「ええ、よろしくお願いします。相手には、私からも日程を連絡しておきます」
 事務連絡を終えたは通話を切ると、携帯を持つ手をだらりと下げた。
 ここが他に誰の姿も無い、闘技場のバッグヤード通路である為にいくらか気が緩んでいるというのもあるのだろう。今日も変わらず聞こえてくる闘技場の熱狂に紛れるように小さな溜息を吐く。
 が当初考えていたよりも真島建設の業務は多岐に渡っていた。花屋から引き継いだ賽の河原の機能維持は勿論として、その表の顔である賭場と闘技場の運営、加えて大きいのが神室町ヒルズの建設だ。少し前まで花屋の元で情報屋として動いていたはずの自分を思うと、目まぐるしい変化である。
 はふと遠い眼差しを浮かべて呟いた。
「地上げ屋三銃士って一体……」
「だーーれだっ!?」
「!!」
 と、すっかり油断しきっていた所に背後から視界を塞がれて、はギクッと背筋を伸ばした。
 いや、油断しきっていたといっても普通であれば気配には気が付く。おそらく相手はこの手の襲撃に余程慣れているのだろう。
「……声を掛けるなら、普通に掛けて下さい」
 ククという笑い声と共に再び視界が開かれる。
 が振り向くと、そこには予想通り真島が立っていた。やや斜めに傾けてこちらを見下ろす顔に、からかいの色が滲んでいる。
「あかんなぁ〜。スキだらけやで、狐ちゃん。誘っとるのかと思ったわ」
「違います」
「そうか?にしても、随分アンニュイな雰囲気は出しとったやんけ」
 遠からず言い当てられて、は思わず言葉に詰まる。
 しかし真島は、特に彼女の反応には構う事なく先を続けた。
「ところで、狐ちゃん大阪には行った事あるか」
「?はい、何度か」
 直後。はしまったと思った。
 今より少し前に抱えていた案件で、実は大阪には頻繁に通っていた。真島がそこに探りを入れてきたわけでは無いだろうが、あまりに唐突な問いだったからといって何も考えず答えてしまった事は、情報屋としては軽率だ。
 実際、心なしか長めの間が生まれていた。狐を狩る鷹のような鋭い目つきでを見下ろしていた真島は──、頷く。
「なら、問題無しやな」
「問題?」
「明日の朝、迎えに来さすわ。詳しい説明は行きの道中したるから、取り敢えず荷物はまとめとくんやで」
 ほな、と軽く片手を振ってその場を去っていく真島。
 この環境下で鍛えられたせいか、今の明らかに説明足らずな会話からも何となしに彼の意図を悟ったは、最早抵抗すら諦めて離れていく背を見送った。


 + +


 大阪までは車移動で、聞きそびれた話を聞くには十分な時間があった。運転席から仕切られた対面式の黒い本革シート。まるで密やかに言葉を交わす個室のような空間で、は自身の手元に視線を落とした。
「この大会で不正が行われているという事ですか」
 “キャバクラグランプリのご案内”──淡いピンクで縁取られた上質な用紙に、それはきらびやかな書体で記されていた。
 が再び顔を上げると、彼女の斜め向かい、最後尾のシートで腕組みする真島と視線が合った。
「ああ」
「真島さんに協力を依頼してきた陽田さんというのは、蒼天堀でキャバクラの支配人をされていたという時の……」
 からの問い掛けに、真島は脚を組み替えて応えた。
「厳密に言うと……、俺が元々任されてたのはキャバレーの方なんやが、何やかんやあって陽田ちゃんがオーナーしとったキャバクラの方も手伝うようになってな」
「連絡はずっと取られてたんですか」
「いいや、俺が神室町に戻ってからは全く。そんな不義理な男をよう頼ってくれたもんや」
 今から二十年近く前にあった東城会の内紛劇は、他組織や外部の人間も巻き込んだ過激なもので最早界隈の伝説と化している。しかしその詳細については──まるで誰かの手によって黒く塗りつぶされているかのように──不明瞭な点が多い。
 よって、当時この“真島吾朗”という男が大阪蒼天堀で何をしていたのか。そしてなぜ神室町に戻ったのかは、情報屋であるも知り得る事の無い話であった。まさかその一端が本人の口から語られるとは思わず、彼女は他に隠された意図がないのかをつい探ってしまう。
「狐ちゃんも情報屋なんぞやっとって知らんかったのか?こんなもん初歩の初歩、ゴロちゃん検定1ページ目に出てくるような話やで」
「おそらく知ってる方は少ないと思いますよ」
「ならどこかの誰かに俺の情報を聞かれた時は、せいぜい上手くふっかけて高う売っといてや」
 その反応しづらい軽口に、車内が一瞬静まりかえる。
 しかし真島は何て事はないように軽くフッと笑って続けた。
「俺の個人的な話に付き合わせとるんやし、狐ちゃんにもそれくらいの見返りはないとな。そうそう、俺に連絡がつかん時はさっき教えた陽田ちゃんの方でもええで」
「あちらに着いたら真島さんはどうされるんですか」
「一応、話が聞けそうなツテがある。俺はそっちの方から当たってみるわ」
 蒼天堀での別行動は、にとって有り難い提案だ。
 は真島の部下でもなければ、絶対的な協力者でもない。本来のボスである花屋からの指示に従って行動を共にしてはいるが、仕事の手の内を知られるのは避けたかった。
 先程の軽口から察するに、真島もその事は理解している。普段の一見親しげな振る舞いからは“冷めている”とすら感じられる程、引くべき所の一線は引いている彼に対しては──狐面の下、緩んでいく頬を必死にこらえていた。
「(久しぶりの仕事)」
 と言うのも、最近色々手広くやらされ過ぎて本来の自分というものを見失い掛けていた所だ。露骨に態度には出さないように気を付けつつも、否応無しに前のめりにはなってしまう。
 真島はそんな彼女をジッと見ていたが、やがて鼻から小さく息を吐くと、視線を窓の外へと移した。


