き合ってさっさと終わらすに限るで」
 冴島に「な?」と振られたも、少し考えてから頷き同意する。だが桐生の表情は依然苦々しく、彼はこの会話の間も顔色一つ変えずにいる真島に対し鋭い目付きを向けた。
「どうせまた安酒飲ませてぼったくろうって腹だろ。俺は今日アンタと喧嘩するつもりもねえし、当然56万なんて大金払う気もねえぜ」
「なに?そういう話か」
 やけに具体的な口振りからして、桐生は以前にも似たような経験をした事があるらしかった。三人の注目を浴びながら真島は僅かに口角だけをふっと上げた。
「まさか。私はただ皆様においしいお酒を味わって頂きたいだけです」
「……信じられねえな」
「あの〜……、少しいいですか」
 すると彼らの背後から新たな第三者の声が会話に割って入ってきた。いつの間に店内に入ってきたのかそれとも実はずっとスタンバイさせられていたのか、胸元に真島組の代紋を光らせるスーツ姿の男は、懐からメモ用紙を取り出すと、恐縮したように頭を掻きながらそこに視線を落とした。
「ええと、親父としては、冴島の叔父貴と狐の姐さんに改めて“真島吾朗という男の人間力と社会性の高さ”を理解してもらう……その為に、親父が夜の帝王としてブイブイ言わせていた頃の一端をお二人に披露させていただくっちゅうのが今夜の趣向らしいです」
「いや、余計に分からん」
「冴島さん、もしかして私がみかんをいただいた時の……」
 思い当たる節のあったがつい数日前の出来事に言及する。すぐにはピンと来なかった冴島だが、やがて彼はその目を大きく見開いた。
「あれか!いや……せやけど、あれくらいの軽口叩かれたくらいでここまでするか……?」
「おい。何があったかは知らねえが、その件に俺は一切関係しちゃいねえぞ」
「あ、桐生の兄貴には単純に昔同じような状況でご迷惑掛けた事のお詫びをしたいと」
「……それはついでって事なんじゃねえか?」
 一通りの説明を終えた男は「それじゃあ自分はこれで……」と、礼をして下がった。と言っても、いつでも真島の呼び出しに応じられるように店の外で待機は続けるようだ。
 桐生が重たく、長い溜め息を吐いた。両隣の冴島との視線も自然と彼に集まる。
「俺はお前らにも非があると思うぜ」
「な」「え」
 突然その矛先を向けられた事で動揺する冴島とに向かって、桐生は更に続けた。
「特に冴島、あんたは真島の兄さんとの付き合いはこの中でも一番長いだろう。この人の着火点がどこにあるか読めねえ分少しでも用心する事くらいは出来たはずだ」
「せやけどこれは、なんぼしたってな」
「お前もだ」
 桐生に顔を向けられたは背筋を伸ばした。
「この人に気に入られちまってる境遇には同情するが……いいか、兄さんが本気を出したらこんなもんじゃねえ。このまま流されてると、そのうち二十四時間いつどこから現れるか分からねえこの人に警戒し続けなきゃいけねえ羽目になりかねないぜ」
「こ、心に留めます」
 桐生からの実感のこもった忠告にはぞっとしながら何度か頷いた。
 しかしいくら思うところがあるからとはいえ、いつもの桐生に比べると今の彼はやけに饒舌だ。と同様に冴島も異変を感じ取ったのか、注意深く目を細くし改めて彼の様子を窺った。
「!桐生、お前それ……もう飲んどるんか」
「……ん?」
 冴島から指摘され、桐生は自身の手の中にあるグラスにまるで今気が付いたかのような視線を送った。
 傾けられたグラスの氷がカランと音を立てる。琥珀色の液体は既に底まで減らされていた。
「ああ……」
 桐生は心配そうにする冴島とに構わずもう一口ぐいと酒をあおった。
「うまいじゃないか。ふっ、兄さんには色々言ったが、結局俺には安酒が合うな」
「とんでもない。そちらのカクテルには上等なアメリカンウイスキーを使わせて頂いております。粗野な味わいの中にある深いコクは、お客様によくお似合いかと」
