花に用事を頼み買い出しに行かせた秋山は、事務所の扉が閉まってからしばらくして、彼女が淹れてくれた珈琲のカップに手を伸ばしながら言った。
「盗られちゃったんだよね。一億円」
 まるで道端で財布でも落としてしまったのだと、世間話をするような気軽さで。
 静かに珈琲を啜る秋山に対して、向かいのソファーに腰掛けていたは少しの間を空けてからそれに応じた。
「大変ですね」
「そりゃね、大変ですよ。花ちゃんに知られたらきっとまた怒らせちゃうだろうな」
 ふうと息を吐きながらカップを置くと、秋山は改めてに顔を向ける。
「という訳でどうだろう、俺に協力してくれないかな。勿論、依頼料は払う」
「荒事ですか?私より向いている人がいるんじゃ……」
「出来れば関係するような組織に属してない人が良い。俺の推測では、この点は既に情報屋さんには説明不要じゃないかと思ってたんだけど?」
 にこりと、探りを入れるような笑み──確かに。は秋山に話を聞かされる前から、この件を知っていた。
 花屋が管理する監視モニターにはこの神室町で起きた大概の事は記録されている。勿論秋山から金を盗ったのがどういった連中であるのかもだ。
 の沈黙を肯定と受け取った秋山は先を続けた。
「まんまとやられた俺が言うのもなんだけど、この程度の連中じゃ出てくる“相手”もたかが知れてると思うんだよな」
「でも私、そういう仕事を専門にしてはいないので……」
「だからさ。情報屋さんも最近身体動かし足りないんじゃない?場所は明日の夜、港の埠頭だって」
 秋山の言葉にがピクリと反応する。すると秋山は更に笑って、
「何だか、一昔前の香港映画にでも出てくるようなベタさだよねえ……そう言えば、情報屋さんはその手の映画は結構好きなんだっけ?」
「(ぐ……)」
 このように、自分より一枚も二枚も上手な相手と対峙するな時。
 は情報屋としての技量とはまた別に、まだまだ未熟な己の人生経験を恨む。
 恐らくこの話を切り出した時から、秋山の中にはが断る可能性など微塵も含まれていなかったのであろうと。


 + +


 秋山と照らし合わせた情報に概ね相違は無かった。
 金貸しの彼から一億円を奪ったのは、これから東城会に取り入ろうという街の小さな派閥組織である。無論手ぶらでは関係者と交渉する席さえ設ける事が出来ない彼らが、今回一番手っ取り早く、分かりやすい方法を取ったという事だ。
 周囲を暗闇に包まれた倉庫のコンテナの影に身を潜めていた二人は、早速、予定外の事態に見舞われていた。隣に並ぶから無言の強い抗議を受けてか、秋山は申し訳なさそうに眉を下げて声を潜める。
「いやぁ、参ったねえ……。東城会の方は、適当に手の空いた組員を出してくると思ったんだけど……」
 それはもそう予測していたので、秋山ばかりを責める事は出来ない。
 だがこれは話が違う。大いに違った。
 秋山の金を盗った連中、に特に問題は無い。黒いスーツ姿の六人。中にはが監視カメラで見た顔もある。取引中に下手な小細工が発覚した時のリスクを恐れてか、他に仲間を潜ませている気配は無かった。対する東城会はたったの三人。だが部下を背後に置いてその中央にいたのは、その人目を引く出で立ちからも間違いようが無く──東城会の主要幹部である真島であった。
 相手もまさか彼程の人物が出てくるとは思っていなかったのか、やや距離を取ったまま気圧された様子で改めて今回の段取りを確認している。その頭と思しき男の傍らに黒いアタッシュケースがあるのを確認し、秋山が呟いた。
「せめて役割を逆にしよっか。どう?」
「……正直、腕力自体にはあまり自信が無いんです。一億円はお任せします」
 答えながら、は仕方無しに腹を括った。
 秋山が壁のスイッチで倉庫の照明を落としたのは、アタッシュケースの中身が確認された直後だった。
 ざわつく二組の間、混乱の最中飛び出した秋山は迷わずアタッシュケースを手にし、そのまま別のコンテナの影へと駆け込む。
「そっちだ!」
 慌てた組織の男達は懐から出した拳銃で秋山の消えた方向にでたらめに発砲した。その内一発、二発は危うく足元を掠めたが幸い秋山に直接当たる事は無かった。
 それに対して男達が悪態を吐き、滑り込むように身を隠した彼の元へ駆け寄ろうとした所で、一番後ろに付けていた男から低く呻くような声が漏れる。
「ぐあ!?」
 異変に気が付き振り向いた男から順番に、は容赦無く拳を叩き込み地面に沈める。
 人数では当然劣るが、予め今の状態を想定していたの動きが早い。最後慌ててこちらに拳銃を向けた男に対しては引き金に手を掛けるや否や、その横面に思いっきり回し蹴りを入れコンテナの側面に叩き付けた。

