その日一日、は珍しく風呂屋の番台を任されていた。最後の客を見送ると店先へと出る。外はすっかり陽が落ちて心地よい夜風が吹いていた。近くにある飲み屋からの賑やかな笑い声を聞きながら、彼女は営業中である事を示す札を裏返した。
 店の中に戻った彼女は背後に感じた人の気配と、かたん、という物音にそちらを振り返る。
「すみません。もう今日は」
「まだ湯は抜いとらんやろ」
 西郷はの言葉を遮って店の中へと入ってきた。横を過ぎて脱衣所へと向かっていく西郷の事をは一瞬そのまま見送りそうになりながらも、はっと我に返って呼び止める。
「約束をされてたんですか?」
 らの元締めであるサイの風呂屋は、表向きは何の変哲も無いこの店を隠れ蓑に使って、客に情報の受け渡しをしていた。
 西郷もそういった事情を知る限られた客の一人である。だが今日、彼と風呂屋が会う事など特に聞かされていなかったは、二人の間で何か行き違いがあったのではないかと思ったのだ。
 だが、立ち止まった西郷は眉間に皺を寄せ怪訝そうにの事を見下ろした。
「約束?ここは風呂に入るのに、いちいち約束が必要なんかい」
 どうも噛み合わない西郷からの返しに、はまさかと思いながらもまた聞き返す。
「もしかして……西郷さん、ただお風呂に入りきただけですか?」
「そうや。普通風呂屋には、風呂に入りに来るもんやろ」
 当然だと言わんばかりに顎を軽く上げつつ告げて、西郷は脱衣所に姿を消した。はその場にしばらく立ち尽くしていたが、ある事に気が付いて「あっ」と小さく声を上げる。
「だから、もう店じまい……」
 言うだけ無駄なのだと、それはにも既に分かっている事であった。


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 裏で働いていた他の仲間達にも事情を説明し、仕方無くまた番台にぽつんと腰を降ろしていたに、脱衣所にいる西郷から大きな声が掛けられた。
「狐っ娘(こ)!手ぬぐいがないで」
 その言葉には脱衣所の方を振り向きながら小首を傾げた。口の横に手をやって、同じように声を張って返事する。
「籠の中に用意されているはずですけど」
「こないなもん、どれもこれも古くて使えたもんやないわ。新しいやつや、ないんか?」
 は溜息を吐いて立ち上がった。新しいものがいいなら自分で持ち込んでくれればいいのに。そう思いながら棚にしまっていた下ろしたての手ぬぐいを出してきて、脱衣所の外から呼び掛ける。
「新しいもの、ご用意しましたよ」
「おお」
 そう一言答えたきり脱衣所の中の西郷に動く気配は無かった。は少しだけ間を置いて、続ける。
「置いておきますか?」
「あ?客にそないな面倒な事させる気か、ええから早よ持ってこい」
「……はあ、分かりました」
 が脱衣所に入ると、西郷は彼女に身体を向けた。
「手間掛けさせたな」
 そう言ってに片手を差し出す西郷の足元の籠には彼が脱いだ着物が一式、無造作に積まれていた。
 小袖に帯に袴、そして一番上には褌。それらに顔を向けたまま脱衣所の入口から微動だにせぬに、西郷は首を傾げ大股で歩み寄る。
「何をぼさっとしとるんや」
 跳ねるように顔を上げたは、ずしずしと巨体を揺らし近付く西郷に対して一歩後ずさった。
「すみ、ません。あの、手ぬぐいを」
 は両手を思いっきり前に伸ばして西郷に手ぬぐいを差し出した。だがの正面で立ち止まった西郷は手ぬぐいを受け取ること無く、軽く首を傾けたままじっと無言で彼女を見下ろす。
 なぜか、いつもに増して強く感じられる威圧感と緊張感にはそれ以上動くことが出来なかった。西郷の視線はゆっくりとの顔から更に下へと移動し己の下半身に向けられる。そこで得心がいったように「ああ」と頷いた彼は、再び顔を上げて面白がるように口角を持ち上げた。
「ひょっとして男のを見るんは初めてやったか?そら悪い事してもうたな」
「……違います、少し驚いてしまっただけです」
「お」
 からぐいと押し付けられるように手ぬぐいを渡されると、西郷はそれを片手で受け取りながら軽く目を開いた。
「ほう、それはそれで意外な話やな。てっきりまだ生娘や思うとったわ」
「すぐそういう話にしないで下さい!身体の具合を診る時や……それに、ここにいればこうして風呂場に入る機会くらいありますよ」
