煌々と怪しげな光に満ちる地下空間に昼夜の境は無い。享楽にふける客達の喧噪から離れ、は従業員用の通路で壁を背にして佇んでいた。
「意味が分からないです」
『お前はしばらく留守にしてたからな。まあ、経緯は今話した通りだ』
「正直それも、工事の音が大きくてよく聞こえなかったんですけど……」
 携帯電話を耳に当てたまま、は頭上を見上げた。
 けたたましい重機音が空気さえも揺らしているようだ。が確認する限りそれは滅多に途切れる事が無く続いており、周辺から苦情が出ていないのか疑わしい程である。
『ナリは相当怪しいが信頼出来る男だ。お前の事は軽く話を通してある、悪いがしばらく世話になってくれ』
「……分かりました」
『ああ、それと……こうなった以上はお前が受けてた件からは手を引けよ』
 通話が終わった所で、通路の向こうから歩いてきた人物がに声を掛けた。
「21番。新しいボスが60分コースでご指名ダ」
「ゲイリー、その言い方はちょっと違うよ」
 相変わらず日本語が怪しい闘技場の元チャンプに指摘するも、彼にはあまり伝わっていないようだった。
「ボスは部屋で待ってイル」
「……うん。行けばいいのね」
 どこか観念したように壁から背を離し、はゲイリーがかぶっている黄色いヘルメットに視線をやった。そこには今から彼女が会いに行く男の代紋が堂々掲げられていた。


 + +


 賽の河原の一番奥に位置するこの薄暗い部屋は、壁の一面が巨大な水槽になっている。広い空間にこぽこぽと小さな泡音だけが響き、まるでこの部屋だけが深い海の底に沈んでいるようだった。
 つい数週間前まで花屋が座っていた場所には、今は別の人物の姿があった。が前まで来ると、それまで背を向けていた椅子がキィと音を立てて回る。
 神経を研ぎ澄ました野生動物のような鋭い視線が狐面下のの瞳を捉えていた。極限まで引き絞られた糸にも似た緊張感が、急速的に張り詰め──、

