澄切った空気と眩しい太陽の光が昨夜の喧騒を抱き深泥の眠りに耽っていた街をまた徐々に目覚めさせていく。拡声器からのハウリング音が、青空高くキンッと響いた。
「おはよう、諸君!」
 朝礼台の上から告げる真島に、社員も大きな声で「おはようございます!!」と声を合わせて挨拶を返す。中には夜から働き通しだったのか目の下にげっそりと隈を作っているような者もいたが、それでも気力を振り絞る事が出来るのは、そうでないと何か恐ろしい事が待ち受けていると身に染みて理解している為か。
 そして今、そんな彼らの注意は、真島の後ろに影のように佇む見慣れぬ人物へと注がれていた。
 真島は、もっともらしくおっほんと咳をして続ける。
「さーて、朗報やでぇ?……今日からこの真島建設で働く事になった、美人秘書の狐ちゃんや!!」
 若干の溜めを作って放たれた真島の言葉に社員達がどよめく。女だったのか、なんだあの面、美人……?、などなど。不特定多数から好奇の目で見られる事には慣れているはずのにとっても、真島の大袈裟な振りが効いた為か、それはなかなかに居たたまれない状況であった。
 しかしそんな中、唯一真島だけは平然とした様子で背後を振り返る。
「ほな、本人からも軽く自己紹介してもらおか」
 それはどこかを試すような言い振りだった。は一瞬だけ逡巡するような間を置きつつも、すぐ何かを振り切ったように前に出る。真島の瞳が嬉しそうに見開かれると、彼の隣りに並んだは改めて姿勢を正した。彼女はすっと息を吸って。
「只今ご紹介に預かりました狐と申します。本業である情報屋という職業柄、通称名で名乗る無礼をどうかお許し下さい。経験不足から未熟な点も多いかと思いますが、どうぞご指導の程よろしくお願い致します」
 全体に届くように声を張って言い切ると、深く丁寧に頭を下げた。まるで時間が止まったかのように周囲が静まり返る中、大きく響いた拍手が静寂を破った。
 真島が、の隣で笑みを浮かべながらゆったりと手を叩いていたのだ。しかし社員達の視線が自身に集まっている事に気が付くと途端その表情を険しいものへくわっと変えて、彼らの方へと向ける。
「はーーくしゅ!!」
 真島からの号令に一同は身体を跳ねさせて、慌てたように手を叩き始めた。満足気に頷く真島の隣りで盛大な拍手を浴びながら、はこれからの前途多難な道行を予感していた。


 + +


 工事現場に建てられているプレハブの事務所。デスクの下に潜っていたは、あ……と小さな声を出してそこから再び顔を出した。
「やっぱり配線が少し違ってたみたいです。繋ぎ直したのでもう大丈夫ですよ」
「ええっ、本当ですか!?」
 神妙な顔でデスクトップ型の大きなパソコンに向かう西田の後ろに立って、も画面を覗き込む。しばらくの読み込み表示の後、ぱっと画面が切り替わるとようやく目的のページが映し出された。
「つ、繋がった!いや〜、助かりました!俺、この手の事にはほとほと弱くて」
「いえ、これくらいは」
「配線……、配線か。この前掃除した時に一回全部抜いたから、その時かも……」
 思い返すように言いながらたどたどしい手付きでキーボードを叩く西田の横顔を、はこっそり観察していた。
 真島建設社員、もとい、“組員”。当然西田もそうであるはずなのだが、個性の強い面子の中では、むしろ平凡に近いと言ってもいい彼はある意味特異な存在感を放っていた。何者とも知れぬ新参者である自身に対しある程度の反発は覚悟していたに、何の壁も作らず初日から親切に接して来てくれたのが西田である。
 聞けばそれまでずっと真島の世話係を主に任されていたのは彼なのだとか。「狐さんが来てくれたおかげで俺もラクになります!」なんて喜んでいたが、結局はこうして仕事を背負い混んでいるあたり、生粋の苦労人気質であるのだろう。
「あっ、どうぞ。狐さんも座って下さい」
 西田がそう言って隣の椅子を引いたので、も小さく頭を下げてそこに腰を降ろした。
 効率が良いのか悪いのか。西田は画面に思いっ切り顔を近付けてから、今度はそこに書いてあるものを何やら必死にノートに書き出している。
