屋敷町南にある風呂屋、その広い湯殿の中には白い蒸気がたちこめていた。平時であれば汗を流しに訪れた京の人々の姿が見られるそこを占領し、今たった一人悠々と浸かる男は、通称“サイの風呂屋”と呼ばれる名うての情報屋である。
 入り口の戸ががらっと音を立てて開けられた。
 次いで湿った足音が迷いなく近づいてくると、彼は顔を両手で拭うようにしてからゆっくりと持ち上げた。
……お前相変わらずだな。履き物ぐらいは脱いで入ってきたらどうだ」
「すぐに出ますから」
 風呂屋からと呼ばれた相手は狐の面を被っていた。
 唯一窺える口元から発せられた声色からは女性と判断出来るが、着物の下に足首まであるぱっちを履いた姿は男性によく見られる装いである。
 は湯に浸かる風呂屋を見下ろしながら淡々と続けた。
「“斎藤一”は新選組の入隊試験に合格したみたいですよ」
「はは。そりゃ大したもんだ。まさか本当に入隊までしちまいやがったか」
「それも三番隊の隊長という異例の大抜擢です。面白く思わない隊士はいるでしょうね」
「そうか……。それじゃあ、そっち方面は引き続き頼んだぜ」
 は頷くと、踵を返した。そのまま戸口に向かっていく彼女に風呂屋は湯の中から声を掛ける。
「案外、あの斎藤一って男のおかげでお前の追ってる案件にも進展があるかもな」
 戸に手を掛けたは、その言葉にぴくりと反応して足を止めた。
 風呂屋は口角を上げ先を続ける。
「まぁ何にしても、あいつにしてもお前にしても斬られちまったらそこでおしまいだぜ。相手にしてるのが血生臭え壬生狼の連中だって事を忘れるなよ」
 風呂屋の言葉を背に受けたは、静かに戸を開けて湯殿から出て行った。


