陽が沈むと、それまで気配を潜めていた欲望が噴き出すようにぎらついたネオンの光が街に溢れる出す。
 他に人気のない雑居ビルの屋上から眼下に臨む喧騒は、地上からたった数十メートルの距離にも関わらず、まるで別世界での出来事のように現実味無く感じられた。同じように、もしも地上から今のいる屋上を見上げた者がいたのであれば、暗がりにかろうじてぼんやりと浮かぶ白い狐面には見間違いかと目を擦ったかもしれない。
 は手摺から手を離すと、ふうと疲労の滲んだ息を吐きながら一歩後ろに下がった。気が付くと、それはいつの間にか白に染まりだしている。こんな時ばかり予報は当たってしまうのだろうか、は分厚い雲に覆われた暗い空を見上げた。
「そろそろ降ってくるかもしれへんで」
 声がしたのはの背後からだった。
 屋上に繋がる扉の前、薄い笑みを浮かべながら佇む真島は、いつものジャケットスタイルでは無く幹部会に赴く時のようなスーツ姿で、肩に掛けるように黒のコートを羽織っていた。
 真島の突然の登場に反応が遅れて固まるをよそに、彼は靴音を響かせながらゆっくりと彼女の側に歩みを進めた。
「どうしてここに……」
 目の前で立ち止まった真島を見上げてが言うと、彼は眉間に皺を寄せた。
「なんや、その幽霊でも見たような反応は」
「そうもなりますよ!真島さん、今神室町にはいない事になってるんですから」
 東城会の内部がまたにわかに騒がしくなり始めたのはここ数週間の話である。
 今や関東一円を牛耳る巨大組織となっている東城会でこのような諍いごとが起こる事自体は、実はそう珍しい事ではない。むしろ彼らの社会において、他者を引き摺り落としのし上がろうとするその野心自体は決して一概に“悪”とはされていなかった。弱者が去り強者が残る、最も単純で正しい在り方だ。
だが、今回行動を起こした人物はさすがに狙った相手が悪かった。
 先に情報を掴んだ大吾が東城会六代目会長として事を収めるまで、彼に説得された真島は騒ぎを大きくしないように、狙われたその身をしばらくの間は神室町から隠す。それがの聞いていた話である。
「さっき戻ってな。いや〜、移動がやたら長かったせいでくたびれてもうたわ」
 真島は先程がそうしたように空を見上げると瞳を眇め、それからいつもと何ら変わりない飄々とした足取りで手摺の方へと歩いて行った。


 + +


 が隣に追いつく頃には真島は煙草に火を付けて、深く煙を吐き出しながら神室町の街並みを見下ろしていた。
 街の灯りに照らされて浮かび上がる真島の横顔は心なしかいつもよりも青白い。その表情はしばらくぶりの帰還に安堵して──というより、相変わらずの街の様相に呆れているようにも見えた。ただしそれは昔馴染みの友を相手にした時のような勝手知ったるもので、悪い感情ではない。
 煙草の先の灰が、地面に落ちる。
 ふと何かに気が付いたようにして真島がの方へ顔を向けた。彼は指で挟んだ煙草を口から離すといかにも愉しげに、
「で、何か楽しいお喋りは聞けたんか?」
 そう聞いてくる真島の視線は、の片耳にはめられている小型のイヤホンに向けられていた。そのコードの先は、彼女が自身の懐の中に忍ばせた受信機の端末へと繋がっている。
「ああ、これの事で、」
 がイヤホンを耳から外して応えようとすると、横からひょいと伸びてきた真島の手が先にそれを奪っていった。
「あっ」
 しかし、自分の耳にイヤホンをはめてすぐに、真島はまるで当てが外れたかのように眉を顰めた。
「……なんっも聞こえん。これ、電池が切れてもうてんのとちゃうかぁ?」
「そういう予告無しの行動は止めて下さい」
 は真島の手からばっとそれを取り返すと、懐から取り出した受信機にコードを巻き付けながら不満気に呟く。
「もう……今回は良かったものの、私にだって守秘義務があるのに」
「盗み聞きしとる側がようもぬけぬけとその口で……いや、という事はそれ、ほんまにただ聞いとる振りしとっただけっちゅう事かいな」
 端末をしまい終えたは、頭上からの視線を感じて改めて顔を上げた。
「頭のおかしい女やとは思うとったが、それもまさかこの寒い中わざわざ奇行に走るまでになっとったとは……」
「どなた方のせいだと思ってるんですか!」
 気の毒そうな眼差しを向けてくる真島には思わず反射的に言い返していた。
 真島はきょとんと目を丸くした後、ほんの少し考え──ああそういう事かと笑んで頷く。
「巻き込まれてもうて気の毒やったなあ。それでどや、“真島吾朗”は見つかりそうか?」
「笑い事じゃないんですからね」
 今回花屋をボスとする達情報屋は、真島の居場所を探す陣営から受けた依頼に大人しく従う振りをしつつ、その実、大吾の指示で動いている真島の動きを彼らに悟らせないように二重スパイの役割を取っていた。
 大吾にとっては、完全に手を回し準備を整えるまでは相手には大人しく足踏みしていてもらった方が都合が良い。対立する両者を天秤に掛けた時、当然花屋は自分にとって利のある大吾側に付く事を選んでいたのだ。
 だがは、自分にその役割が回された事に若干の不満を覚えていた。
「そら狐ちゃんみたいなんは目立つからな。相手にも分かりやすいように道化を演じさせとくにはちょうどええわ」
「道化……」
「嫌いやないやろ?実際、ここ突き止めるのも街でちょーっと聞き込みさせたらすぐや」
 見透かすように瞳を細める真島には言葉を飲み込んだ。真島は満足げに口角を上げると、背伸びしつつ手摺から離れる。
「いよっしゃ、そろそろ行くか!……はぁ、にしてもやっぱこの作戦は俺の性には合わんわ」
 言葉ではそうは言いつつも。
 本来こういう場合は率先して相手側に乗り込んでいきそうな真島が、今身を隠して事の成り行きを静観しているのは、六代目である大吾に対しての期待と信頼があっての事である。
 そう思うと、踵を返した真島の背を見つめるの口からも、自然にぽつりと言葉が漏れていた。
「難しい事なのは分かりますけど……。なんとか、いい所に収まればいいですね」
 歩き出そうとした真島が動きを止めて、肩越しにの方に振り返る。俯く彼女をその頭上から見下ろし、彼は軽くふっと息を吐いた。
「そらそうや。狐ちゃんもこれだけ長い事俺に会えんと寂しいやろ」
「そういう話ではなくて」
「そう照れんでもええやないか〜!!ただなぁ……、こうやってうろうろしとる所が見つかったら俺も大吾ちゃんから怒られてまうねん。離れがたいっちゅう気持ちは分かるんやが、堪忍やで」
「真島さん私は真面目に、っ!?」
 言い掛けたの視界が頭からばさりとかぶせられた真島の黒いコートによって塞がれた。煙草の匂いに混じる甘い香りにほんの一瞬思考を奪われたは、次の瞬間には我に返って慌ててコートを取り去った。
 既にから数メートル離れた先にいた真島は、彼女に背を向けながら片手を上げる。
「ほな。風邪は引くなや」
 そう言ってまた、暗い建物の中に真島の姿は消えていった。
 まるで何かを覆い隠してしまおうとでもするかのように。
 静かに落ちるこの雪は、果たしていつから降り出していたのだろか。広い屋上にただ一人残されたはまだ僅かに体温の残るコートを手に、しばらく彼の消えた方向を黙って見つめていた。
 隣には、煙草の吸殻だけが残されてた。


