祇園の揚屋が建ち並ぶ界隈。まだ昼間にもかかわらず、ここには花魁の細い首筋に塗られたお白いの香りが鼻先に漂ってきそうな、どこか怪しく蠱惑的な雰囲気がある。
 キャンっ──という高い鳴き声に呼び止められ、は足を止めた。
 そこで弾むように息を吐きながら人懐こい視線をに向けていたのは、西郷といつも行動を共にしている彼の飼い犬だった。
 は背中の薬箱を背負い直して、その愛らしい瞳と視線を合わせるように腰を屈めた。彼女が手を差し出すと犬は尻尾を揺らして擦り寄ってくる。温かな体温には狐面の中で表情を綻ばせた。
「(でも、この子がここにいるって事は……)」
 顔を上げると、この周囲一体でも特に客を選ぶという高級店の真正面である。
 こんな、いかにも今自分はここでお楽しみ中ですよと言わんばかりに。は相変わらずの西郷の豪胆さに呆れながら再び顔を戻した。
「君、しばらく私とどこか別の場所で」
「やあ、ちゃん」
 そこで思わずがうっと呻くような反応を見せると、彼女に声を掛けてきた桂は目を開いて頭を掻いた。
「あれ……、もしかして何かまずかった?」
「あ。そういう事では無いんですが」
「ああそれなら。それにしてもいい所で会ったなぁ。どう?これから俺と一緒に……」
 その時、店の中からざわざわと華やいだ声がして、大きな身体がぬっと暖簾をくぐって姿を現した。現れた男、西郷は陽の光に眩しげに目を細めた後、じゃりっ……と音を立てて踏み出した足をその場で止めた。
 “西郷”と“桂”──二人が互いに感情の読めない表情で対峙する間、ちょうど挟まれる形となったは危惧した事態が現実となってしまった事に、内心焦りを感じていた。
 ふん、と不遜げに息が吐かれる。西郷は軽く腰を屈めて手を伸ばすと、大人しく彼を待っていた愛犬の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「おお、よしよし。よぉここが分かったな。ご主人の楽しみの邪魔もせんと、賢いやつや」
 その予想外の行動に呆気に取られるの方へ西郷はいつの間にか視線を向けてきていた。彼は口角を上げて、どれ、と彼女の頭上にわざとらしく手を差し出す。
「そっちの孝行狐も撫でたろか?」
「私は偶然通りがかっただけですっ」
「……そうそう。狐の薬師さんはこれから俺と食事に行く所だったんですよ、西郷さん」
 桂の言葉に、再び場の空気がぴりっと緊張感を増した。西郷は不快げに眉を顰め、身体を起こす。
「勝手な真似すなや。こいつに長州のくどい味を覚えられたらかなんわ」
「はは、またまた。そちらだって似たようなものでしょう」
「あ……あの!折角ですが、私はこれから別に行く所がありますから」
 これ以上険悪になってはまずいと、が二人の間に割りこむように声を出した。二人は揃って彼女を見下ろす。
「なんや、お前はご主人を待ってたんとちゃうんかいな」
「通りがかっただけって言ったじゃないですか」
「先約があるなら仕方がないか……。どこまで行くの?この近く?」
「はい。すぐ先の長屋に住んでる春画家の、……?」
 場の空気がいくらか弛緩した事に安堵して応えたは二人からの凝視するような視線に言葉を止めた。見上げるような背丈差の男二人にそうされては当然いくらかの圧迫感がある。その気まずさから逃れるために「そういうわけで……」と踵を返した。
 ──と、歩き出そうとしたはそこで思わず仰け反った。態勢を整えて振り向くと、西郷は彼女が背負う薬箱を押さえたまま、その隣で桂は自身の顎に手をやりながら。
「面白そうな話やな」
「まあ、確かに引っかからざるを得ないというか」
 困惑するの足元で、西郷の飼い犬だけは変わらず無邪気に尻尾を振っていた。


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 最終的にが同行を譲らないという彼らに出した条件は二つ。一つはの事は画家の前ではあくまで薬師として扱う事、そしてもう一つはむやみやたらに険悪な雰囲気にはならない事であった。
