その日屯所での荷受けをしたのは、まだどこか浅葱色の羽織も着慣れぬ様子の年若い隊士であった。正門近くに荷を降ろしたが背負子から薬を取り出すと、彼はそれを生真面目に一点一点確認していく。
 そして、その作業も一通り済んだ頃。彼もようやく肩の荷が降りたのだろう。自身が元は商家の出である事、そのため今は隊の会計方を任されている事などをに語り始めた。
 そのような雑談を自ら振ってくる隊士は珍しく、もしばらく相槌を打ちながら彼の話を聞く。
 話の中ひょっとすると最初に受けた印象よりも実年齢はもっと若い、いや、むしろまだ幼いのではと──そんな印象を彼に対して抱き始めた頃、目の前の温和な表情がの肩越しに何かを見つけて強張った。
「君、来ていたのか」
 じゃり、と砂砂利を踏みしめる音。
 が振り向いた先にいたのは羽織の袖口に両腕を通し腕組みする土方、そして、そのやや後方には遅れて歩いてくる原田の姿もあった。に気が付いた原田は顔を顰めると、土方に向かって声を掛けた。
「おい、副長!話ならそいつより俺が先だろ!」
「少し待て」
 土方は原田の方を見向きもせず短く答えると、今度はの正面で固まっている隊士に視線をやった。隊士はぎくっと背筋を伸ばす。
「そっちはもう済んだのか」
「は……、はい!万事仔細無く……」
 先程に故郷の事を懐かしげに語っていた時とはまるで様子の違う、怯えるような声色であった。彼はそのまま失礼しますと、慌ただしげにその場を離れていった。残されたとしてはいくらかの気まずさを感じる中、土方はそんな彼女を見やりながら続ける。
「そちらの用事が済んだならちょうど良かった。君に頼み事がある」
「頼み事?」
「この前火傷した隊士に処置してもらった赤紫色の薬だが、その後具合が良くてな。今度は出来ればあれの倍量程を用意してもらいたいのだが」
 土方の言葉で、はそれがどの薬を指すのかすぐに思い当たった。
「あの薬の材料は小舟で少し遠出して調達する必要があるので、すぐに作るのは難しいかもしれません。それでもよろしければ」
「船……?それはどこから出ている船だ」
「伏見の、船着き場です。屋敷町南の」
 まさかそこを聞かれると思っていなかったがやや戸惑いながら応えると、土方はふむと少し考えるようにして顎に手をやる。
「あそこの近くの川からここ数日死体が上がっていてな。中には船頭と客が揃った例もあって、我々としては船強盗の線も疑っていたところでね」
「ああ、そう言えば昨日の夕頃にも人だかりが出来ていたような……」
「……こちらの依頼で向かわせて、君の身に何かあってはよろしくない。おい原田、お前が同行してやれ」
「はあ!?どうして俺が」
 突然話を振られて、原田は不服とばかりに言い返す。しかしその程度の反論は、土方にとっては慣れたもののようであった。
「さっきから、金払いのいい仕事を回せとしつこく言ってただろう。手当なら出すぞ」
「だからって、こんな面も見えねえ気味悪い奴の世話なんかしてられるか!俺は新選組隊士として、もっと派手に暴れまわれるような仕事がしてえんだよ」
「護衛も立派な新選組の仕事だ。第一、前々回の討ち入りで火傷を負った大半がお前の十番隊の隊士だったろう。薬の材料の調達くらいは、協力したらどうだ」
「そいつらが勝手に逃げ遅れただけじゃねえか。そんなのろまな連中がくたばろうが知ったことかよ」
 悪態をつく原田を静かに見据えたまま、土方は口を開く。
「“誰か”からの指示で、火に巻かれた屋敷の中から金目のものを探していたと話す者もいたが……」
 それを聞いた原田は眉間に忌々しげに皺を寄せ、顔色を曇らせる。すると土方は再びの方へと向き直った。
「君さえ都合が良ければ、明朝船着き場で待ち合わせるのはどうだ。取り越し苦労だとしても、荷物持ちくらいにはなるだろう」
「でも……、私なら一人で大丈夫ですよ。何なら、陸路でも行けない場所ではないですから」
 原田はを毛嫌いしていたが、にとっても彼と二人というのはなるべく避けたい事案であった。いつも面で表情を隠している為に誤解されがちだが、“気まずい”という感情くらい、彼女だって持ち合わせているのだ。
