賽の河原地下歓楽街、最奥の部屋。現在の主である真島が居を構えるその部屋で、は椅子に深く背を預ける彼の、そのいかにも不満気なムスッとした眼差しを一身に受けていた。
 この新しい雇用主の元に移ってまだ日が浅いからか、もっと根本的な事か、とにかく彼女には彼の快不快のスイッチがどこにあるのかが未だに読めなかった。当然、こうして突然呼び出された理由にも何も心当たりが無かったのだ。
「地下闘技場のテコ入れがあったのは知っとるな」
 真島は何の前置きも無く、開口一番そう口にした。
 彼の性格上、不必要に勿体ぶるような真似はしないのだろう。それこそが今回の核心に触れるものと察しつつは頷いた。
「はい。新しい演出も好評みたいですし、盛り上がっていますね」
「ほう、新しい演出」
 他には?と先を促すように顎先を持ち上げた真島に対して、は一瞬だけ返答に窮しつつ、続けた。
「腕の立つ参加者の方も増えましたし……」
「例えば誰や」
「えっ」
 困惑するに、真島は苛立ちを隠そうともせず指先を忙しなく机に打ち付ける。
「そこはすっと答えんかい!おるやろうが、ほれ……あ〜名前の最初に“ハ”が付いて、顔を隠した……」
 真島からもどかしげに出されたヒントでついにピンときたは、常時平静を心掛けている彼女にしては珍しく明るい声色で答えた。
「ハデス西沢さんですね」
「誰やねん!!?」
 バンッ!!と真島が平手で強く机を叩くと、は肩を僅かに跳ねさせた。そして今にも噛み付いてきそうな彼を相手に戸惑いながら続ける。
「新死刑執行人の異名を持つハデス西沢さんかなと……。最初に“ハ”が付きますし、顔にもガスマスクをされていますし」
「……なんや、言われたらちょろっと思い出したわ。名前までは知らんかったが、確かにおったなそんな奴」
「それか、ハンニャマンさんの事ですか?」
 そこでが新しい名前を出すと、真島は不意を突かれたように目を丸くした。そして溜息と共に脱力しながら改めて彼女を見上げる。
「ファンや言うとったやろがぁ〜?せやのに、なんでそこでハデスなんちゃらの方が先に出てくんねん」
「その、クイズのようなものかと思ったのでハンニャマンさんみたいなトップランクの選手の方だと、捻りが無いかなと」
 の言葉に真島は片眉を上げると、表情の変化を追った彼女に対してそれを誤魔化すように大袈裟な咳をした。
「まあ……、せやったらそっちはええわ。試合を一度も見に来、行かんのはどういう了見や?」
「仕事があるからです」
 今度は間髪入れず、むしろ強めの口調で言い切ったに、真島が目を開く。
「ハンニャマンさんの試合の時に限って、真島さん必ず不在にされているじゃないですか」
「そりゃあ、お前……」
 珍しくもごもごと口ごもる真島に、もこの件に関しては今まで溜め込んでいたものがあったのが、彼を責めるように前のめりの姿勢になって続ける。
「私まで外して、窓口が無い時に何か大事があったら困りますよね。観覧したいのは山々なんです。一年振りなんですよ。ハンニャマンさんは次回いつエントリーされるかも分からないですし」
「お、おお?分かった分かった、俺が悪かったから落ち着け。な?」
 真島からどうどうと宥められると、はハッと我に返ったようにして、己の勢いをやや恥じるように下がった。真島はそんな彼女を半眼で見つつ、自身の首筋を指先でぽりぽりと掻く。
「それだけ見たいんやったら、仕事の方は少しくらいサボったったらええやんけ」
「……社長がそんな事を言わないで下さい」
「またこういう生業しとるくせに変なところで真面目なやっちゃな〜。ハァ……おかげで、どっかの誰かさんの仏頂面を思い出してもうたわ」
 真島は改めて背凭れに深く寄り掛かると、何か考えるように腕組みしながら天井を見上げた。しばらくそうしていた彼は、やがてその視線を再びに戻し口を開く。
「仕事ならええんやな?」


 + +


「……ん?ここに来るのは久々だな」
 闘技場の受付の男に声を掛けられると、はほんの少しだけ片手を挙げて応じた。そして首を動かして周りに他の姿が無い事を確認すると、カウンター前まで歩み寄る。
「今日ハンニャマンさんが出るって本当?」
「ああ、そろそろ順番がくるんじゃないか」
 すると男は、ははあと訳知り顔になっての事を見る。
「ファンだったもんな。応援に来たのか?」
「……違います。警備の仕事です」
「警備?でも最近は新しいオーナーの仕事の方を任されてただろ」
「そのオーナーに言われたから」
 が言うように、結局あの日彼女を呼び出した真島は闘技場の警備をするようにと指示したのだった。
「(気を使ってくれた……というわけではないだろうし、一体何をさせたいのか……)」
 多少の警戒心を持ちつつ、は暗い通路から続く闘技場の観客席に足を踏み入れた。瞬間、飛び込んできたライトの強い光に思わず目を薄くして────、

