広く開けた地下空間では音が反響しやすい。曲は管弦楽が奏でる壮大なイントロから始まり、力強くタクトを振る指揮者の姿が目に浮かぶような勇ましいリズムで進んでいく。約三分間の曲が終わると、真島は革張りの椅子に腰掛けたままゆったりと手を叩いた。
「ええやないか」
 顔に浮かべる笑みからもどうやらご満悦のようだ。は安堵して、曲を再生していたノートパソコンを閉じた。
「では社歌はこれで決──」
「もうワンテイク」
 人差し指を立てて言い放った真島に、は手を置いていたパソコンから彼の方へと顔を向けた。真島は背凭れに身体を深く預けると、念押しする様に繰り返す。
「もうワンテイクや。聞こえんかったか?」
「……理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「これでもまぁ悪かないが、今いちインパクトにかけるっちゅうかな。もっとこう、ババーーン!!……と勢いのある感じの方が、聞いてて気合も入るやろ」
 腕を大きく広げながら話す真島に、はこの場で頭を抱えたくなる気持ちを必死で堪えた。
 彼からのダメ出しによる真島建設社歌の作り直しはこれが初めてではない。今回は曖昧でも一応の理由があるだけマシで、何となく気に食わないからと没が出た事だって何度もある。
 その事を考えると前進はしている。あとは自分が発注先との気まずいやり取りに耐えれば済むのだと、はここまで僅か数秒の葛藤の末に顔を上げた。
「インパクトと勢いですね。伝えます」
「……やっぱ、狐ちゃんは話が分かるなぁ」
 すると広げていた腕を降ろしながら、真島は笑みを深めた。ふと思いついたようにこんな話題を口にする。
「知っとるか?上司から部下に対する過大な要求は、パワハラっちゅうのになるらしいで」
「セクハラじゃなくて、パワハラですか?」
 あまり聞き慣れない言葉にが聞き返すと、真島はああと頷いた。
「パワーハラスメント。最近出てきた和製英語やと。大阪でキャバクラやっとる俺の知り合いが、今はそうでもないが、そのうち認知が広まれば法制化もありえへん話やない言うとったわ」
「パワーというと……」
「上司だったり、立場が上のもん……。ま、要は弱いものイジメはあかんっちゅう話やな」
 真島の解説を、は己の見聞を広げるように興味深く聞いた。彼の言葉を反芻し、しかしはある一部分に引っかかると。
「この話の流れで出てきたという事は、過大な要求の自覚が」
「──そこでや」
 バンッと音を立てて、真島が机に手を置いた。その勢いのまま彼は気合いの入った表情で口上を述べる。
「俺らもやるでえ!時代は常に先取っていかなあかん。真島建設はパワハラ禁止、目指すは笑顔溢れるアットホームで明るい職場や!!」
「(ええ……)」
 真島の今自身らが置かれている“カタギ”の建設会社という立場との向き合い方については、ある日は現場でメガホン片手に檄を飛ばしていたかと思えば、別の日には賽の河原の奥で馬鹿らしいとばかりに飽き飽きとした表情を見せていたりと、とにかくその日の気分によって異なるようにには思えた。
 確かな事は、どれだけの大きな組織の中にどんな状況でいようとも、彼は彼であるという事だ。
 その見立てでいくならば──、どうも今日の真島は建設会社という世界観を大事にしている。は言葉を選ぶようにして返した。
「人によっては感じ方も捉え方も違うでしょうし、それを禁止とするのは難しいのでは……」
「ええところに気が付いたな、狐ちゃん。実際まだパワハラについての定義はされとらんらしいで」
 それならやはり、と改めて異を唱えようとしようとしたの言葉を見越してか真島は更に続けた。
「せやから、まずはうちの中だけでその定義とやらを決めりゃええだけの話や。他は追々でも対応出来るやろ」
 思い付きと勢いだけで行動しているかと思いきや、こうして理に適った事を言うものだから、最終的に周りは振り回されつつも口を噤むしかないのであった。


 + +


 賑わう賭場から、遠く離れた場所に位置するスタッフ専用の事務室。四方を白い壁に囲まれた室内には、今回は使用しないものの大きなスクリーンも用意されている。他には漏らせない話を扱う事も考えて外部から完全に遮断されたそこは今、僅かな息遣いすらも際立つほどに静まり返っていた。
 この恐ろしい程の緊張感には理由がある。
 向かい合うよう並べられた長机。その中央、一番後ろの席で悠然と足を組む真島は、彼と視線を合わさぬよう俯き加減に肩を並べる面々にゆっくりと視線を滑らせていった。
 そうして左右を一通り確認をしたところで、黒革に包まれた片手をすっと挙げて、前方の議長席に立つに合図を出す。どうしたのかとが顔向けると、彼は薄く笑って口を開いた。
「まず。これはどういうおふざけか、説明してもらおか」
 その場の何人かから、か細い息が漏れる。
