店の長台の上に空にしたお猪口を置くと、は足元に置いていた薬箱に手を伸ばし、席を降りた。
「ありがとうございました。結局ご馳走になってしまって」
「あれ、もう帰っちゃうの?」
 隣の席で共に酒を飲んでいた桂が驚いた表情をに向けた。
 桂が幾松に預けている伏見の飲み屋。人払いがされ、今は幾松も買い出しに出ている為にそこには彼との姿しかなかった。はいつもに増して重たげな薬箱を背負い直し応える。
「折角なんですが今日は祇園の方に行く用事があって……。幾松さんには、よろしく伝えて下さい」
「祇園……ああ、例の揚屋か。という事は、麗しい蝶の皆様方へ情報収集?」
「はい。見返りにお薬を安く提供するくらいしか出来ませんが……」
 が戸口に向かって歩きながらそう付け足すと、桂は彼女を見送る為その後ろに付いて行きながら笑った。
「見返りだなんてよく言うよ。ちゃんは、何も無くても毎回ただ同然で薬を置いていってるって聞いたけど」
 外へと続く段差を一歩降りたが名前を呼ばれた事を咎めるように桂の方を振り向くと、彼は軽く肩を竦めた。
「いいじゃない。こうして二人の時くらいは俺は新堀ではなく桂で、君は狐の薬師さんではなくちゃんでさ」
 言いながら、桂は腕を組んで店の戸口にとんっと背を預けた。
「……ま、それも念の為に“ここ”までか。送ってあげられなくて申し訳ないね」
「いえそんな、まだ陽も落ちていませんから。それじゃあ……、私はこれで」
「待った」
 段差を降りきったに、桂がまた店の中から声を掛けてきた。彼女が振り向くと彼は不意に真剣な表情を浮かべ、口を開く。
「どうかくれぐれも気を付けて。君に何かあれば、俺はあちらで君の親父さんに顔向けをする事が出来ない」
「…………」
 桂は心からの身を案じてくれているようだった。しばらくの間を置いて彼女が頷くと、彼はどこか安堵したようにしてふっと息を吐いて、また元の柔和な表情に戻った。


 + +


 が通された座敷で頼まれていた薬の包みを渡すと、対応した遊女は申し訳なさそうにそれを受け取った。
「いつもいつもすんまへんなぁ。せめて見合うくらいに、お仕事の役に立つような話が出来たら良かったんやけど」
「良いんですよ。私の仕事は元々こちらですから」
「ふふ……、そうやね。うちらみたいなもんの為にもよう効くお薬を作ってくらはる、とっても優しい薬師さんや」
 華が綻んだように綺麗な笑みを向けられては恥ずかしそうに俯いた。そんな彼女の様子を見てくすくす笑いながら、遊女は包みを大事そうに抱えて立ち上がる。
「泊まっていきはるやろ?お食事が終わる頃に用意させてもらうさかい」
「でも、揚屋に泊まらせてもらうのは悪いです」
「なんやの、今更水くさい。もう外も暗いし女の一人歩きは危ないやろ?薬師さんもいくら大切なお仕事がある言うたかて、そこは用心して控えな」
 嗜めるようにして言われると、は思わず小さくなって頷いた。