 ──直後、

「は!!」
 歓喜の声と共に繰り出された鋭い刃物の一閃は咄嗟に振り向き構えたの腕を切り裂いた。スーツの生地が破け、更にその下に仕込んでいた保護用のグローブを通しても鈍い痛みが走る。距離を取ったは暗闇の中ゆっくりと近付いてくる相手を確認しようと顔を上げた。
 いいや、本当はそんな必要は無かったのだ。
 堪えきれない笑みをくつくつと漏らして、だらりと下げた右手に彼愛用のドスを持つのは真島である。
 先程の取引中は終始感情の動きを見せる事の無かった彼の瞳は、この暗闇の中でも分かる程に爛々と輝いていた。
「あまりにもつまらん話が長々続くもんやから、予定を早めてぶち殺したろうかと思うとったが……最後の最後に、えらいおもろい出しもんの用意しとったんやなぁ〜〜!焦らすやんけ……!」
 最近顔を合わす中では久しく感じていなかったが相変わらず対峙するだけで身体の芯から震えるような──これが、これこそが真島という男の恐ろしさなのである。
 今それを向けられているのが自分であるなら尚更だ。加えて、質が悪いと言うべきか。真島は恐らく既に“分かっていた”。
 案の定、互いの輪郭が肉眼でも薄ら確認出来る位置まで近付いた時であった。真島は「おっ」と何か思い出したように足を止め、わざとらしく片目をごしごしと擦り出す。
「あかん。突然暗うなってもうてさっきはなんっっも見えへんかったわ……」
「…………」
「せやから一体乱入してきた連中は何者なんか……ヒヒッ、俺にはとんとさっぱり検討も付かへんかったのぉ〜〜?」
「(この人……)」
 ずきずきと痛む腕を押さえながらは面の下から真島に呆れた視線を送っていた。
 暗闇に目を慣らす対策を予め取っていた秋山とならば分かるが、確かに間違い無く突然の暗闇に襲われた筈の真島が“こちらの正体を分かっていながら”切りかかってきたと言うから恐ろしい。
 遠回しなネタバラシも終え互いに臨戦態勢も解くと、真島はようやくの姿が見下ろせる位置まで近付いた。
 すっかり暗闇に慣れた真島の視界。そこに映し出されたの意外な姿に真島はその笑みを納め、代わりに驚いたように目を見開いた。
「……はあ?」