 今回集まった面々は皆、顔を目出し帽とサングラスで隠していたのだ。
 全員分は揃える事が出来なかったのか、よく見ると中には間に合わせのようなプロレスのマスクであったり、うさぎの着ぐるみの頭部だけという者もいる。から言わせると特に後者は避けるべき扮装のようにも思えたが、背に腹は変えられないという思いがあったのだろう。は彼らの覚悟を代弁すべく、応じた。
「決してふざけてはないです。今回ご協力いただく皆さんは、匿名での参加をご希望との事でしたので」
「はぁ〜〜?なんで面が割れとったらあかんねん」
 ──それは、あなたが、怖いからです。
 おそらくこの場にいる真島以外の面々すべてが心の中で即答した事であろう。パワハラという上司からの扱いに対して意見するという事は、つまり真島に対して意見する事に他ならない。ここは何とか上手く誤魔化してくれ!という周囲からの強い圧を感じ取ったは、少し迷ってから口を開いた。
「お面なら私もかぶってますよ」
「((どうだ!?))」
 一同が固唾を呑んで見守る中。の言葉を聞いた真島はすっと目を薄めた。
「……まあ、それもそうやな」
 どうにか切り抜けて、その場に安堵の空気が流れる。
「しかし声も出さん気か?それじゃあ話し合いになれへんやんけ」
「その点は事前に案をいただいて、準備済みです」
 は先程からテーブルの上に置いていた箱に手を乗せた。
「この中に、パワハラにあたるのかどうか、皆さんがそれぞれこの場での判断を仰ぎたいと思われた事例を用紙に書いて入れていただいています」
 それと、と付け足して、今度は箱の隣に並べれた二つのトレイに手をかざす。
「事例がパワハラに該当すると思われるなら“右”。そうでないなら“左”。同様に左右どちらかで挙手していただいて、多数決で振り分けていこうかと……」
「そこはいちいち左右の手で分けんでも、パワハラと思うかどうかで採決を取った方が分かりやすないか?」
 するとは、説明の間も沈黙を続ける周囲の様子をちらと窺ってから。
「それは……是か否か、直接的な表現ではやり辛いという事で、一応隠語の代わりにというか。あとは挙手をするしないで、該当者が目立ってしまうのではないかという意見もあったので」
 腕組みしながら無言で見渡す真島から逃れるように、一同は更に深く俯いた。
 彼らとて、組織の中でも武闘派として名を馳せる真島組の一員である。抗争ごとともなればその身一つで我先にと飛び込んでいくのが常だが、こと親である真島を相手にしては話が別であった。
 はそんな彼らと今から扱う議題とのちぐはぐさを改めて思いながら、箱の中から紙を一枚引き出した。
「“声が小さいと怒られる”。これはどうでしょうか」
 それぞれが周囲を窺うように見渡して、やがて一人が先陣を切った事を切っ掛けに手が挙がり始める。はそれらを目視で数えながら、真島の元で視線を止めた。
「真島さんは」
「あーええ、ええ。取り敢えず俺はここで見とくから、先進めてもろうてかまへんで」
 挙手に参加しなかった真島は、代わりに手をヒラヒラと振ってに進行を促した。
 結果は左。パワハラには該当しないと判断するものが大多数であった。一般企業においては異なる結果もあり得るだろうが、中には更に下に子分を持つ立場の者の意見もあってか、声ぐらいしっかりと出すのが基本という感覚の方がこの場では強かったようだ。
 そうなると、皆が気にするのは真島の反応だが。
 彼は特に顔色も変えず、椅子の上でやや身体を斜めに傾けながら、自身が言うように事の成り行きを静かに眺めている。
 緊張感はあれど、真島の態度を見るに当初危惧していたほど場が荒れる事はないのかもしれないと思われた。はいくらか安堵して読み上げた紙をそっと左のトレイに置くと、新しい紙を箱から引き出した。
「“休みがもらえない”」
 おそらくは早朝から深夜まで続くビル工事の事であろう。すると今度挙がった手は右、パワハラと訴える人数の方が明らかに多かった。それを見て、も右のトレイへと紙を滑らせる。
「休んどったら、ビルは建たんけどなぁ……」
 しん──と、再び室内が静まり返った。
「真島さん」
 トレイの上で手を止めたが、先程の呟きの主である真島に諌めるように声を掛けると、彼は軽く肩を竦めつつおどけるように両手を挙げた。
「何かあかんかったか?」
「採決後に意見されるのはどうなのかと」
「ただの独り言やんけ。──なぁ、西田」
「!は、はいっ!!……あ」
 プロレスマスクの一人、西田は、思わず真島からの呼び掛けに答えてしまった口をハッと押さえて固まる。
 ニヤニヤと笑みをたたえる真島と、顔を隠している事の意味に不安を覚え始める一同。つられて胃が痛くなりそうになりながらも、は紙を右のトレイに置いて、次の紙を引き抜いた。
「(良かった、これは大丈夫そう)」