 大きな歓声が、ワッと空気を震わせる。
 会場中央にある高い金網で囲まれた円形のステージでは、今まさに試合を終えた大男が拳から生々しい赤を滴らせながら、足元に沈む対戦相手を見下ろしていた。
 そして観客席では地上では恐らくそれなりの地位にあるだろう裕福な身なりの人間達が、己の本能を隠そうともせずにたった今目の前で起きた獣同士の衝突に熱狂の声を上げている。こうなると檻の中と外、どちらにいるのが本当の獣であるのか──。先程まで冷静な感情でいたでさえ、周囲の空気に当てられてざわっと鳥肌が立つような感覚を覚えた。
 そんなに少し離れた場所から頭を下げてきたのは、普段ここの警備を任されている黒服の一人だった。彼女も気が付くと、気を取り直すように姿勢を正して同様に返す。
 黒服達は観客から食事や飲み物のオーダーを取る仕事も兼ねており、この会場内に複数人が配置されている。むしろ運営側から厳選された客が何か揉め事を起こすという事は滅多に無い為、警備としての仕事よりもそちらの方がメインとなっているかもしれない。は手持ち無沙汰に周囲を見渡した。
「(ハンニャマンさんの試合は次……)」
 天井近くに掲げられている大きなモニターには、これからの対戦予定と各々のオッズが映し出されていた。ハンニャマンのオッズの低さを見るに、久々に戻って来た強者に対する期待は皆同じなのだろう。彼の試合の時間が差し迫っている事を改めて実感し、は段々と落ち着かない気持ちになってきた。
「(どうせだからもう少し前に行ってみる……?でもそこまで私情を混ぜるのはさすがに)」
 ガシャンッ!とガラスが割れるような音がした。
 が顔を上げると彼女のいる位置からやや上、客席横の階段を昇った先で、客の大柄な男が立ち上がり何やら喚いていた。
 客が揉め事を起こすという事は滅多に無い。
 よって、その滅多に無いはずの揉め事を起こす客とは、余程の相手である事が多い。遠くから近寄って来ようとする黒服に片手で合図を出すと、は階段を登っていった。
「あぁ?どこかで見た事ある奴が来たなぁ……」
 床に散らばるグラス片と、テーブル上から滴り落ちる液体。側に来たを睨み付ける男からは、アルコールの臭いが漂っていた。その横には派手な身なりの若い女もいたが、騒ぐ男に愛想を尽かしたのか、いかにも無関係であるかのような態度で手入れされた自身の爪を弄っている。
「知ってるぞ。お前、前に選手として出てた奴だろ。いや、その面が変わってないだけでひょっとして中身は別人か?」
「いいえ。中身も変わっていません」
「ふん、まぁそんな事はどっちでもいい。選手だったならここがイカサマがやってるって事も知ってるな?やってるだろ?」
 無遠慮に突きつけられる男の指先から、はテーブルの隅に置かれていたオッズシートへと視線をやった。先の試合に至るまでの惨憺たる結果を示しているそれは、男の怒りの原因を分かりやすく表している。それにしても、だが。
「(思ったより手堅い賭け方してるのに……)」
 平時であれば決して損はしないやり方だが、今日のように大番狂わせが連鎖的に続く日には見事なまでに全てが裏目だ。そのように大金が乱れ舞う様もこの闘技場の醍醐味であるのだが、この男は一足早くその夢からは醒めてしまったようだった。
「おい人の話を聞いてんのか!?」
 そんな事を考えながら黙り込んでいたに苛立ってか、無表情な狐面に不気味さを感じたゆえの虚勢が、男の口調が荒くなる。他の客からの囁き声と視線も集まり始めた為に、そろそろかとが口を開こうとした時だった。
『──さあ、皆様お待たせ致しました!そのクールな佇まいから繰り出されるエキセントリックな技の数々で我々を魅了した正体不明のあの男が、今宵もこのリングに帰って来ました!』
 高らかなリングアナウンスと共にあちこちで客が立ち上がり、会場に割れんばかりの大歓声が響く。するとそこでそれまでの無機質な印象から、いかにも人間らしく落ち着かない様子を見せ始めた目の前の相手に対し、男はやや声のトーンを落として怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「なんだぁ……?」
「いいえ、何も」
 そう応じたは、ちょうどリングに背を向ける体制で男と向き合ってしまった事を後悔していた。
 試合は見たい。当然見たいが、ここで片手間な態度を見せればそれは益々男の怒りを煽る事になるだろう。それに経緯はどうあれ、自分は今日ここに試合を見に来た観客ではなく、あくまで主催者側の人間であるのだと。
 しかし既に多量の酒が入っている男には一切の理屈は通用しない。男はもう我慢ならずといった感じで一歩前に出ると、太い腕での胸倉をグッと掴み上げた。さすがに見兼ねた連れの女が眉間に皺を寄せて声を掛ける。
「やめなさいよ、みっともない!」
「商売女は黙ってろ!!」
 男の暴言に、は狐面の下で眉を顰めた。すると男は何が面白いのか、今度はやけにヘラヘラとした顔で彼女に見せつけるように拳を握る。
「客を馬鹿にした詫びに、一発殴らせろ。それで許してやるよ」
「……分かりました」
 ここで下手に断ると、その矛先が怯えた表情をしている女の方へと向き兼ねないと考えたは、男からの申し出を受け入れる事にした。
 内心、深い溜息を吐いて。そこで彼女は、相変わらず続いている場内のざわめきが先程とは質の違うものになっている事に気が付いた。本来はリング上の闘いに向けられているはずの視線が一層こちらに集中している。
 見ると、目の前の男もいつの間にか越しに、その背後へとどこか間の抜けた顔を向けていた。
「は……?どうしてお前がここにい、──」
 男の言葉は最後まで続く事無く、の横で何か影が動いたのと同時その身体が横飛びに吹き飛んだ。男はそのまま割れたグラスの破片が散らばる床の上に倒れ落ちる。
「っぐ、な、何だ、何だ突然!!?」
 上等そうなスーツに酒を滲ませながらパニックを起こす男の元に、連れの女が慌てて駆け寄っていた。
 会場全体に戸惑いの空気が流れる。するとそれを切り裂くように、カンカンカン!とゴングの音が響いた。
『こ……、これは新しいパフォーマンスか〜!?しかしリングイン拒否は試合放棄と見なし、ハンニャマンは敗退です!皆様も観戦のマナーは守りましょう!』
 その強引なアナウンスに更なる混乱が起きる中、残されたは彼女の隣──高く伸ばした脚をゆっくり下ろす般若面の男を、一体何が起きたのか理解出来ぬまま見上げていた。