 自分の為に貴重な人手を割かせてしまってはいけないと、は用意された膳に一人で口を付けていた。
 隅に置かれた行灯が部屋の中を薄暗く照らし格子窓からは月明かりが射し込んでいた。他の部屋からの賑やかな声を聞きながら、はお茶を飲んで一息吐く。
「(美味しかったな、あれは何のお魚だったん……、なんだろう?)」
 急に、部屋の外が騒がしくなった。客同士の揉め事でもあったのだろうかとが何となくそちらの方に顔を向けながら再び茶を口にした時に、彼女の部屋の襖が大きな音を立てて倒れた。
「!!」
「ぐおっ!?」
 見知らぬ男が投げ飛ばされたようにして勢いよく部屋の中に転がり込んでくると、はごほっと咽せた。
 そのまま気を失ってしまった男は大の字に倒れて身動き一つ取らない。するとその後に続いてもう一人、別の男がゆっくりとした歩みで部屋の中に入ってきた。
「つまらん……そっちから絡んできたわりに、酔い覚ましにもならんやないか」
 大柄な体格と異人を思わせる金色の髪。全身に溢れるような自信を漲らせた男は、薩摩藩軍賦役の西郷であった。
 西郷は倒れている男を不遜な態度で見下ろした後、ようやく気が付いたようにの方へ顔を向けた。
「ん?なんや狐っ娘、おったんかい」
「……いました」
 は西郷とは面識があった。西郷はを見ながら少し考えるような素振りを取った後、騒ぎを止めに来た背後の遊女達に目をやり、倒れている男を顎で示した。
「こいつ連れてお前らは全員下がってええで。酒はこっちや。後はこの狐っ娘と飲み直すわ」
「……え?」
「飯の邪魔した詫びに、こないな場所で一人寂しくおる女の話し相手になったる言うとるんや。感謝せえ」
 その場に居座るようにどかっと腰を降ろして胡座を掻いた西郷には、既に大分酒が入っているようだった。
 倒れていた男が運び出され、襖も元どおりに直されて。落ち着きを取り戻した部屋の中には西郷が指示した通り、新しい酒が運び込まれていた。
隣に座ったが酌をすると西郷は盃をぐいと豪快に煽った。そして酒のせいか、いつもよりゆったりとした眼差しを彼女の方へ向ける。
「ここにおるっちゅう事は今日もお得意の慈善活動か?はっ、相も変わらずよう分からん奴や」
「いいじゃないですか、何でも」
 やけに突っかかるような言い方をしてくる西郷に、は半ば呆れながら流すような態度を取った。
 西郷はすっと真面目な表情を浮かべて盃を置く。一体どうしたのかと首を傾げるの手から徳利を引き抜くと、彼はそれを彼女の方に向かって斜めに傾けて差し出した。
「おい、何しとる。お前も飲めや」
「あ。折角ですが、私は……」
 と言うのも、はあまり酒に強い方では無かった。ここに来る前に桂の所でいくらか飲んでしまっていた事もあり、膳を用意された時も遠慮をしていたのだ。
 しかしまるでその返答が届いていないかのように西郷はぴくりとも微動だにせずを見据えながら、やがて、呟くように口を開いた。
「…………嫌な匂いや」
 言葉の意味を聞き返そうとしたの首筋に、西郷は突然ぐいっと顔を近付けた。の背筋が伸びる。西郷は息を思いっきり吸い込むように鼻を動かして、熱っぽい息を吐き出した。
「長州の酒の匂いがするわ……」
「!」
 西郷は身体を強張らせたからゆっくりと顔を離して、不機嫌そうに睨んだ。
「わしの酒は断っても、あいつの酒は飲むっちゅうんか」
「……今の、鎌を掛けましたよね」
「分かり易い態度させとるお前が悪い。ええから飲め。これで酔うたら介抱したる」
 そこまで言われると断りきれず、は西郷からの酌を受ける事にした。
 西郷は彼女が思い切って酒を口にしたのを確認してから、今度は空になっていた自分の盃に手酌で酒を注ぐと、徳利を畳に強く叩きつけるようにして置いた。
「そもそも、あの青二才が自分が一番責任感じ取る言うような面して、すっかりお前の見受け人を気取っとるんがわしは気に食わんのや」
「気取っているというわけでは……」
「お前の親父が斬られたんは、攘夷志士の面倒を看とったからや。“長州藩の”攘夷志士を看とったからとはちゃう」
 苛立ったように言う西郷の横顔をはやや意外な心持ちで見つめた。
 確かにの父が薬師として看ていた中には長州藩も薩摩藩も、多くの数が含まれていた。父の最期については勿論その内特定の誰が原因という事では無かったが、桂も西郷もそれぞれに思う所があるらしい。
 は改めて膝を合わせ直すと、西郷に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……何の事や」
 桂のように分かりやすいものではないが、西郷も彼なりにの事を気に掛けてくれている──そういう意味での礼だった。
「深い意味はないです。お礼が言いたかっただけで」
「ふん……。お前もその面、どうせなら犬の方に変えとけ言うたやろ。そしたらうちの屋敷で大切に飼うたる」
「犬じゃなきゃ駄目なんですか?」
「あかん。長州との間をふらついてるような狐は、犬みたいには躾が出来とらんようやからな」
「ふらついてなんかいないです」
 が“素”に近い態度で不貞腐れて言うと、西郷は口角を上げてようやく上機嫌そうな笑みを見せた。