「私にお手伝い出来る事はありますか?」
「いえいえ、こんなもんただの雑用ですから。狐さんにさせるわけにはいきませんよ」
 むしろその雑用こそ自分の仕事のはずなのだが、と。の困惑が伝わったのか、西田は不思議そうに目を開いた。
「えっ?だって狐さんて親父の“コレ”なん──、」
「ただの出向社員です」
 小指を立てた西田の言葉をは食い気味に遮った。すると彼はへえ〜と大きく息を吐いて、意外だと言わんばかりに続ける。
「なんだ、てっきりそういう事かと……あ。えっと、俺これでも口は堅い方なので安心してもらって大丈夫っす!」
「いや、そういうのではなくて本当に……。どうしてそんな話になってるんですか……?」
「そりゃあ端から見てもいかにもお気に入りって感じですし。そうそう、桐生の叔父貴を相手にしてる時と少し似てるかなって」
 桐生という名前には思わずピクリと反応を示したが、西田は特に気が付かなかったようでそのまま先を続けた。
「親父が男相手にああいう態度取る事はあっても女相手には珍しい気がしたんで、皆言ってましたよ、“あれはきっと本命だ”って」
「女扱いされてないってだけなのでは」
「そうですかね〜……、結構いい読みの気がするんだけど……」
 西田は首を捻りながら、再び手元に視線を向けた。そう言えば何を書いているのかとがそこを覗こうとした時、彼はぽつりと呟いた。
「でも羨ましいっす」
「?」
 首を傾げるに、西田は照れくさそうに頭を掻いてみせた。
「なんにせよ、きっと狐さんは親父に認められたんですよ。俺達なんて毎日怒鳴られてばっかなんで……、これでも少しは恩返ししたいって思ってるんですけどね」
 西田の言葉をは意外な心持ちで聞いていた。ちなみに、意外、というのは西田に対してではなく、彼が語った真島という人物に対してである。
 西田に限った話では無いが、その自由奔放な行動に振り回され散々な目に合わされてるはずの彼らが、それでも皆口を揃えて真島の事を慕っているのだという。
 それこそ、命さえ張れるのだと。
 まだ真島と知り合って日が浅いにとっては完全には理解し難い話だった。だがそれでも、今の西田の言葉に対して、確かに感じる事はある。
「皆さんがそうして慕うだけの方なら、きっと皆さんの気持ちも理解して認めてくれているはずですよ」
「そ……、そう思いますか?」
「はい。本当に」
「!笑ったっ!?」
 そこで突然がたっと椅子から立ち上がった西田に、は思わず肩を揺らした。
「あ……す、すみません!狐さんてあまり表情は変えない方かと思ってたんですけど、今ひょっとして笑ってくれてたのかなって」
「……失礼しました」
「とんでもない!……ははっ。なるほど“美人秘書”かぁ〜、そうかそうか……」
 何だかもじもじとした仕草で頷きながら、西田は再び腰を降ろす。そして思い出したように再びあっと声を出した。
「って事は、さっきの狐さんの話ってあれ本気だったんすね」
「さっき?」
「ほら、親父とはそういう関係じゃないって話。……いや〜ここだけの話、親父の女の趣味って俺らが知ってる限りではちょっと独特なんで」
「独特……」
 言われてみれば、真島の女性の好みなど想像もつかないは少なからず関心を抱いた。
「世間一般で言う“綺麗どころ”には大して興味が無いというか。俺らはよくキャバクラに行ったりとかもするんですけど親父はそこらへんわりと冷めてますし、と思ったらテレビ見てる時に正直そこかぁ?っていうような女タレント褒めたりもしてて」
 西田は女性であるの手前もあって直接的な表現は使わないようにしているようだったが、には彼の言わんとしている事がなんとなく伝わってきていた。
 しかし遂に彼自身、その遠まわしな物言いに対して歯痒さを感じてきたのか。
「まあ、はっきり言ったらおそらくブ、す……」
 言いかけてそこでハッと固まった西田の視線は、彼の正面にあるパソコンの更に奥へと向けられていた。お決まりの──、と言うか。ある程度予測出来ていた展開を受け入れながらもその視線の先を追った。
 コンコン、と。事務所の引き戸がノックで揺れる。