 そう落ち着いた口調で語ると、真島は冴島には桐生と同じロックグラスを、にはカクテルグラスをカウンターから差し出した。
「どうぞ、そちらもお召し上がり下さい」
 の前に置かれたカクテルはいかにも女性客が好みそうな色鮮やかな可愛らしい見た目で、作り手の細やかな気配りが感じられた。酒があまり得意で無い彼女からしても試しに一口味わってみたいとその興味をそそるには充分だ。
 だが、それでも気になるのは桐生の事だった。
 彼が特別酒に弱いという話は聞いた事も無いが、たった一杯飲んだだけで様子が変わるものだろうか。それとも強い酒だとしたらそれもあり得るのだろうか。
 疑心暗鬼に駆られながら、は今は唯一頼りになる冴島の方へと顔を向けた。
「(冴島さ、)」
「なんや、少し香ばしいな」
「その香ばしさはアマレットですね」
「ほう……よう分からんが、確かにこれなら店で出てきてもおかしないわ。感心したで」
「俺も、もう一杯もらおうか」
 いつの間にか自分だけがこの状況から置いていかれてしまっている事には愕然とした。桐生と冴島、どちらも普段は寡黙な男達だが、実はこういう時“ノリがいい”という事を失念していたのである。
「進まれませんか」
「!」
 二人から離れて、真島がの前に立った。包容力ある眼差しとどこか艶のある口元の笑み。服装もそうだが、その佇まいや口調からまるで別人の相手をしているようで、は思わず緊張してしまう。
「その感じやめてください……。何だか落ち着かなくて」
「お客様はこのような趣向はお嫌いでしたでしょうか」
「嫌いというか、いつもの真島さんの方が好きですよ」
 ふと──そこで妙な間が開いて、は自分がわりと恥ずかしい事を口走ってしまった事に気が付いた。取り繕うと顔を上げるも、感情の読めない瞳でじっとこちらを見下ろす真島を前に、言葉に詰まってしまう。
「!!おいっ、お前らなに……ぐっ!!」
 突如、店の入口から大きな物音が響いた。
 ぞろぞろと入ってきた四人組の男達は床に突き飛ばした真島の部下の手をわざと踏み付けると、下卑た笑い声を上げながら店の中へと進んできた。
「貸し切りって、俺達の為って事だろ?」
「はは、何か変な奴らが揃ってんなあ」
 男達からは酒の匂いが既に濃く漂っており、服装や雰囲気から言ってまだ随分と年若く見えた。大分腕に自信があるのか、それとも酔いで気が大きくなっているのか、この店内の異様な面子を見ても怯む様子は無い。
「いらっしゃいませ」
 声を掛けたのは真島だった。すると、彼は一切の躊躇も無く男達に向かって頭を下げた。
「折角お越しいただいたというのに申し訳ございません。貼り紙に出ていた通り、当店は本日貸し切りとなっております」
「いや、知らねえし」
「オッサンさぁ、申し訳ないと思うならこの店で一番高い酒出してよ」
「あっ、それいい。あー、そう言えば俺さっきの奴に肩掴まれた時に痛めた気するわ」
「となると慰謝料も欲しいよな」
「かしこまりました。すぐ──ご用意いたします」
「(!まさか真島さん本当に……)」
 が驚きとともに顔を上げた瞬間、背後で男達のざわつく声がした。
「な、なんだこいつ、っ……!」
 いつの間にか立ち上がっていた桐生が、一人の胸ぐらを掴みあげていたのだ。
 先頭にいた男はこの中でもリーダー格だったらしく、その男が必死に腕を振り解こうにもびくともしない姿を見て、周りにも動揺が広がり始める。対する桐生は酒で据わりきった目付きで彼らを見渡しながら、ゆっくりとその口を開いた。
「俺は今気分がいい。礼儀のなってないてめえらに、こうして助け舟を出してやった事に感謝しろよ」
「はぁ!?何言ってんだ!?」
 言いながら桐生はカウンターの中の真島に視線を送ったようだった。
 真島の目が、ほんの僅か眇められる。
「頭おかしいんじゃねえか!?」
「この人数相手して怪我してえのかオッサン!!」