「ふん、そないなもん見た内に入るかい」
 西郷は踵を返しに背を向けると、ようやく風呂場へと歩き出した。
「折角伝手があるんや。薬を売り付けに行くだけやのうて、祇園の女共から少しは男の事でも教わって来るんやな」
「放っておいて下さい」
 不貞腐れたようなの言い方に、西郷は豪快な笑い声を上げた。
「もし、適当な男がおらんかったら言うたらええ。くだらん男にくれてやるくらいやったら、わしがいつでももろうたる」
「ふざけてないで、いい加減お風呂に入らないと風邪ひきますよ」
「ふざけて、か」
 西郷はふっと息を吐いた。そして自身の肩越しにの方を振り返る。
「よう考えたもんや。その狐面」
 脈絡の無い会話には一体何の事かと首を傾げた。西郷の瞳が薄く細められていく。
「その面の中でどれだけまじまじと見ても、相手には分からんからな」
「は……」
 西郷は再度身体ごと振り返ると、自身のがっしりと鍛えられた肉体をに向かって真正面から堂々と晒した。
 悲鳴こそあげなかったものの、は明らかに動揺して慄くような素振りを見せる。そんな彼女に対して、西郷は唇の端にある古傷を歪めながら愉しげに笑みを深めた。
「どうや?いくらなんでも見慣れたやろ。このままわしに湯女の真似事でもしてみるか」
 西郷に否定と抗議の言葉を返す前に、はまるで追い立てられるようにして慌てて脱衣所を飛び出していた。


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 湯上りに寛ぐ西郷に文句の一つでも言いたくなり、は番台に正座したまま彼に恨みがましい視線を送った。
「さっきも言おうと思ったんですけど、本当はもう入浴時間は終わりだったんですからね」
「おかげでゆっくり浸かれたわ。やっぱり風呂に浸かるなら貸切がええ、ここやったら広いしな」
 も薄々そうではないかと思っていたが、やはり西郷は“敢えて”店じまい後に来たという事らしい。
 悪びれもせず草履に足を通す西郷の背に、は正座したまま身を乗り出して抗議した。
「同じ事をまたされると困りますからね。これっきりにして下さいよ」
「それやったらお前がここおる時だけにしといたる。それでええやろ」
「よくありま、」
 が言い終わる前に西郷は番台に座る彼女の膝の上にじゃらっと銭を落とした。は思わず一瞬動きを止めてからそれを見下ろし、また、目の前の西郷を見上げる。
「こんなにいただきませんよ」
「いちいち勘定するんは面倒や。余った分は好きにせえ」
 それにしてもゆうに数十回分の入湯料にはなろうかという金額だ。
 西郷には男も女も多くの者が惚れ込み、その周りに集まっているが、それはきっとこういった豪放磊落な部分に西郷隆盛という男の魅力と懐の深さを感じての事なのであろう。
 も先程までは文句を言ってやろうと思っていたが、このようにさらりと粋な真似をされてはその気も無くなってしまった。ただほんの少し悔しい気持ちで、頭を下げる。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
「おお」
 西郷は満足気に頷いた。それから彼はふと、の事をまるで品定めでもするように改めてじっくりと眺め始める。
 は上から下へと遠慮無く動かされる視線に居心地の悪さを感じながら思わずその居住まいを正した。やがて、おもむろに顎に手をやった西郷が口を開く。
「お前らの頭が“サイの風呂屋”で良かったわ」
言葉の意味が分からずが不思議そうにしていると、西郷は続けた。
「髪も肌も爪も綺麗にしとるな。面を取った所はしばらく見とらんが、そうして面しとってもお前は充分ええ女や」
 率直な物言いに思わず硬直するに対し、西郷は特に何でもないような様子で踵を返して店の出口へと向かっていく。
「世話なったな。また気ぃ向いた時には顔出したる」
 はずっと考えていた。薩摩の代表として本来多忙なはずの西郷だ、ひょっとして今日は自分が番台にいるのを知っていてわざわざ訪ねてくれたのではないだろうか──、と。
 彼が店を後にすると外からの涼しい風がふっと吹き込んでくる。
 は結局、最後までその質問を彼に投げ掛ける事は出来なかった。