 + +


 東城会には、今地面に倒れている連中を受け入れる気は初めの内から無かった。
 そもそもの大事な交渉材料に出所不明、急ごしらえのお粗末な一億円。そして武器の持参を禁止していたはずの取引中に、乱入者の秋山に対し行った発砲。
 当然、信頼関係で言えば不合格もいい所だ。組織の強化以外に何か別の魂胆があったのではないかと勘繰られても文句は言えまい。元々要注意、目障りとしていた組織の「適宜処分」を任され出向いた真島組にとって、結果的に秋山との乱入は実は一石二鳥、おかげさまといった所であったのだ。
 アタッシュケースを手に会話に加わった秋山は、安心したように息を吐いた。
「ふー……やれやれ、そういう事なら今回の件は直接真島さんに持ってった方が良かったのかな」
「は、狐ちゃんはともかく誰が金貸しの頼みなんぞ聞くかい。お前がその金盗まれんかったらなぁ〜〜こっちはわざわざこんな面倒な真似せんでも、もっと早くにケチつけてあの馬鹿どもの事は片付けられとったんやボケェ!!」
 ずいっと真島に顔を近付けられた秋山は、「まあまあ」と苦笑しつつ彼を宥めていたが、ふとある事を思い出してその表情を変えた。
「あ!そういえば真島さん、あんたさっき情報屋さんって分かって切りかかってたでしょう!?危ないなぁ〜……情報屋さんはそちらがいつも相手にしてるいかつい連中と違って女性なんだから。そこんとこ、分かってます?」
「秋山さん、気持ちは嬉しいですが……」
 こういった仕事上、「性別はあまり気にしないで下さい」と。が口を挟もうとした所で更に苛々と機嫌を悪くした真島が怒鳴るように続けた。
「だぁーーやかましい!!大体馴れ馴れしいねんさっきから!俺が知らん所で人のもんに手ぇ出したあげく、んなけったいな面まで被せよってからに!!」
「お面?ああ、真島さんはそういうキャラクターものはご存じですか。情報屋さんもたまにはイメチェンって感じで……可愛いでしょ?」
 今日のは、いつもと違う“赤いリボンをした白猫”という例のキャラクターの面を付けていた。
 と言うのも、もし今回の件で東城会や組織から後日追求があった場合。浅知恵ながらもの事は面の違いを盾に断固として無関係を主張し、秋山自身が全て処理すると言ってくれていたのだ。どうやらその対策自体は杞憂に終わりそうなのでひと安心だが、真島はが今している面がとにかく気に入らないらしい。
 真島は彼の勢いに気圧されがちな秋山を睨み付けたまま、の事をビシッと指差す。
「このオンナはなぁ!!頭がおかしいんやで!?神室町では四六時中、面を被って過ごしとる根っからの変人!ど変態や!」
「…………」
「金貸しが用意した面には“そこ”が足りん!何っっも分かっとらんわ!!」
 真島に指差されて硬直しているを気遣うようにチラッと見てから、秋山は真島に対し苦笑した。
「えーっと、まさか真島組の組長さん直々にそこまで深い拘りがある部分だとは知らずご無礼を……いや、でも情報屋さんに今の面で襲撃されるのも、俺なら相当怖いと思うけどな」
「アホか。狐ちゃんのベストはあのいつも付けとるイカれた面の方に決まっとる」
 確かに、の愛用品は祭りの屋台などに売っているデフォルメされた可愛らしいものでは無い。特に目などは異様に吊り上がり、子供相手なら泣かせてしまうような不気味さを湛えた狐面である。
 だがそれでも、さすがに今の言い草について一言は抗議したかったが真島を見上げると、「あ?」と気が付いた真島は目を細めながら、
「ヒヒッ……狐ちゃんもそう思うやろ?なんせこの悪趣味な商売を選ぶくらいや。中身の嬢ちゃんからしても相当頭はイカれとるはずやからのぉ……まあ」
 ──俺は、そういう所が滅茶滅茶好きやで?
 不意打ちに、真島から低く色気のある声で言われたは再びぎくりと固まると、結局反論するどころか身動きさえ取る事が出来なくなった。
 その様子を見ていた秋山は溜め息混じりに肩を竦め、独り言のように呟く。
「変人は変人に惹かれる……のかぁ……?ハハ、嫌すぎる法則だこと……」
 それは果たして真島に対してかに対してか、はたまたどこか思い当たる節もある己に対してだったのか。
 どちらにせよ、今この場にはまともな人間など誰一人として存在していなかった事は確かである。