 + +


 一時の混乱がどうにか収束すると、再びリングでは次の試合が再開されていた。そうなると観客の興味も自然とそちらへと戻って行く。
 男は女に支えられながら、それまでの高慢な態度が嘘のように何度もへこへこと頭を下げて会場を後にした。案外酒が入っていなければ、本来はあのようなタイプの人間であるのかもしれない。
 床に残ったグラスの破片をしゃがみ込んで片付けながら、はちらと顔を上げた。
 男が去った後の席になぜかそのまま居座ったのは先程彼女を助けてくれたハンニャマンだった。椅子に深く凭れ、腕を組み、脚を組んで。全身から物言いたげな雰囲気を醸し出しつつ、それは同時に何かからの言葉を待っているようでもあった。
 そのどこか見慣れたその仕草から、普段のであれば何かに気が付く事が出来たのかもしれない。しかし──、
「(どうしよう……どうにかお礼は言えたけど、緊張して話題が……)」
 憧れの人物をこれだけの近距離で目の当たりにしたは純粋に、むしろ実はややミーハー寄りの、ただのファンであった。
 短く息を吐いたような気配がして。
 とんとんと軽くテーブルを叩くような音にが振り向くと、ハンニャマンが男の残したオッズシートの隅を指先で示していた。は急いで立ち上がる。するとそこには男性的でありながら達筆な字体で、「怪我は」と一言だけ書かれていた。
「あ……おかげ様で、どこにもしていません。本当にありがとうございます」
 改めて頭を下げたは、顔を上げると少し間を置いて。
「試合の邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした。私も今回のハンニャマンさんの試合は楽しみにしていて……だから、どうか懲りずにまたエントリーしていただけると……」
 どうにか絞り出すように告げたの言葉を無言で受けると、ハンニャマンは立ち上がった。彼はすれ違い様に彼女の肩に軽く手を置くと、そのまま階段を降りて会場を後にする。
 ハンニャマンの去った方向を何となく呆けたよう見ていたは、スーツのポケットの中で震える携帯の振動で我に返ると急いで通話ボタンを押した。するとが応答するより先に、電話口の相手がすっと短く息を吸って。
『──せやから、まず 観 ろ や!!』
「!?」
 それはなぜか、上司の渾身のノリツッコミのようにも聞こえた。