 だが土方はそんな彼女の言葉を受けると。
「遠慮は無用。使えるものは使い給え」
 有無を言わさぬ冷静さで、そう言い切った。


 + +


 空は朝焼けの曙色から薄い青色へと変わり、眩い朝日を受けた宇治川が、まるで生まれ変わったかのように輝きながら流れていく。
 そんなわけで、船着き場で重たい荷と暗い影を背負うの気持ちに反して、今日はまさしく絶好の遠出日和なのであった。
 船頭が、笠をかぶり直して声を掛けてくる。
「確かお連れの方がお一人でしたか」
「そうです。すみません、おそらくもう少しで来るかとは思うんですけど」
 しかし、には自信が無かった。
 原田が気乗りしていなかったのは昨日の態度からも明らかだ。確証無く彼を待つ自身の行動こそ、滑稽な気さえしてくる。
「(あまり出るのが遅くなると、今日中に戻ってこられなくなってしまうし……)」
 元より一人で向かうつもりであったし、理由さえあれば土方も許してくれるだろう。はよしと小さく頷くと、船頭に向かって改めて顔を上げた。
「お、っと……、ひょっとして遅れました?」
 ──すると。
 言葉のわりに、決して慌てる事の無いゆったりとした歩みで近付いてきたのは、新選組の八番隊隊長である藤堂だった。
 しかし隊長格仕様のいつもの羽織姿ではなく、今は彼に似合いの若々しい花模様の着物を露わにしている。からの視線を受けると、彼は顔の前に片手を挙げた。
「すみませんね、これでも寄り道せずまっすぐ来たんですけど」
「と、藤堂さん?……あの、原田さんはどうかされたんですか」
「あれ、原田さんの方が良かったですか?狐さん、そんなに原田さんと仲良しでしたっけ」
 藤堂のからかうような口振りに、は思わず言葉に詰まる。すると彼は軽く肩を竦めて続けた。
「その原田さんから代わるように言われたんですよ。今回の件は土方さん直々の指示なんでしょう?さすがに自分より下っ端の隊士を遣いに出すわけにはいかなかったんでしょうね」
「でも、それでどうして藤堂さんが」
「その辺りは道中にでも。遅れた俺が言うのも何ですけど、出るのは早い方がいいんでしょう」
 藤堂が乗り込むと、小船は傾き揺れて水音を立てる。彼から促すように見上げられ、船着き場に残っていた彼女も一拍置いてその後に続いた。


「実は賭け麻雀で負けちゃって」
 小船が動き出してからしばらく、藤堂が切り出した。彼は濁音混じりの低く呻くような溜息を吐きながら、川面に視線を走らせる。
「俺、本当は今日非番なんですよねえ……。卓の面子が俺以外は全員十番隊のやつだったんで、何かありそうな気はしたんですけど」
「お休みのところ申し訳ありません……」
「ああ……、いえいえ。まあ、これといった用事があるわけでは無かったので」
 言いながら、藤堂はぐっと背伸びをする。
 普段にも増してくだけた雰囲気に感じられるのは、彼が言うように元々今日が非番であったためだろうか。帯刀こそしているが、この気の抜けた様子を見て、彼があの新選組幹部の一人だと見抜ける者は少ないだろう。
「それに、俺よりも狐さんの方が大変じゃないですか」
「私ですか?」
 床に胡座を掻く藤堂は、膝上で頬杖をつきながら、船ばりに腰掛けているを見やった。
「うちの副長は人使いが荒いでしょう。しかも護衛に原田さんをつけるって、それ狐さんが気まずくなるのも承知の上でやってますからね」
「えっ」
 予想外の事実を明かされて、は思わず素に近い驚きの声を出す。
「火事の件は聞きましたか。証拠が無い話とはいえ、原田さんに何かしら罰則は与えたかったんじゃないかな」
 確かに、が気まずさを感じるように、元々彼女を毛嫌いする原田にとっては面倒このうえない任務であっただろう。
 土方ほどの人物が、隊士周りの人間関係を把握していない事は考えづらかったが、それも算段のうちであったとなれば納得がいく。手負いの隊士への薬の手配と、原田への相応の罰。それを同時に行う為、という駒がちょうどいい位置に置かれていただけの事。
「でも、少し違和感があるんだよなぁ……」