 画家の所に通うのは特に江戸の流行事に耳聡い彼から話を聞くための情報収集の一環ではあるが、あくまで情報屋としての側面は隠したうえで、世間話程度に留めている。自然な切り出し、さり気ない誘導。そんな場で揉められては台無しだ。
「お前さんが男連れなんて珍しいなあ」
「おい、言われてるで」
 長屋を訪ねた達を見て意外そうにそう述べたのは白髪交じりの細身の男だった。
 彼の作品が壁のあちこちに貼られているこの空間にはいつまで経っても慣れる事が出来なかったが、今日は面白がるように彼女の反応を見る西郷と興味深げに部屋の中を見渡す桂がいる。ここで弱味を見せてはこの後まで尾を引いて彼らからのからかいの種とされかねない。
 は平静を心掛けて、薬箱を降ろした。
「断りもなく大勢で押しかけてしまってすみません。いつもの薬ですよね」
「いや構わないさ、むしろ助かる。実は今日呼んだのは薬の事じゃないんだ」
 その言葉には首を傾げる。画家は胡座を掻いて座っていた背後から、一冊の本を取り出した。
「あ、それって……」
「おお、そちらの色男さんは知ってるかい」
「え?あ……いや、知ってるといえば知ってるというか。どうなんですかねえ……」
 桂はどこかからの視線を気にするような素振りを見せて言葉を濁した。彼らの遠回しな物言いに焦れた西郷が腕組みして続ける。
「その本がどないしたんや」
「よくぞ聞いてくれた!これはな、今巷で噂の四十八手の解説をした本だ!」
 はた、と空気が止まって。
 ただ唯一画家だけは構わずに、まるで堰を切ったように本を捲り出した。
「私も商売柄参考にしてみたんだが、いやしかし一体誰が考えたんだか。これでも色々と精通した気ではいたが、この道はやはり奥が深いものだ……」
 夢中で話す画家の言葉をどこか遠くに聞きつつ、はこの流れはよろしく無いと察した。
 いつもと違う頼み事。彼が手にする本。それらの点と点が線になり、意味を持ち始める先程の彼の言葉。
 は薬箱の蓋を閉じると、そそくさとそれを背負おうとした。
「お役に立てなさそうですし、私は今日はこれで」
「──薬師さん」
 そんなに対し珍しく強い口調で呼び止めたのは、真剣な表情の桂だった。
「ここは一旦、この人の話を聞こうか」
「……え」
「そいつの言う通りや」
 そして似たような表情を浮かべた西郷も頷いて彼に同意する。
「困った時はお互い様……そもそもが人間っちゅうんは持ちつ持たれつやと、お前の親父もよう言うとったやないか」
「い、言ってはいましたけど」
「……まあそこでだ、果たして本当にこの体制が可能なのか、実際に私の前で再現してくれやしないか」
「ほら、やっぱりこういう!」
 もはや平静な態度を取り繕おうともせずには大きな声を上げて立ち上がった。
「何で私なんですかっ」
「何でって私の知人の中で、お前さんが一番その手の事に慣れていなさそうだったからさ」
「?だからそれが人選間違いって事になるのでは……」
 しかし困惑しているのはのみで、画家の言葉を聞いた男達の間には通じ合うものがあったようだ。
「なるほど、確かに俺も初心というかある程度の羞恥心は大切にしていきたい方かな」
「そうか?そういうんを相手にするのはなかなかに面倒やで」
「そりゃあ、あなたが自分本位なやり方しかしてないからでしょう。そういう所に男の度量ってやつが出るもんなんですよ」
「はっ。そうして媚びへつらわんと満足させられん時点で、その男の度量とやらもどれだけ貧相なブツかたかが知れるわ」
「お、そこまで言うなら今度風呂屋でもご一緒します?ああ……、でもさすがに西郷さんが相手じゃ分が悪いかな」
「分かっとるやないか。ええで、その時は長州に格の違いを見せたる」
 にとっては耳を塞いでいたくなるような会話だが、険悪さは無く、むしろ互いにからかいあい楽しむような雰囲気があった。普段の立場を抜きにこうしてただ男同士対峙するのであれば、彼らは歳の頃も近い青年達なのだ。
「(でも“西郷さん”とか“長州”とかって)」