「やっと会えたなぁ?」
 ──弛緩する。
 男、少し前からこの賽の河原の管理者となった真島吾朗は、ニッと愉しげな笑みを浮かべてそう言った。
 真島はの姿を上から下まで眺めると一人納得したように頷きながら「なるほどな」と小さく呟いた。そして机の上に出していた何かの書類らしき用紙を一枚ペラリと摘んで手に取る。
「んで。お嬢ちゃんおナマエは?」
 真島は肘掛けに斜めに寄りかかり、視線を用紙にやりながらそう尋ねた。
 は少しだけ考えて、口を開く。
「名前は……」
「あーやっぱいらんわ」
 すると続く言葉を遮るように真島が手を前に出した。は狐面の下で目を瞬かせる。
「普段から伏せとんのやろ?他の連中と同じ流れで聞いただけで、俺もそこまでして知りたいわけやないしな」
 にとって、この真島の対応は意外だった。
 今の時点でにとっての真島がそうであるように、彼にとっても彼女は“得体の知れない人物”には違いないはずだ。仲間だと思っていた相手に、油断した背後から刺される事などざらであるこの世界。いくら花屋からの繋がりとはいえ、こちらの弱味の一つや二つ握っておきたいはずだろうと思ったのだが。
 ナリは相当怪しいが信頼出来る男だ──、と。の頭に先程の花屋の言葉が浮かんでいた。
「にしても、よう逃げまわってくれたおかげでお嬢ちゃんが最後やで。そないに俺との面接が嫌やったんか」
「はい。正直気が進みませんでした」
「どアホ!!ここは“そんな事はございません”ってフォローするところやろが!」
 突然大きな声で怒鳴られて呆気に取られるに、真島はいつの間にか手にしていたペンで用紙をペシペシと叩きながら告げた。
「これが採用面接やって分かっとるか?いくら“来るもの拒まず、去るものは追い回す”の精神でやっとる真島建設でも、半端モンのコネ入社はお断り!もっとお嬢ちゃん熱意をアピールせんと、受かるもんも受からへんでえ!?」
 しばらく振りに神室町に戻ってくれば、なぜか上司が代わっているわ、しかもその男が立ち上げたという建設会社に就職するという流れになっているわで、こんなものすぐ受け入れろという方が困難である。
 そしてにとっての大きな不安はなによりも、
「(私、この人苦手かもしれない……!)」
 真島は今まで彼女が関わったどのタイプにも当てはまらない相手だった。当然以前から東城会の主要人物としての様々な逸話を聞いてはおり、その奇抜な姿を街で目にした事も何度かあるが、まさか直接顔を合わせるとこうも圧倒されるものだとは。
 そもそも“あの”真島吾朗が東城会を辞めて、カタギとして建設会社をやっている──なぜ?
 理解し難い状況に追い付けずにいるに対し、真島は不思議そうに首を傾げた。
「なんやお嬢ちゃん、黙りこくって。なんやったら自己PRとかでもええで」
「そのお嬢ちゃんって呼び方は止めて下さい」
 の言葉に真島は一瞬ピクッと瞳を眇めた。
 手の先から離れた用紙がパサリと机の上に落ち、彼はゆっくりと口角を上げる。
「……ほな、どう呼べばええんや?」
「21番でいいです」
「は?なんやそれ、意外と立派に前科者やったんかいな」
「ここの闘技場に登録した時の番号が21番だったんです。知ってる相手にはそう呼ばれてます」
「闘技場にぃ〜……?」
 改めての体格など確認しながら、「嘘をつけ」と言わんばかりの訝しがるような眼差しを向けてきた真島に、彼女は続けた。
「最初は出場者が少なかったので数合わせです。それに観客の中には色んな趣味の方がいるので……」
 それを聞いた真島の眉が不愉快げに歪められる。
「ほう……。そういうえげつない真似するようなおっさんには見えんかったけどな。女を殴らせて金稼ぐなんざ、胸くそ悪い話や」
「私、“負けた”なんて一言も言っていません」
 真島の言葉が終わるか終わらないかの内に、が強い口調で言い返した。
 今までその全てを狐面の下に隠すように表面的に受け答えしていたが、初めて真島の前で感情を露にした瞬間だった。それもまた分かりやすく、明らかに──ムキになって。
 部屋の中を流れる空気が静止する中、先に我に返ったのはだった。今のは失態だったと、狐面の下、露出している口元部分に取り繕うようにぐっと力を込める。その時だ。
 ──バンッ!!と机を強く叩く音がして。
 驚くに、真島は目を輝かせながら腕を伸ばして、彼女の事を指すようにペン先を向けた。
「いいねえ、キミぃ!……気に入った」
 少し芝居がかったような気取った言い方をして、真島は机の上の用紙を再び自分の前へと寄せる。
「よしよし、採用。今日からでええな?」
「採用って、今ので……ですか?」
「別に文句無いやろ。それとも落としたった方がええか?」
 は慌てて首を横に振る。
 どうせ形だけのものかと思いきや、真島は鼻歌を歌いながら用紙に何やら書き込んでいるようだった。その間はどうしていいか分からず、手持ち無沙汰に立ち尽くす。
「俺もな、一年位前にあの闘技場には来た事あるんやで」
「そうなんですか?」
 真島ほど目立つ客が来ていれば直接その場にいなくとも後に伝聞で情報も入ってくるだろうに、まるで覚えの無かったは驚く。真島は視線だけで窺うようにを見上げた。
「それと、似たような面した奴がおったやろ」
「被り物をした参加者の人は多いですけど……あっ、もしかしてあのハンニャマンさんの試合を見に来られてたんですか?」
 それは、自身の狐面と同じく口元以外を般若の面で隠し、当時の闘技場を賑わせた通称・黒衣の奇術師──思い当たる節があったは声を弾ませながら続けた。
「すごく強くて、戦闘スタイルも華がある方でしたよね、ハンニャマンさん。私は裏方席からしか見られませんでしたが……」
 ちょうどその頃の闘技場には桐生の姿もあった為、そのような強者同士があたる好カードの試合には闘技場全体が異様な程の熱気に包まれていた事をは思い出していた。一度あの血が沸騰するような興奮を味わってしまうと、どうしても現状には物足りなさを感じざるを得ない。自ずとも饒舌になった。
「ただミレニアムタワーの爆破事件の前後から突然いなくなってしまったので、ファンの一人としては寂しいなと思って、っ!?」
 いつの間にか立ち上がって傍に来ていた真島が、の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「なんやなんや、かわええなぁ〜〜!!今のは俺もグッと来たわ……!」
「や、止めて下さい」
 すると真島は思ったよりあっさり手を離すと、今度は身を屈めての顔を正面から覗きこんだ。
 いくら狐面越しとはいえそのあまりの近さには息を飲む。真島は顎に手をやりながら遠慮など微塵も無く、まじまじと彼女の顔を眺めた。
「しかしこういう俺好みのもんを用意してくるあたり、まさかハニートラップとちゃうやろな……」
 その言葉に何と返せば良いか分からずが黙っていると、真島は勝手に一人で納得したように頷いて身体を起こした。
「ま、それならそれで引っかかったるわ。ヒヒッ、これから楽しくなりそうやな〜狐ちゃんっ?」
「狐ちゃん……って、私の事ですか?」
「あ?他に誰がおんねん。21番なんて冷めた呼び方しとったら白けるやろが」
 そう肩を竦めて言ってから、真島は気合を入れるように大きく手を打った。
「よっしゃ、真島建設の本格始動や!狐ちゃんにも社長秘書としてバリバリ働いてもらうで〜」
「あの、私は平社員でいいです」
「あかん、これは社長命令や。……となるとぉ、手始めに闘技場の仕切り直しからやな」
「えっそこからですか?」
 すると真島は心底愉しげな笑みを浮かべて、戸惑うを見下ろした。
「狐ちゃんからのお熱いラブコールに応えて、まずはええもん見せたるわ」
 抗おうとする行為が愚かしく思えるほどに。思い起こせばこの時から、は真島という男が起こす嵐の中に為す術も無く巻き込まれていたのである。