 藤堂が独り言のようにぽつりと呟く。
 彼の視線はの方を向いていなかった。肘をついたままぼんやりと遠くを見つめる眼差しからは、感情を読み取る事が難しい。
「狐さんなら分かるでしょうけど。近頃の原田さんだったら、適当な理由を付けて狐さんを斬り捨てて、はいそこで任務おしまいなんて事もあり得る話じゃないですか」
「まさかそんな」
「ああほら、そこ」
 すると藤堂は何かを見つけて指差す。
 彼が指した先。人気も少なく物寂しい景色の中、街道の脇に生い茂った長い雑草が項垂れるように川に浸かっていた。
「ちょうどあの辺りで死体があがったんですよ。同じ所で続けてとなると、地形の関係もあるんですかね」
 ねえ、と。そこでまるで世間話でもするかのように彼が問い掛けたのは、それまで会話をしていたではなく、黙々と船を漕いでいた船頭にであった。
 不意をつかれた船頭が面食らったようにしながらもはぁなどと返すと、その返答で満足したのかしないのか、藤堂はまたへと向き直る。
「ほらね。護衛なんていって狐さんがあそこに浮いてたかもしれないんだから、戻ったら文句を言っていいと思いますよ」
 は藤堂が言うような無残な己の姿を想像し、背筋を少し寒くした。
 すると、どうやら彼なりの接し方で親身になってくれているらしい藤堂に対し、思わず本音が口をついて出る。
「でもやっぱり少し怖くて」
「ん?原田さんがですか」
「違いますよ、土方さんです」
 が少し強めに言い返すと、藤堂はやや意外そうに眉を上げた。
「私、学問の大半は父に教わったんですが、少しだけ手習い所に通っていた時期もあるんです。そこの師匠が無口で怖い方で……、思い出してしまうというか」
「土方さんがその怖い師匠に似てるって?」
 は恥じ入るように頷く。
 すると藤堂はアハハ!と大きな笑い声を上げた。
「狐さんでも怒られるような事があったんですねえ」
「直接は怒られてはいないんですけど、あの時は怒られそうな気がして怖かったんです」
「それは、その“師匠”に対して、何か後ろめたい事でもあったんじゃないですか」
 には、その藤堂の言葉が色々な意味を含んでいるように聞こえた。
 咄嗟には返せずにいる彼女に、なぜか、藤堂は目を薄くして優しげな眼差しを向けた。そしてまた小さく息を漏らしてから続ける。
「あーあ、笑った。沖田さんも話してましたけど、狐さんって野生なのか人馴れしてるのかよく分からないところがありますよね」
「一体どんな会話をしているんですか……」
「まあ、それと余計なお世話を承知で言っておくと、こっちではあまり手習い所とは言わないんですよ」
 藤堂の言葉に、はハッとする。
 確かにここ“京”では、手習い所と同義のものは寺子屋と呼ばれている。手習い所とは“江戸”の──。
 それだけで何か決定的な事には繋がりはしないだろうが、極力素性を隠しているの立場としては失言に違いなかった。俯く彼女を、藤堂は不思議そうに覗き込む。
「え、もしかして結構落ち込んじゃってます?あのー、心配しなくても大丈夫ですよ。俺、自分から余計な仕事は増やさない主義なので」
 も新選組である彼らにすべてを隠し通せていると思うほど楽観的では無い。むしろ今はまだ“見逃されている”だけという自覚すらあるが、これほど直接的に踏み込んでこられると上手く言葉が出てこなかった。
 おそらく藤堂は駆け引きをしている訳ではなく、彼が大丈夫という内は本当に大丈夫なのだろう。だからこそ、ほんの僅かな薄皮一枚を隔てて──こうして向かい合って話している今でさえ、彼は頷きを返す代わりに、腰に差す刀に手を掛ける事が出来る相手だという事をは思い出していた。
「参ったな……、本当にそういうつもりじゃなかったんだけど……」
 小さな船の中を漂う重たげな空気に、藤堂は頭を掻いた。するとしばらくして彼は、何か名案でも思い付いたかのようにそうだと声をあげる。
「それじゃあ、俺も秘密をひとつ明かす事にしましょうか」
「私のは、別に秘密というわけではないですが」
「まあまあ。俺もこれは元々言うつもりが無かった話ですし、今回はそれでおあいこという事で」