 磨りガラス越しにでもその不穏な笑みが読み取れる程の至近距離に、真島は立っていた。


 + +


 真島がダンッ!!と強く扉を開けて事務所内に入ってくると、西田は椅子にぶつかりながら慌ててその場に立ち上がった。
「あ、これはちょうど頼まれてた事をやっていて……現場の音もうるさいですし、えっと、そのつまり……聞こえてましたか……?」
「おかげ様で、そこまで聴力は衰えてへんねん」
「さ、流石です!」
「じゃかあしい!!馬鹿にしとんのか!?」
「(西田さん……それまでかなりいい事言ってたのに)」
 真島の剣幕に悲鳴を上げる西田に責任の一端を感じた感じたは、彼らと同様に立ち上がった。
 西田の胸倉を掴んだ真島が、今更のように気が付き顔を向けてきた所で、は彼に向かって恭しく頭を下げる。
「お帰りなさいませ、真島社長」
「──……」
 そこで急に真島が手を離すと、それまで怯えたように顔の前に腕を上げていた西田がえっ?と戸惑った声を出した。すると今度真島はそんな彼の背を平手で思いっきり叩く。
「痛あっ!?」
「西田ぁ……お前、今の狐ちゃんの台詞ちゃあんと聞いとったか?」
「!き……、聞いてました!親父は今、俺らの社長っすもんね!」
 場の空気の変化を読み取った西田がすかさず椅子を引くと、真島はそこにどかっと腰を降ろしてふんぞり返った。そして宙を見上げながら上機嫌に顎を撫で、心持ちいつもより低い声を作る。
「社長……、社長か。これまでも似たような呼ばれ方しとった事はあったが、これはこれで悪ないな……」
 西田が礼を告げるように目配せしてきたので、は小さく頷いた。するとそれにぴくと反応した真島が、彼に牽制の眼差しを向ける。
「狐ちゃんに免じて今回は大目に見たるが、次に適当な事ぬかし取ったらしばき倒したるからな。大体俺は女の見かけやのうて、ハートを大事にしとるってだけや」
「でも親父、この前の時なんて明らかに……」
「俺がそう言うたらそうなんじゃ!!そもそも、俺の趣味が悪いみたいな言い方しとったら狐ちゃんにも失礼やろが!?」
「えっ!やっぱ狐さんってそうなんです?」
 西田から聞いていた話から順にまとめていくと。
 結果的には今、少し傷付いていた。
「(で、でも“素顔”は見せてないし……)」
 そう心の中でほんの少し意地を張って、は気を取り直したように口を開く。
「社長。調べものがあるなら私にも仰って下さい」
「悪ない。悪ないが……、よくよく考えたら普段から社長なんて呼び方はちと他人行儀やな。もっと気軽にア・ナ・タ、とかでええで」
「……真島、さん」
 が最大限に譲歩して述べると、真島はまあそれで勘弁してやるかと言わんばかりに肩を竦めた。
「こいつにやらせとったのは狐ちゃんに任せとるのとは別の現場側の話や。で、どやった西田?」
「はい、バッチリです!こうして何でも調べたら出てくるんですからインターネットってやつはすごいですねえ。やっぱり、基礎の本数はもう少し増やしてみる事にします」
「……すみません。その、現場側の調べものって……?」
 真島と西田の会話から嫌な予感がしたが恐る恐る聞くも、彼らは何て事はないように応えた。
「狐ちゃん知らんのか?今、分からん事があればネットで調べたら大概のもんは出てくるらしいで。あー、あれや。西田、お前がやっとるのは何やったっけ?」
「俺が使ってるのは質問を書き込んだらそれを読んだ誰かが回答をしてくれる知恵の袋っていうサービスですね!返事も結構早いし、皆さんプロの方々なんで頼りになるんですよ」
「まさかほんまにビルの建て方なんてもんまで出てくるなんて、便利な世の中になったもんやの〜。ま、こんなもんはさっさと調べてさっさと建築やな」
 まさか質問に回答を寄せている“自称”プロの皆様も、自身が知らぬうちにこんな一大プロジェクトに携わっているとは思うまい。
 図らずとも神室町ヒルズ計画の触れてはいけない深部に触れてしまった気がしたは一人顔を青くしながら、賽の河原繋がりである知人のホームレス達の中に建築業経験のある者がいないか、早急に声を掛けようと決めたのだった。