熱した網の上、焼かれた肉の脂が下に落ち、食欲をそそる香ばしい匂いが白い煙と共に立ち昇っていく。韓来の店内は今日もほぼ満席状態ではあったが、平日の夜という事もあってか、客の雰囲気自体は落ち着いていた。
 店の奥にある座敷席には真島との姿があった。最初に注文した皿の中身は既に残り少なくなっており、ここにも比較的まったりとした空気が流れている。真島がグラスを傾けると、中の氷がからりと音を立てて鳴った。
「前も同じの頼んどったな」
 そう言った彼が軽く顎をしゃくって指したのは、の近くに置かれたキムチの盛り合わせである。
「折角奢ったる言うとんのやからもっと高いもん頼めや。焼肉屋来て、肝心の肉を頼まんでどうすんねん」
「お肉は先に頼んでいただいた分で充分です。それに、これおいしいですよ」
 がキムチの皿を押し出しすと、真島はそれをじっと見てから、箸で一つ摘んで口に放り込んだ。しゃくしゃくと音を立てて咀嚼するその様子をは狐面の下から興味深げに見ていた。真島の眉がぴくと動く。喉を動かし口の中のものを全て飲み込んで。彼は、改めて彼女と視線を合わせた。
「今何を考えとったか正直に言うてみい」
 ぎくりと肩を揺らしたは、下手な誤魔化しは効かないだろうと悟ったのか、観念し言いづらそうに答えた。
「真島さんはいつもバランスの良いお食事されてますよね」
「そうか?……まあ、この歳になったら身体にも少しは気ぃ使うからな」
「それが普段のイメージとは違うなと思って」
「イメージ?」
 は若干身体を縮みこませながら、声のボリュームを更に一つ落として、
「例えば生肉の塊とか……」
「お前は普段人をどないな目で見とんねん!!」
「あ、あくまでイメージの、」
 そこで突然はっと息を飲んだに、真島は怪訝そうな表情を浮かべた。
 店員に案内されて脇の通路を過ぎていった男女二人連れの新しい客は、低い衝立で仕切られた真島らの隣の席へと通された。彼らがメニュー表を開く様子を肩越しに振り返り窺ってから、真島は声を潜めに尋ねる。
「知り合いか?」
 いかにも裕福そうな身なりのふくよかな中年男性と、その男性よりはやや年若く見える眼鏡を掛けた細身の女性。その外見と、中国語と英語混じりの会話から察するにどこかアジア圏から来た観光客のように見えた。一見するとどちらもとの接点は無さそうだったが、彼女の仕事上また違った意味での“知り合い”であるという可能性は充分に考えられる。
 漂う空気が、張り詰めたものへ──


 ──変化する、かと思われたのだが。
「ご存知ないんですか……!?」
「ん?」
 珍しく興奮気味に返してきたの反応からいって、どうも話はまた違うようだった。


 + +


 から受け取った携帯の画面と、背後にいる男の顔を何度か見比べて、真島は納得したように頷いた。
「ほぉ?言われればそうやわ。歳はくっとるけど確かに本人や」
 携帯の画面に映っていたのは一人の若い男だった。客の男より年齢こそずっと若かったものの、体格などはそう大差無く、確かに面影が残っている。
「しっかし、どう見ても身体はダブつきすぎやろ。ほんまにこれでアクション映画なんか出とったんかぁ?」
「はい。やられ役としては一流の方です」
「やられ役て。なんや、そっちかい」
 真島も有名な作品は過去何本か目にした事があるが、男に関する記憶は一切残っていなかった為、が一体どの作品を指して言い切っているのか定かではなかった。彼は画面の中でやたら爽やかな笑顔を浮かべている若かりし頃の男の姿を再度一瞥してから、に携帯を返す。
「そしたら飲み物でも頼むか。狐ちゃんもそろそろグラス空になるとこやろ」
「えっ」
 あっさりと話題を切り替えた真島には携帯を手にしながら思わず動揺の声をあげた。目の前でメニュー表を開き始めた彼と、その肩越しに見える男とを、戸惑いながら見比べる。
「どうしてそんなに落ち着いてるんですか」
「いや、別に知らんおっさんやし」
「知らんおっさん……」
 真島の言葉をは愕然と繰り返す。それからしょんぼりと肩を落としてしまった彼女をちらと見て、真島は短く息を吐いた。
「あのなあ、そんなに気になるならサインでもなんでも貰ってきたらええやんけ」
「サインなんて悪いですよ。きっと今はプライベートでしょうし」
「ほな俺が代わりに貰ってきたるわ」
 えっと顔を上げたが止める間も無く、真島は膝に手を置いてさっさと立ち上がると隣の席へ向かっていった。


