サイの花屋の部下であり、常に顔の上半分を狐面で隠した一風変わったその情報屋は、パンツスーツを着こなす身体のラインから恐らく女だろうという事だけは知られていた──が、それだけだった。
 好奇心から周囲にどのような事を囁かれようと、本人は自身の異常性は仕事に必要であると、それらの俗言を受け入れていた。しかし今、仕事で訪れたミレニアムタワー57階に構えられた真島組事務所。革張りの高級ソファーで対峙する男を見ていると心が揺らぐ。
 向かいに足を組んで座り上機嫌そうにしているこの男は東城会直系真島組組長、真島吾朗その人である。
 首には金のチェーンネックレス。派手な刺青が覗く素肌に蛇柄のパイソンジャケットを纏い、黒い革パンを愛用する彼の装いは、この筋の関係者から言わせても異質だ。
 彼に比べると、は自身の狐面くらい可愛らしいものではとさえ思う。
 ここに来るのも初めてでは無いがその様な要注意人物を相手には改めて警戒心を強めていた。人払いの済んだ一室で、ようやく彼女の方から切り出す。
「お話があるとうかがったんですが」
「おっ、なんや。そないに聞きたいか?」
 むしろ、おそらくは仕事関係であろうその話を聞く為にわざわざやって来たのだ。
 が頷くと、真島はよっしゃとソファーに深く座り直しながら笑みを深めた。
「どや?そろそろ、俺の女にならんか」
 狐面が、僅かに動揺したように見えた。


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 しかし実際は面の表情など一切変わる筈もない。真島の言葉からしばらく間を置いて、は応えた。
「電話では仕事だって聞いたんですけど」
「なんや、ツレないのぉ〜。得意先との付き合いも立派なお仕事やろうが」
「帰ります」
「待ーて待て待て!」
 立ち上がろうとしたが引き留める真島に顔を向けると、彼はニッと何か企むような笑みを彼女にみせた。
「もしかしたら本題はこれからかも分からへんで?情報屋の狐の嬢ちゃんは、客の話も聞かんで帰るんかいな」
「…………」
 単なる挑発かもしれない。しかし確かに“依頼を請ける”という仕事の形式上、話を聞き出すこの時点では依頼人が優位にいる。
 が再度腰を降ろすと、真島はすかさずテーブル越しに身を乗り出してきた。
「で、さっきの話は考えたんか?なぁ、どないや」
「いいんですか。真島組の組長ともあろう方が、顔も名前も年齢も分からない相手にそんな事言って」
 恐らく真島にとっても戯れの一環だろうと半ば呆れて返したの言葉に、彼は不機嫌そうに眉をしかめる。
「あぁ?そないごちゃごちゃ言われても、男が一度惚れてしもうたもんはしゃーないやろ」
「──……、」
 果たしてどこまで本気で言っているのか。思わず動きを止めてしまったを前に、真島は苛ついたように自身の膝をバシッと強く叩き彼女を指差した。
「そもそも俺に好かれんのが嫌やったらなぁお前!今まで仕事する時にいちいちおもろい事したり、いちいち可愛い事したり!それを俺の前ですなアホ!!」
 むしろお前が悪い!と。真島の面白さや可愛さの基準も分からなければ、至って真面目に仕事をしていたつもりのにとって、この言葉は微妙にショックであった。
 柄ではないがつい反論したい気持ちになり、僅かに身体を前のめりに傾けた。
「あの、ですから顔も名前も性別も知らない相手を好きになるっていうのは、無理が」
「狐ちゃんは女やろ。男はそんなエロイ身体はしてへわ」
「そ、それでも顔は」
「あーええ、ええ。そういう細かい話はどうっでもええねん」
 真島からあしらうようにして片手を振られは愕然とした。彼女も最早滲む動揺を隠せなかったのだ。
 すると、自身の席を立った真島が隣にやって来て座った。二人分の重さを乗せたソファーがゆったりと沈む。
「ちなみに、気ぃ抜いた時のそういう分かりやす〜い態度もええわ。普段は絶対面を取らん変人で、顔色一つも変えん狐ちゃんの中にいる嬢ちゃんは、きっと正直なええ子やなぁ……?」
「!」
 が弾かれたように真島の方を向くと、彼はすぐ至近距離で目を見開きニタリと愉しげな笑みを浮かべていた。そして警戒する彼女の耳元に唇を寄せ、いつもより掠れた声で言う。
「これでもとっくの昔にメロメロや。……ほんまやで?」
 まさか最初から本気──やはり彼女には、この真島というの思考が全く読めなかった。


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 耳元から唇を離してニタニタとこちらの反応を待つ真島の顔に、はハッと我に返った。いつの間にかソファーの背には彼の腕が回され、座る距離もぴたりと近い。
 は真島の胸元に手を置くと、ぐっと押し出した。
「離れて下さい」
「んー?こっちの方が話し易いと思わんか?」
「思いません」
 一体その細身のどこにこれだけの力があるのか。力いっぱい押してもびくともしない真島の身体にが苦戦しているのに対し、真島はその様子さえ愉しそうに見下ろして笑っていた。
「く……ヒヒヒ、やっぱ狐ちゃんはかわええのう!」
「こちらは真面目にやっているんです!」
「真面目、ねえ。それじゃあ真面目ついでに思い出したもん渡しとくわ」
「……?」
 真島から、唐突にパサッと資料の束のような物を手渡された。合法と非合法、金融業の異常な金の流れについてが書かれている。
 は資料にざっと目を通してからいつもの淡々とした口調で真島に語り掛けた。
「単独で動かしてる可能性も高いですね」
「洗えるか?」
「恐らく最近追ってた別件も噛んでると思うので……、三日以内には」
「上出来や」
 好戦的な超武闘派として知られながら、こうした細部にまで目を光らす計算高さがこの男の恐ろしさだ。
 は資料を捲る。そうすると何か不満があったのか、ソファーに更に背を深く預け直した真島が愚痴るような口調で言った。
「人が口説いた後に、まあ何事も無かったようにけろっとしくさってからに……。ほんまに分かっとるか!今、こっちは、一世一代の愛の告白をしたんやで!?」
「い、今は先に仕事の」
「んなつまらんもんは後回しでええねん!!」
「(ええ……)」
 本当に、恐ろしい男だった。