 + +


 部下の案内で事務所の部屋に通された、彼女が手にしていたものを目にするなり、真島はソファーで脚を組んだまま表情を歪めた。
「なんやその、いかにも病人の見舞いに来ましたっちゅう感じの手荷物は」
「やっぱりフルーツよりも栄養剤とかの方が良かったですか」
「両方ともいらんわ!!そもそもどこの誰が病人、っ」
 ぶえっくしょい!と、派手なくしゃみに大きく体を揺らし、真島は言葉を中断した。
 は持参したフルーツのバスケットを真島の前のテーブルに置くと、代わりにそこにあったティッシュ箱を手に取って彼に差し出す。
「六代目から、戻った真島さんが風邪を引かれてるようだって聞いて」
「チッ……今回は人を散々いいように動かしたあげく、別に言わんでもええ事を」
 真島は箱からティッシュ数枚を乱暴に引き抜くと大きな音を出して鼻をかんだ。彼の鼻先は少し赤くなっている。はもう一つ手にしていた紙袋に視線を落とす。その中には、一週間程前に真島から借りた黒いコートが入っていた。
「すみません、私が真島さんの上着をお借りたばかり……」
「狐ちゃん」
 低い声で呼び掛けて。真島が固く丸めたティッシュをゴミ箱に向かって片手で放る。こん、と軽い音がした。
「狐ちゃん相手にあれだけビシッと渋く決めておきながら、自分の方はまんまと間抜けに風邪を引く……まさかなぁ〜〜、その笑えもせんような展開はベタにも程があると思わんか……?」
「は、はい。私の思い違いでした」
 真島からの威圧感に満ちた眼差しに気圧され、は背筋を伸ばしながら同意した。本人がそうだと言い張るならそうなのだろう。
 真島はふんと短く息を吐きながら顎を上げ、ソファーの背に両腕を広げて乗せた。彼は瞳を薄くして、の手の紙袋を見る。
「しっかし律儀な女やの。そうやってわざわざ紙袋なんぞに入れられとるのを見ると、次は“真島さん、わたし、ちゃんとクリーニングに出してきたんですぅ〜”とでも言い出しそうな感じやわ」
 わざわざ声色を変えて真似ながらハッと皮肉気に笑う真島に、は分かりやすく肩を縮みこませて恐縮した。
「その通りなんですが」
「…………」
 真島はひくと目元を歪めると今度は深い溜息と共に身体を前に倒した。顔を上げ、に呆れた表情を向ける。
「あのな、そこは少しは気ぃ遣って敢えて残り香つけて返すくらいの真似はせえ。これじゃあどう考えても色気のある方に話が転んでいかへんやろうが」
「残り香を……」
「あ?」
 呟いたに真島が怪訝そうに眉を顰めるも、彼女は「いえ」と慌てて短く返し誤魔化した。
 “だから”──そうでもしないと、直接姿を目にはしなくとも、いつも傍にその存在だけはあり続けているようでどうにも落ち着く事が出来なかった。
 狐面に隠されたの表情が今動揺を見せている事など露知らず知ず、鼻をむずむずと動かした真島はまた一つ、大きなくしゃみをした。