「おう、ちょっとええか」
 真島が席の横に立って声を掛けると、それに気が付いた男女は会話を止めて彼に顔を向けた。男の丸々とした姿を改めて間近で見下ろした真島は、表情を歪めて吐き捨てる。
「こんなんのどこがええねん……」
「──?(どうしましたか?)」
 突然話し掛けてきた見知らぬ日本人に男は首を傾げていた。
 意外に思われたのは、初見の人間には大抵ぎょっと驚かれるような風貌である真島に対しても、特に臆する事無くニコニコと笑顔で返してきた事だ。この肝の据わり具合を見ると、曰く“一流”との評価もあながち間違ってはいないのかもしれない。
 そんな男の態度にいくらか毒気を抜かれてしまった真島は、頭の後ろを掻きながら続ける言葉を選んだ。
「英語やったら分かるか?えぇと、サイン……って、そのままでは通じんのやったっけ」
「あなた、この人のサインが欲しい?」
 その時、やや片言の日本語で真島に話しかけてきたのは男の正面に座っていた眼鏡の女である。真島は女の方に顔を向けて目を開いた。
「なんや、あんたこいつの通訳か?」
「私はこの人の妻です。日本語、少しだけ分かります」
「おお、よっしゃ!せやったら、あんたの方から旦那にサイン一枚書くよう頼んでくれや。ミーはユーの熱狂的なファンや、ファン」
 真島の言葉を受け女が男に中国語で話す。上手く用件が伝わったのか、男は真島に向かって指でOKサインを作って何度か頷いてみせた。
「ペンはこちらあります、書くものはありますか」
「ああ、せやな……」
 当然手ぶらであった真島は軽く辺りを見渡してから、男達のテーブルの上に視線を止めた。
「ほな適当に、そこにある紙のコースターの裏にでも」
「失礼過ぎます!」
 対象を指差しかけた真島の手を、いつの間にか隣に来ていたがガシッと掴んで押さえ込んだ。
「ここはせめてちゃんとした色紙を、今の時間でもドンキホーテなら開いてますし私が走って行ってきますから」
「かまへんて。わりかし気ぃ良さそうなおっさんやし、これくらいで怒ったりせえへんやろ」
「だからこそ尚更申し訳ないんですが」
 すると、さすがに狐面というのは珍しかったのか、男がに向かって何やら話し掛けてきた。真島は一体何を言っているのかと再び女の方に目をやったが、姿勢を正したはたどたどしくではあるものの直接それに応じた。
「お……?狐ちゃん、話せたんか」
「話せるって程ではないんですが、映画を見てほんの少しは……」
 それでも一応通じてはいるようで、と男は会話を続けている。
「(ほう。マニアっぷりもここに極まれりやな)」
 だが、そのように多少関心はしたものの、真島としてはあまり面白い気分ではなかった。
 会話には女も加わり、真島だけが蚊帳の外で一人放置されているような状況である。一体どのような内容なのかは分からぬ、ただ楽しげな様子である事だけは確実に見て取れるそれが、既に飽きて白けきった彼の視線の下で交わされていた。
 すると、今度は男が明らかに真島の方を見ながらに何やら問い掛ける。それを受けたは否定でもするような動作で手を左右に振って応じる。男はそこに更に一言付け足して、女と顔を合わせて笑った。
 真島の眉間にピクッと皺が寄った。
「……なんや今のは。まさか人が話の内容分からんのをいい事に、悪口言うとるんとちゃうやろな」
「そんな悪口なんて」
 真島に睨まれてやや慌てるような様子を見せながらも、はせっせと手先を動かしてなぜか自身のスーツのジャケットのボタンを外していく。その謎の行動に疑問符を浮かべた真島に、彼女は弾んだ声で説明した。
「サイン、していただけるみたいなので。下に着てるシャツなら一応色も白ですし、これにお願いします」
「シャツにぃ!?うっわ、勿体な」
「勿体なくなんてないですよ。本当ならやっぱりきちんとした色紙を用意すべきなんでしょうけど、これ以上お時間取らせるのも申し訳ないですし」
「いやあ、早まった真似はあかん。後でシラフ戻った時、確実に後悔すんで」
「シラフって……ふふ、私お酒は一滴も飲んでないって真島さんも知ってるのに」
「──……、」
 くすくすと笑って応えるに真島は口を半開きにした。彼は不機嫌そうに舌打ちをすると、彼女からは顔を逸らして小さく呟く。
「浮かれすぎて素が出てきてもうとるわ、アホが」
「何か言いましたか?」
「やるならさっさと済ませ言うたんや。狐ちゃんが今待たせとる男は、そのおっさん一人だけやないて分かっとるんやろうな」
「あ……そうですよね」
 は再び男と言葉を交わすと、シャツの裾を引いて前に出し、文字を書きやすいようピンと張った。
 ペンを用意する男を待つはそわそわと落ち着きがなく、緊張からなのか背筋も伸びていた。真島にとって、横目で見るその姿はやはりあまり面白いものではなかったが、あと少しでこのよく分からない時間も終わるのだと思えばどうにか我慢は出来る。真島は彼女には聞こえないくらいの小ささでやれやれと短く息を吐いた。
 女がバッグの中から探し出したペンを男に手渡した。
 男は本当に書いてもいいのかという問いに何度も頷いて返すに笑顔を見せてから、ペン先をシャツへと近付ける。
「──待てや」
 真島が低く吐き出した言葉の意味は、彼に突然手首を掴まれた男には伝わっていないようだった。なぜ今止められたのか、きょとんとした表情で不思議がる男と同様に、も真島の横顔を見上げる。彼は真剣な表情ですうっと口を開くと、
「この……すけべ親父が!サイン書くだけなら、もうちょい下の方に書けや!!この女が隙だらけなのををええ事にわざわざどこを狙って書こうとしとんねん!!」
 真島が指先で示す先を追っての視線が下がった。つられるように、目の前の男と女も“そこ”に視線をやる。
 狐面から覗くの耳が、じわりと赤く染まった。
「ほれ、ぼさっとせんと。嫁のあんたからもこれは俺のもんやっちゅう事をやな……」
「こ、この人の言っている事は訳さなくていいです、本当にすみません」
「んな……、なんっでやねん!?こっちは狐ちゃんの事を心配して言うたっとんのやろうがぁ?」
「真島さんは色々考えすぎですっ」
 状況が分からぬ男が説明を求めるよう女に顔を向けるも、女も「さあ……?」と肩を竦めて返すしかなかったのであった。