 + +


『別れ話にしては一方的やな』
 相手は電話口で僅かな笑い声を零し、面白がるようにそう言った。
 神室町にある雑居ビルの屋上。眩いばかりのネオンが輝く夜景を見下ろしながら、は続く相手の言葉を待っていた。
『依頼は断る、初めから何も無かった事にしてこちらの情報は他言しない。……そんな虫のええ話、信用すると思うか?』
 緊張から、の身体に力が入る。電話の向こうから相手の溜め息が聞こえた。
『その気にさせるだけさせといて酷い女や。ひょっとして新しい男でも出来たか?』
「違、っ……!」
 咄嗟に言い返してしまいそうになって、は言葉を飲み込んだ。すると相手は少しの間を置いて。
『やっぱり女やったんやな、あんた』
 屋上には眼下からの喧騒が遠く響いてきていた。
 の沈黙を肯定とし、相手が続ける。
『……ふん、惜しい事した。そうと知っとったら、こっちから戻る前に一度くらいちゃんと口説いたったら良かったわ』
「それは」
『ワシはあんたが誰か知らん、あんたもワシが誰かは知らん。ええな、それでこの話は終いや』
「……はい」
 それからどちらもが電話を切らずしばらく沈黙が続くと、やがて相手がふっと息を漏らして笑った。
『あんた、腕は確かもしれんがおそらく向いてへんで。早いとこその暗い穴蔵からは足洗って、お天道さんの下に出た方がええ。今度はこっちにも美味い飯でも食いに来たらええわ』
「そう、ですね。それも……考えてみます」
『それと、もし近いうちにそっちで“何”か起こった時は……、いや』
 相手は言い掛けた言葉をそこで止めると、最後は迷いを断ち切ったようなはっきりとした口調でに告げた。
『ほな、これでお別れや。……あんたみたいな人間は、案外嫌いや無かったで』


 通話が終わった後もしばらく、は屋上で一人、白い息を吐いていた。
 最後の言葉がやけに強く耳に残って。自分でも説明し難いこの感情に整理を付けるまで、彼女はその場から動く事が出来なかったのである。