 先に内容をこっそりチェックしてから、はきっと誰かがおふざけで書いたであろうその文を読み上げる。
「“笑いどころを間違えると、金属バットでボコボコにされる”」
「「…………」」
 予想外に重たさを増した空気には狐面の下で戸惑う。“こんな例え話”、当然皆が迷わず同じ手を挙げるものだろうと思っていたのだ。
 やけに長く感じられた沈黙の後、まるで泥中に沈んでいた腕を引き上げるかのように重たげに、一人がゆっくりと手を挙げた。するとようやく、他の面々も恐る恐るといった感じでそれに倣う。
 そうして結果を見ると──いくらか意見が割れていた先程までと違って、今回は満場一致で皆が“右”であった。それはそうだろうとも納得して頷く。
「それでは、こちらは右に」
「左」
 ゆったりとした低音が静かに響く。顔を上げてそちらを見たに、真島は笑みを深くすると、有無を言わさぬ口調で繰り返した。
「左」
 は真島と、つい最近も似たようなやり取りをした事を思い出す。だがその時とは状況が違うのだ。
「多数決ですから。右です」
「せやから、ほれ」
 見てみろと言わんばかりに真島を顎しゃくって示した先に、も視線を向けた。
 いつの間にか──その光景は、反転していた。
 満場一致で“左”。考えられるとすれば、真島とのほんの短い会話の最中だ。が彼らの真意を問おうと見るも、背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま彼女とは目を合わそうとしない。
「ほな。どんどんいこか」
 の手から離れた紙が、左のトレイにぱさりと乾いた音を立てて落ちた。


 + +


 まるで何かを挽回しようとするかのように、一人一人が真島に気合の入った挨拶をし退出していく。対する真島はそれらを鬱陶しそうに手で払って受け流していたが、同じ調子で何人かぞろぞろと続いた所で積み重なった苛立ちが爆発したのか「やかましい!!」と強く怒鳴り声を上げたため、以降は皆逃げるように事務室を後にした。
「今のはパワハラにあたりませんか」
「あぁ?」
 不意の指摘に対して反射的に、真島は彼らに向けていた表情そのままに前方のを睨む。しかし相手が彼女である事を思い出すと──感情を奥に潜めるようにし──改めて薄い笑みを浮かべた。
「貴重なご意見として、つつしんで承らせてもらうわ」
 は小さく溜息を吐くと、仕分けを行った紙の束を手に取る。
 結局。真島の発言の後は皆が萎縮してしまい、以降は彼の顔色を窺うような偏った結果となってしまった。今この場で不和を生み後々事態の悪化に繋がる事よりも、現状維持で耐える道を選んだのだ。
 はよくもやっていけているものだとその忍耐強さに感心しつつ、途中に挟んだ休憩時間の出来事を思い出していた。
「そう言えば西田さん達が気にされてたんですが」
「ほ〜、やっぱりあれはそうやったんやな」
 一瞬。西田に悪い事をしたかもと心の中で謝ってから、は続けた。
「ええと、よくあの方が西田さんって分かりましたね」
「分かるわけあるか」
 えっと声を上げたに、真島はひらひらと片手を振りながら応じる。
「あいつらは適当にカマかけたくらいで動揺し過ぎや」
「……それにしては、目線が定まっていたような気がするんですが」
「────、」
 の疑問を、真島は口を僅かに開いたまま無言で受けると、やがて面倒臭そうに溜息を吐いた。
 彼は自身の手首に、指をとんとんと打ち付ける。
「悪趣味な時計つけとったやろ」
 も今は休業中となっている情報屋としての癖で、彼らの身なりの変化は細かくチェックしていた。その事に多少の後ろめたさもあり頷いていいものか躊躇うも、問いを投げてきたはずの本人である真島は、彼女の返答を待つでもなく続ける。
「あれで目当ての女の気ぃ引くつもりらしいわ。時計なんぞに金かけるくらいなら高いボトルの一本でも入れたった方が効果はあるやろうに」
「普段からそういうお話はよくされるんですか」
 の考えを察した真島は、その推察を不愉快だと言わんばかりに眉間に皺を寄せた。
「俺かて別に聞きたないわ。浮かれた声で話されて、勝手に耳に入ってきたんや」
 それは真島の洞察力や注意深さによるものと言えばそれまでなのだが、は今の話からやはり違う印象を受けていた。決して分かりやすいものではない。だが、“親”とは──特に“息子”にとっては──元来こういうものであるような気がした。
 は、積み重ねられた紙の束に視線を落とす。
「結局、多数決ではほとんどが“該当しない”でしたね」
「そらそうやろ、俺は優し〜い上司やからな?……って、こら。すかしとらんとつっこめや」
 すみません、と謝りつつ、は段々とこの特殊な環境に順応してきた己を思い知る。
 真島の言う事もあながち間違ってもいないかもしれないと、そう思ってしまったのだから。