 確かに彼らの立場まで隠すようにとは言っていないが、これではさすがに画家にも不審に思われるのではないか。が恐る恐るそちらの様子を窺う。と、画家は特に気にする様子も無くせっせと絵の支度をしている所だった。
「ん?おお、そろそろどちらの兄さんを相手にするかは決まったか?」
 否定も肯定もする気力が無くは額を押さえる。代わりに応じたのは先程からやけに気の合う様子を見せる薩長の雄だった。
「互いに譲らず主張したい所でしょうけど、男の方が体力使う場面が多いしここは分担するべきでしょうね」
「わしやったらなんぼでもいけるけどな」
「はいはい、それはそれは。でも身体の柔らかさだったら俺の方だと思いません?ほら、こういうのとか」
「……ふん。まあ、そこらへんは譲ったってもええわ」
 すると西郷は着物の合わせに腕を差しこみぐいと開いて、その逞しい上半身を惜しげもなく露わにした。彼はそのままの方に身体を向ける。
「ほれ狐っ娘、お前もさっさと準備せえ」
「ちょ……薬師さん相手にいきなりそれは無いでしょう!あんたには順序ってものが無いんですか!?」
「あ?順序も何も、どうせ脱ぐ事になるんや。一緒やろ」
「いや、そもそも脱……がない、よな?俺は着物は着たまま、形だけのものだと思ってたんですけど」
「アホ、このわしがやる言うたらやる。んなぬるい真似してられるか」
「待った。そういう事ならさすがに俺も見過ごすわけに、は……」
 目を開いた桂の視線を追って西郷もそちらを見るも、既にそこにの姿は無く。残された二人に、画家は筆取った手で頭をぽりぽりと掻きながら声を掛けた。
「あんたら二人で試してみるか?」


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 洛内の通りを足早に歩くの姿を先に見つけたのは見廻り中の永倉だった。
「あれは……──」
 言い終わる前に、永倉と共にいた人物はすっと彼の横を過ぎてに近づいて行った。永倉は軽く息を吐いてその後に続く。
 伏し目がちに歩いていたはふと頭上から落ちてきた影に立ち止まり顔を上げた。そこで建物の壁に肘で寄りかかり彼女の行く先を塞いでいたのは、案の定と言うべきか沖田である。
「きーつねちゃん!……て、あら?珍しくお疲れみたいやな」
「そうなんか?」
「沖田さん、永倉さん……」
 がぐったりと応えて「どうも……」と頭を下げると、沖田と永倉は顔を見合わせて、彼女の視線の高さに合わせるように更に腰を屈めた。
「よっしゃ!どこぞの客に嫌な目にでも合わされた言うんならシメてきたるで。ほれ、相手はどこや?」
「いちいち物言いが物騒なやつやな。疲れてるんなら俺らと茶屋にでも寄るか?甘味でも食わせたるわ」
 言い方はそれぞれだがどちらも彼らなりにの事を気遣っての言葉である。
 こうも心配されるほど自分はそこまで露骨に疲弊感を出してしまっていたのだろうか。先程までの長屋での出来事からを思い返し、何だか急に馬鹿らしくなって力が抜けてしまったは、不思議そうにする二人の前で思わず小さく笑ってしまった。
「ありがとうございます。大丈夫です」
「まあ、お前も何かと気苦労があるやろうからな……。養生せえや」
「は、はい」
 それでも労るような視線を向けてくる永倉に、まさかあのような出来事があったからだとはとても言えず、はどことなく後ろめたい気持ちで頷いた。
「…………」
 その間沖田は壁に寄りかかったまま腕組みしながら、の頭上を越し、背後の方へとじっと黙って視線を向けていた。
 どこか遠く、犬の鳴き声がして。
 沖田は口角を上げると壁から身体を離した。彼はの隣に並んで、促すように彼女の背負う薬箱をばしばしと叩く。
「さ、ほな行こか。新八っちゃんが奢ってくれるらしいで」
「え。あの私は本当に大丈夫なので」
「ええからええから」
 すると沖田はすっと身を屈めて、の耳元で囁くように言った。
「人の目盗んで粉かけとる虫どもに、少しは立場っちゅうもんを分からせとかんと」
「虫……」
 彼らの背後にある店の角、その影で“どちらかが”忌々しげに舌打ちをしたようだった。