 なぜか藤堂の方から気を遣われているという状況に、は戸惑った。
 それに、がここで遠慮しようとしまいと藤堂の気持ちは決まっているようだ。彼は、他に客の姿も無い船上であるにも関わらず辺りを軽く窺う素振りを見せてから、まるで内緒話でもするように口の横にを添えて、の方へと身を乗り出す。
 もつられてそちらに耳を傾けると、彼の囁くような息がふっと耳に掛かった。
「俺ね。本当は結構、麻雀強いんですよ」


 + +


 新選組屯所内にある土方の私室。彼は文机に向かい、手元の書に静かに目を落としてた。
「──入らないのか?」
 その問い掛けは土方の独り言ではなく、部屋の外に向かって投げ掛けられたものだ。すると障子が開き、観念したように眉を下げた藤堂が姿を現す。
「それじゃあ、お邪魔しまーす……」
「遅かったじゃないか。遣いの者には、大分前に呼びに行かせたはずだが」
「そりゃそうですよ。怒られると分かってるのに、意気揚々と出向く奴はいませんって」
 土方は書を閉じると、肩を竦める藤堂の方へ身体を向けた。
「怒る?」
「あれ、違うんですか。原田さんの任務を勝手に代わった件で……」
「その件には違いないが、むしろ逆だ。今回はお前がうまく原田の機嫌を取ってくれたそうじゃないか」
 土方の言葉を聞いて目を開いた藤堂は、気が抜けたように息を吐いた。
「なんだ、その事か……。原田さんね、あの人は溜まってるだけなんだから、適度に抜いてやればいいんですよ。それこそ“麻雀で負けてやる”とかそういうのでいいんです」
 すると土方はふっと薄い笑みを浮かべた。それは、試衛館時代からの気心知れた間柄の人物にのみ見せる親しげなものだ。彼を鬼の副長として恐れる者達には想像もつかないだろう。
「成る程。参考にするとしよう」
「ああでも土方さん相手だとさすがに原田さんでも気が付くだろうな。こういうのは、普段からの仕込みが大事ですから」
 言いながら、そこでようやく藤堂は腰を降ろした。胡座を掻いて、改めて土方に顔を向ける。
「そんな事よりいいんですか。あの人、殺されてたかもしれないのに」
「いくら原田でも、まだそれくらいの分別は残っているだろう」
「そっちじゃなくて。あの船頭にですよ」
 それまで和やかだった空気がすっと張り詰める。
 静まり返る部屋の外から、訓練する隊士の声と撃ち合う木刀の音が聞こえてくる。互いの出方を待つかのように、相手から視線は逸らさぬまま、再び口を開いたのは土方であった。
「今回の件には見廻組も噛んでいて、公には手を出しづらかった。普段から船を使う薬師の護衛として、たまたま乗り合わせた隊士が嗅ぎ慣れた血の匂いに気が付いたとあれば、一応の建前にはなっただろう」
「は?」
「原田をつけた件については、てっきり斎藤君か総司あたりが動くかと思っていたが……まさか平助、お前とは」
 やはり表情一つ変えずに、今回の内情をあっさりと明かした土方。対する藤堂は不満げに表情を歪めた。
「あの日、その人達は揃って不在だったんですよ。そのせいで俺、後から話を聞いた沖田さんに追い回されて面倒な事になってるんですからね」
「日帰りの予定のところをわざわざ一泊してくれば、総司も勘繰るだろう」
「仕方がないでしょう、船頭がいなくちゃ帰りの船が出せなかったんだから」
 そこで言葉を区切った藤堂は、はぁー……と長く大きい溜息を吐くと立ち上がった。
「いいですよ、分かりました。ただし危ない橋を渡らせたのには違いないんですから、せめて薬代は多めに出してあげて下さいよ」
「随分と気に掛けるんだな」
「まあ、俺だったらもっと上手くやってるだろうなとは思うんですけど……ああいう人には出来れば長生きして欲しいんですよね、俺」
 藤堂はニッと笑って戸に手をかけると、思い出したように声を上げた。
「土方さんは、もう少し表情を柔らかくした方がいいですよ。俺もこの部屋に入った時、“怒られそうな”気がしちゃいましたから」
 それじゃあ、と。振り向いた藤堂は礼儀正しく頭を下げてから、土方の部屋を後にする。
 残された土方は一人、眉間に皺を寄せたのだった。