 + +


 大きな薬箱を背負子に括り付けたが屯所を訪れると門番は慣れた様子で声を掛けてきた。
「ご苦労。入っていいぞ」
「ありがとうございます」
 は丁寧に頭を下げてから門をくぐり屯所の中へと進んだ。
 度々訪れている“狐面の薬師”に対して既に違和感は無いのだろう。隊士達の姿が多く見られる敷地の中を歩いても特にが咎められる事は無い。彼女は背負っていた重たい荷を一度門正面の縁側に下ろすと、庭を見渡した。
 顔を突き合わせているそこかしこの隊士達から何と無く落ち着かないようなぴりぴりとした雰囲気を感じられるのは、やはり新しく入った“三番隊隊長”のせいだろうか。
 明らかに歓迎からは程遠いその状態に、は先日自分が風呂屋から受けた忠告を思い出していた。
「(人の事は言えないけど、早速こんな調子で斎藤さんは大丈夫なんだろうか……?)」
 縁側の床板を踏みしめて近づいてくる足音に気が付き、は見上げるように背後を振り向いた。
「ほら永倉さん、俺の言った通り狐さん来てたでしょ」
「なんや。早かったな」
「藤堂さん、永倉さん」
 そこに現れた藤堂平助と永倉新八は、剣の腕に自信のある武士達が集まった新選組の中でもそれぞれ隊長として一つの隊を任されている幹部達である。
 は二人に向かってもまた深々と頭を下げた。
「お疲れ様です」
「おお、お前もな。その小さい身体でまたぎょうさん背負ってきたもんや」
 の薬箱を見て感心したように言いながら、永倉はしゃがみ込んだ。藤堂はその隣に立ち腕を組む。
「俺が頼んでたんですよね。うちの奴ら、この前の取締りの時に結構手酷くやられちゃって」
「ふん……情けない。普段の稽古が足りてへんのとちゃうか」
「それって俺がつけてやらなくちゃいけないんですか?面倒だなあ」
 は薬箱を開け、調合済みの薬をまとめた荷をどさりと出した。
「傷口がひどく化膿しているような方はいらっしゃいますか」
「いや、それは大丈夫だったと……思いますけどね。多分」
「では一応消毒薬も置いていきます」
「おい、あんたらよくそんな奴が持ってきた薬なんか使えるな」
 そこに大きな声で割り込んできたのは門から入って来た谷三十郎であった。谷はにやにやと笑みを浮かべながら、彼に顔を向けたに対して見下した視線を送る。
「副長に止められてなきゃ、俺だったらそんな怪しい奴はすぐに斬り捨ててやるところだぜ」
「お前の所かてこいつの薬には世話になった事もあるやろ」
 永倉の諌めるような言葉に谷は眉を顰めた。しばしの沈黙の後、は谷に向かって静かに口を開く。
「ご入用の時はどうぞ」
「……けっ」
 悪態と共に谷がその場から去って行くと、永倉はに気遣うように声を掛けた。
「すまんな。気ぃ悪くさせたやろ」
「大丈夫ですよ。新選組の皆さんにもお世話になって長いですから慣れました」
「ははは!確かに。ここの人達、揃いも揃って性格悪いですもんね」
 胸を反らして楽しげな笑い声を上げた藤堂をは下から見上げた。すると視線を合わせた彼は、その瞳をすっと薄くして口の端を持ち上げる。
 秘密を抱え素性を偽りながら彼らと接触しているにとって、藤堂は新選組の中でも取り分け油断出来ない人物の一人であった。
 隊長格の中で最も年若い彼はに対する態度こそ好意的な方ではあるが、一見親しげな表情の中で、その瞳だけはいつも彼女を冷静に見定めている。
 谷のように露骨に嫌悪感を示すような相手とは対照的だ。藤堂は、例えばこうして何気無く会話を交えている最中でもが不必要な存在であると分かったら躊躇い無く刀を抜いて振り下ろす、そういう人物である。
 動揺を悟られないようには藤堂の言葉を待った。だが藤堂はそんな彼女の心中など気にする様子も無く、先程までと変わらぬ調子で言葉を続ける。
「でも、本当のところいくらか腹は立ったでしょ。狐さんってそういうの案外分かり易いし」
「分かり易いですか?」
「ええ、分かり易いですよ。恐らく自分で思っているよりはずっと」
 永倉は眉間に皺を寄せて視線だけで藤堂の方をちらと見上げた。彼はそこで藤堂とほんの僅かに目を合わせてから、またの方へと顔を向ける。
「さて……、あんまのんびり話して引き留めてもあかんな。谷はああ言うたが、他の隊の分も多めに置いとってくれるか」
「ああ、そうですね。そうでないと結局後から俺たちの方にせびりに来たりしますし」
「分かりました」
 “もう長いから慣れた”──など。
 当然、そんな事は嘘に決まっていた。
 今にも震え出しそうな所を必死に抑えたの手はじっとりと汗ばんでいた。


 + +


 のたった一人の肉親であった父は京の町で薬師の仕事をしていた。
 看板は掲げていなかったが、訪れた相手には農民も商人も武士も誰であれ身分など関係無く、時間を惜しまずに割いて応じ、と暮らす小さな家に人の流れが途切れる事は無かった。
 そんな父がの目の前で斬られたのは今から約一年と少し前。攘夷派の浪士達の怪我を診てやっていた事が原因である。


 が屯所を後にし他の用事も済ませた頃には辺りはすっかり陽が落ちていた。
煌煌とした店の灯りや酒に酔った人々の姿などが賑やかな四条通りから抜け、梅小路町の暗い路地を進んでいくとやがて周囲の空気に変化が生じる。
 どうしてか、人の姿は無いというのに身体に纏わり付くような無数の視線だけは感じるような、そんな気味の悪さだった。
 その正体の掴めない嫌な気配がの中ではっきりと明確なものとなったのは、いくつめかの曲がり角へと差し掛かった時である。
 それは父親が崩れ落ちた姿と共に、どうしても忘れる事の出来ない生々しい血の匂い──この曲がり角の先にある光景がどのようなものであるかは容易に予想出来たが、気が付いた時にはの足は前に動いていた。