 陽が落ちて、昼間とはまた違った様相を見せ始める繁華街。大通りの端にあるたこ焼き屋台の店先にぶら下げられた提灯にも、オレンジ色の明かりが灯っていた。
「はい、どうぞ〜。容器の下、熱くなってるから気を付けてな」
 目尻に深い笑い皺が刻まれたベテランの店主から、自身が注文した8個入りのたこ焼きが入ったビニール袋を受け取りながらも礼を告げた。そして、店のすぐ近くのベンチには座らずに、賑やかな人の流れに沿うように歩き出す。
 当然と言うべきか、今のは狐面を外していた。清潔感あるベーシックなアイテムで固めた服装と、腕に提げた小振りなバッグにピンヒールのパンプス。それがまるで何度と無く辿ってきた帰路であるかのように迷いない足取りで進むの事を、地元外の人間と見る者の方がおそらく少ないだろう。
 やがて蒼天堀川沿いの遊歩道にやってきたは、そこに一定の間隔を空けて並ぶベンチのひとつに腰掛けた。
 熱々のたこ焼き、“容器の下”──蒸気で湿らぬよう薄いビニールの中に包まれていたのは、小さく折りたたまれた数枚の用紙だ。がカサリと小さく音を立てて開くと、そこには異なる名義の銀行口座のコピーがあった。彼女は数字の羅列に目を走らせると、再び折りたたんで袋に入れる。
「(たこ焼きの代金、もっと多く支払った方が良かったかも)」
 巧妙にカムフラージュされてはいるが、やはりこのキャバクラグランプリの裏ではが想像していた以上の大金が動いている。
 彼と別行動となってから二日目。拍子抜けする程あっさりと仕事の大半を終えてしまったは、さてこれからどうしようかと目の前の蒼天堀川を眺めた。
「冷めたたこ焼きほどマズイもんはないで」
 とは反対側、ベンチの端に男が座っていた。
 その視線は前を向いているが、掛けられた言葉は明らかに彼女に対してのものである。不意を突かれたは思わず呆けた表情をそちらに向けてから、少し遅れて言葉を返した。
「後からまた、温め直すので」
「遠路はるばる大阪まで足伸ばして一人飯とは、また侘しい話やな……」
 放っておいてくれ、反射的にそう言い返しそうになるも、は思いとどまった。
 “知り合いでもあるまいし”。これ以上、男との接触は不要だ。ただ、この状況に心当たりがあるとすれば、前回蒼天堀に来た時にも世話になった先程のたこ焼き屋だ。
 ここから屋台が見えるはずも無いのだが、の視線は自然と橋上へと向けられた。すると何がおかしかったのか、隣の男が息を吐くようにして笑う。
「釣りでも貰い忘れたか?屋台ならもうさっきの場所にはおらんで」
 そう言って男はゆっくりと指先を持ち上げると。
「探すんならこっちや」
 それは、夜のネオンがゆらゆらと揺れる、濁った水面を指して止まった。
 の纏う空気が変わると男は冗談だと付け足す。本当に冗談なのか、今の彼女に真偽は確かめようがない。しかしここで再び反応してしまった事で、男に対し無関心を続けるのも不自然な状況にはなっていた。
 それならばと。は前を向いたまま口を開く。
「今回私が調べてる事はそちらとは全く関係がありませんよ」
「ほぉ……、さいでっか」
 しかし緊迫感あるとは対象的に、男は気のない返事をした。それはが思っていた反応とは違うもので、いくらか面食らってしまった彼女に男は見透かしたように言葉を続ける。
「ハナからおたくの仕事に興味は無い。それに晴れて他人同士となった間柄や。ほんまはわざわざ声掛ける気も無かった」
「それならどうして」
「それや」
 男は顎での膝上の袋を指す。
 袋の中のたこ焼きは、夜の外気にさらされてすっかり冷めてしまっている。これが一体どうしたというのかとが返す言葉に迷っていると、男はやれやれと呆れたように溜息交じりで続けた。
「今度は美味い飯でも食いに来い伝えたはずが、そんなん見せられたら文句のひとつも言いたくなるがな」
 そこでは、いつかの神室町の屋上での出来事を思い出した。
 あの通話を最後にもう二度と関わる事も無いだろうと思っていた相手とこうして素顔の状態で言葉を交わしている。当然には戸惑いがあったが、男の態度はまるではじめからこの場所で彼女と待ち合わせでもしていたかのように気負いの無いものだった。
「いや、たこ焼きも美味しいですし。それよりもこんな事している暇あるんですか?だって今は……」
「まあまあ、その辺りの面倒な話はこの際抜きにしようや」
 すると男はの言葉を遮るように両膝を叩くと、そのまま立ち上がって彼女を見下ろす。街灯の灯りが遮られ、大きな影が彼女に落ちた。
「行くで。ちょうどあんたみたいなええ女と、サシで飯が食いたい気分やったんや」
 そう言って、男はニッと笑う。
 何の裏もない、大胆で力強い笑み。そう考えると、やはりはこの男とは今ここで初めて出会ったのだ。