「……おい、悪いな。やっぱり少し“使わせて”もらうぜ」
 男達の怒号が飛び交う中、桐生はすぐ横の席から様子を見守っていたにぼそっと声を掛けた。
「使うとは何を」
 がその言葉の意図を聞き返す前に、桐生は大きく腕を振ると掴んでいた男を仲間たちに向かって押し飛ばした。そして、ずっと下げていた左手をガサッと音を立てて持ち上げる。
「いいか、てめえら全員にうまいみかんをご馳走様してやる。表出ろ」
 そう言って、大真面目な顔でみかんの入ったビニール袋を突きつける桐生。今度こそ男達との頭上に多くの疑問符が浮かび静まり返った中、それまでしばらく沈黙を守っていた冴島は堪えきれなかったように店内に響く大きな笑い声を上げたのだった。


 + +


 桐生が男達と外に出で行ってからしばらくして、冴島がくつくつとようやく笑いを収めながら口を開いた。
「桐生は人助けしたな。あいつらも感謝せなあかんわ」
「あの、どういう事でしょうか。さっきから私だけよく分かってないみたいで」
「それなら、なんや物騒なもん握っとるそこの店員に聞くとええ」
 冴島の言葉に対し、大きな舌打ちが聞こえた。
 直後。真島はカウンターの下に隠していた手を出し、カッ!と音立ててアイスピックを突き立てた。衝撃で左右に小刻みに揺れるそれを見ながらが呆気に取られていると、先程までの雰囲気からすっかりいつもの様子に戻った彼が指で窮屈そうに襟元を崩した。
「なぁ〜にがええことや!俺の憂さ晴らしの機会を掻っ攫っていきおって。狐ちゃんからの愛の告白にも応えたるはずがおかげで台無しや」
「ん?気付かんかったがいつの間にそないな話になっとったんか」
「なっていません!」
 否定するに、真島はカウンター越しに身を乗り出し、斜めにした顔を彼女に近付けた。
「は〜?さっき“アタシはいつもの真島さんが見たーい、好きー”って言うたやないか」
「言い方も内容も違いますし、誤解があります」
「照れるな照れるな。そんなカワイイ狐ちゃんに免じて、俺に黙って桐生ちゃんと密会して、あげくみかんの横流ししとった事は許したるわ」
「あ、あれはお裾分けを……あの、すみません」
 指摘されいくらか後ろめたい気持ちになったがもごもごと返す様を見つつ、真島は愉しげな笑みを浮かべてアイスピックを引き抜いた。そして慣れたように持ち手をくるりと回す。
「ま、実際のところ俺の仕事っぷりもなかなかのもんやったやろ。こういう洗練された雰囲気作りは、桐生ちゃんや兄弟には真似出来ん芸当やで」
「ふん。確かに酒は美味かったな」
「そう、ですね」
 答えたものの、はまだ自分が目の前に酒に手を付けてなかった事を思い出した。改めて口に運ぶとそれは彼女が訝しんだような類のものではなく、アルコールも控えめであろう飲みやすく甘めのカクテルだった。
「あ、おいしい……そう言えば桐生さんのお酒は強めのものだったんですか?少し酔ってらしたように見えましたが」
「あ」
 そこで何かを思い出したかのような真島の不穏な反応に、他二人の視線が集まる。
「まさか変なもん入れたんとちゃうやろな……」
「入れてへんわ!入れてんけど……いやぁ〜、けど惜しいことしたなぁ。知ってるか?桐生ちゃん、酒のアルコールが強ければ強いほど喧嘩も強なんねん」
 真島は桐生の席に残っていたグラスを手に取って、僅かに残っていた濃い色の液体をちゃぷっと揺らした。
「折角、おいしくおいしく育てて最後お代がわりにいただくはずが、わけのわからん連中に取られてもうたのぉ。ヒヒ、今頃は楽しんどる頃やろうなあ」
「……あいつら、大人しく身体に穴開けられとった方がまだマシだったかもしれんな」
 どちらも嫌だと思います、と。は思わず心の中で指摘しながら、よりにもよって今夜この店を選んでしまった先程の運の悪い男達が、無事に“みかんをご馳走になっている”事を願った。