「よう。狐ちゃんやんけ」
 月明かりの下、ゆっくりとに顔を向けた沖田の手には血に塗れた彼の愛刀があった。その足元でうつ伏せに倒れている男の身体の下からは地面に大きな血溜まりが広がっている。
 沖田は刀に付いた血を振るって落とすと鞘に収め、気怠そうに首に手を押し当ててこきりと音を鳴らした。
「いやあ〜しかし物騒で困るなぁ。おちおち酒に酔うてもおられへん」
「……沖田さんならお酒が入ってても関係は無さそうですけどね」
「おっ、よう分かっとるやんけ」
 嬉しそうに応える沖田の関心は既に足元の男には無いようであった。
 新選組は攘夷浪士達にとって当然憎むべき存在である。襲撃なども日常茶飯事なのだろうが、それでも沖田の平然とした態度は異常であるように感じられた。
 沖田は男には目もくれず、その身体の横を過ぎての方へと近付いた。
 の目の前で立ち止まった沖田は、荷を背負った彼女の姿をしげしげと見下ろしてから舌打ちをする。
「こら屯所で待っとった方が良かったか……とんだ無駄足や」
「ご用事でしたか?」
「いつもの所で酒でも飲ましたろ思てな。狐ちゃんが捕まらんかったせいで今夜は退屈で退屈でたまらんかったで〜〜」
「それはすみません」
 が一度頭を下げて再び沖田を見上げると、彼はニタァ……と歪んだ笑みを口元に浮かべた。
「ま、どこのどいつかは知らんがおかげでいくらかその分の気ぃは発散出来たけどな。ワシ一人で酒が入った所を狙うつもりやったんやろが、よう細かくこっちの動きを調べとったもんや。……狐ちゃんもそう思わんか?」
 は沖田の背後、倒れている男に視線を送った。それからほんの少しだけ間を置いて彼女はまた沖田に顔を向ける。
「新選組の皆さんは方々から恨みを買われてますから。その人も事前に思いつく限りの手は尽くされたと思いますよ」
「ふん……、その割には全く歯応え無かったけどな。……あーあ、なんやつまらん!!今日はもう帰って寝るわ」
 沖田はの隣を苛立ったように乱暴な足取りで過ぎていく。
 がその場から沖田の背を見送っていると、彼はふと思い出したように足を止めて振り向いた。
「せや、狐ちゃん。もしさっき言うてた方々の連中とやらに会う事があったら伝えといてや」
「……何をですか?」
 すると急に真面目な表情になった沖田は低い声で、
「“沖田総司”は──……殺されんのを、楽しみに待っとるってな」
 眼帯には隠されていない沖田の右眼がの事を射抜くように強く見つめていた。沈黙の後彼はいつもの調子でニッと笑みを浮かべると、踵を返しながら軽く後ろ手を振る。
「ほな。次にワシが誘う時は見つけやすい所におるんやで」
 沖田の姿が見えなくなると、は暗い路地で静かに俯いた。
 の父を斬った男は、当時、壬生浪士組として取締りをしていた“沖田総司”である。
 だがその後組織の名を新選組と変え、浅葱色の羽織を身に纏って京の町に現れた──先程まで話していた“沖田総司”は、の記憶の中にある人物とは全くの別人であった。新選組を探るのは復讐が目的ではない。は父の件について疑問を抱えたままの心をはっきりとさせておきたかったのだ。
 
 事切れる間際、果たして彼には自分を斬り伏せた相手が何者であったか、その真実を見る事が出来ていたのだろうか。
 ほんの数日前にいくらか言葉を交わした名も思い出せないその男は、今は何も物言わぬ冷たい身体で地に伏せていた。