 + +


「お帰りぃ」
 がホテルに戻ると、狭いシングルルームの奥に置かれた椅子から、真島が猫なで声で彼女を出迎えた。
 思わず動きを止めたに、彼は眉を顰める。
「なんや。感動の再会やっちゅうのにもっと嬉しそうにせえや」
「す、すみません。驚いてしまって」
「のわりに、しっかりツラは隠してきたやんけ」
「これは一応……」
 の姿は神室町での狐面のスーツ姿に戻っていた。真島に電話で報告を入れた際はまた改めて情報交換をという話で終わっていたのだが、ホテルに近付くにつれ何か勘のようなものが働き、念には念を入れたという所だ。
 急いで付けた面の位置を確かめるように顔に手をやるを、真島はふぅんと眺めた。
「ま、ええわ。頼んだ件は順調みたいやしな」
「はい。後は関係者の動きでも追おうかと思うんですけど」
「いや、そこは陽田ちゃんがやってくれとる。……にしても、また……」
 真島は椅子に座ったまま、頭をぐるりと回すようにして部屋を見渡した。
「もうちょっと他に部屋あったやろぉ〜?こんなんじゃ、男の一人も満足に連れ込めんのとちゃうか」
「連れ込みませんから!」
「……は?連れ込まんのか?」
 おふざけ無しの真島の反応に、はえっと戸惑いの声を上げた。真島は呆れながら、そんな彼女に言い聞かせるかのように上半身を折る。
「別に大阪くんだりまでわざわざ遠足に来たわけでもなし。やる事やっといてくれたら、こっちは何も文句は言わん。残りの滞在期間、狐ちゃんの好きに使てくれてええんやで」
 真島の言葉を受けて、はしばらく考えると。
「それなら、私は先に戻って真島建設の」
「話聞いとったんか!!?」
 思わず動きを止めたを、真島はじとりと睨む。
「そんなんやからいらん事まで溜め込む羽目になんねん。真面目なのは結構やが、手ェ抜く所は抜いて人生楽しんでいかんと損やで」
 そこまで聞いて、はようやく今回真島が自分を大阪まで連れてきた理由が分かった気がした。
 彼の意図に気が付く事が出来なかった自身を少し恥じながら、は姿勢を正して頭を下げる。
「あの……何だか気を遣っていただいたみたいで、ありがとうございます」
「あー、ハイハイ」
 しかし真島は邪魔くさそうに手で払ってあしらった。
「そうだ、それに私何も飲み物もお出しせずに。用意しますね」
「いや、別に──」
 が椅子近くのテーブルに置いた手荷物に目を留めると、真島はその瞳を意味ありげに眇めた。
 白い袋の中のたこ焼きは、いまだ手付かずのままだった。