 + +


 事務所のテレビ画面には黒の背景をバックにした映画のエンドロールが流れている。
 未だ物語の余韻が残る中、真島は映画のDVDが入っていたケースを頭上に掲げるようにし、その裏側を無言でぼんやりと眺めていた。
 ──扉の外から、コンコンというノックの音が響く。
「おーう、入ってええで」
 真島の声を聞いてから扉を開けたは、瞬間ふっと妙な違和感にとらわれてその場で足を止めた。だが、広く静かな室内と、そこで一人ソファーの背に両腕を伸ばして悠々と腰掛けている真島の姿には、何らおかしな点は見受けられない。
「狐ちゃんの方からわざわざ訪ねてくるんは珍しいなあ?」
 そこで我に返ったは、気を取り直したように礼をして真島の方へと歩み寄る。
「お忙しい所、突然すみません」
「ええてええて、そんなん。わざわざあのむさ苦しい連中のツラ拝みにいくより、狐ちゃんと遊んどる方が俺も楽しいわ」
「そこまでお時間を取らせるつもりはありませんから……あの、どうしてもお礼をしたくて」
 そう言ってが差し出した紙袋に目をやると、真島はソファーに座り直してそれを受け取った。それなりに重さのある紙袋の中身を覗き込んで、ほうと感心したように目を見張る。
「マッカラン1946か」
「お好きですか?」
「ああ、たまに飲むで。よう見つけてきたな、高かったやろ」
「いえ、それでも真島さんにしていただいた事に比べたら全く。何がいいのか悩んだので、お好きだったなら良かったです」
 胸に手を当て安堵するをじっと見上げてから、真島はそこから視線を泳がせる。
「それで、あの後どっかに飾ったりはしとんのかいな?」
「そうしようと思ったんですけど、長時間光に当ててると劣化しちゃうみたいなので大切にしまっておく事にしました」
「なるほどな……。まあ、実際にもろたんは狐ちゃんやし、好きにしたらええ」
 どこか奥歯にものが挟まったような言い方だった。は続く言葉を待ったが、ただ不自然な沈黙だけが流れていく。
「そう言えば」
 気まずい場の空気をどうにかしようとが切り出した。真島の視線が再び彼女の方へ向く。
「真島さんが、悪口を言ってるんじゃないかっておっしゃられた時があったじゃないですか」
「……ああ」
「あの時、“君達はもう結婚はしてるのか”って聞かれたんです。何か勘違いされてしまったみたいで」
 そこで言葉を区切ると、真島の様子をチラ……と窺った。だが彼女の予想に反して、良くも悪くも何かしらの反応があると思われた彼の方は、特に表情も変えず真顔のままだ。
 そうなるとは急に恥ずかしくなってきて言い訳をするように早口で続けた。
「勿論否定したんですけど、私の言葉が拙いせいでまだ籍は入れてないって意味に取られてしまって、なかなか」
「……」
「でも併せてジェスチャーもしたので、大丈夫ですきっと。からかわれただけのような気もしますし、心配しないでください」
 全く根拠は無いわりに力強く言い切ったをしばらくそのまま見上げてから、真島はハアと脱力したように溜息を吐いて項垂れた。
「真島さん?」
「むっちゃ見る目のあるええ奴やったやんけあのおっさん……。くぅ〜、それなのに俺ゃどうしてあそこでもう一枚頼まんと……」
 電源の切られたテレビの暗い画面に反射して映る真島の表情は、まるでそこにいる己自身を責めているようだった。
 その背後、ソファーとの隙間には、が部屋に入ってくる直前に急いで隠していたDVDのケース。ほんの十数分前から“彼ら”にとっての憧れの大スターとなった男は、ぎりぎり見切れたパッケージの端で、若かりし頃の勇姿を眩いばかりに輝かせていた。