 + +


 結局明け方近くまで西郷に付き合わされたは、彼が帰った後そのまま仮眠を取って昼近くに揚屋を出た。
 が歩き始めてすぐ、ふらりと路地から出て来て立ち塞がったのは桂であった。やけに深刻そうな表情をした彼に連れられて、 鴨川沿いを歩く。やがて周りに人の姿が少なくなった所で、彼は歩みを止めての方を振り返った。
「実は今朝、こちらの方に寄る用事があったついでに薬師さんの事をお迎えにでも行こうかな〜……って思ってね」
 その言葉に少し驚いてが桂を見上げると、彼は僅かに眉根を顰めた。
「昨日って、さ。あれから……まさか西郷さんと一緒だった?」
「会われたんですか?」
「いや、出てくる所を見掛けただけ。あの人薬師さんの事となるとやけに勘が働くというか、同じ場所にいたらきっと見付かっちゃったんじゃないかなとは思うんだけど」
 西郷からは桂との事は聞かれなかったから言わなかったというだけで、何も互いに会っている事を隠す必要は無い。は桂からの問いに対して素直に頷いた。
「途中から色々あってご一緒しました」
「あー……。やっぱり」
「……何か問題があったんでしょうか」
「いや、問題って事では無いさ。そこは個人の自由だ。でも敢えて口を挟ませてもらえるなら、あると言えばある」
 桂が軽く手招きしたので、は不思議そうにしながらも背伸びして彼に耳を傾けた。桂はそこに内緒話をするように手を添えて、こっそりと聞く。
「……西郷さんには、何もされてない?」
「される?」
「それはだから……色々と?」
 濁すように付け足した桂の言葉は、には咄嗟に何の事か思い当たらなかったが──今までの態度から彼が何を言わんとしてるかようやく理解すると、彼女はばっと慌てて身体を離した。
「お酒を飲んだだけです!」
「本当?それか、君はお酒には強くないし一部記憶がすっぽりと抜け落ちてるとか」
「いいえ!至極明瞭です!」
 力強く否定したを見て、桂は後頭部を掻きながら声を上げて笑った。
「はは、そっか、良かった!西郷さんならやりかねない所あるし、それに、ほら……昼まで出てこないから、何か身体に負担を掛けるような事でもあったのかと思って」
 桂の直接的な表現にたじろいだだが、ふと、今の会話の中で気が付いた事があって彼に聞き返した。
「まさか、朝に西郷さんが出られてから今まで待っていてくれたんですか?」
 すると今度桂は顎に手をやりながら、ばつが悪そうな表情を浮かべた。
「いや、勿論ずっと同じ場所に立って待ち伏せしてたわけじゃないよ?さすがにそんな事されたら気味が悪いでしょう」
「気味悪くなんて無いですよ。何だか、父上に心配されているみたいで……私は嬉しいです」
 が口元にくすくすと笑みを浮かべながら言うと桂は瞠目したが、やがてその瞳を細めながら苦笑する。
「そこはせめて、兄上ぐらいにしておいてもらえるとありがたいかな」
 大切な人達、皆が皆、笑って暮らせる世の中になれば良い。穏やかに流れる川の水面には陽の光が反射してきらきらと輝いていた。