「頼みたい事がある」と。そう一言話したきり斎藤はと向かい合ったまま先程からずっと黙り込んでいた。
 は、その深刻そうな様子からもしかすると“斎藤”としてではなく“坂本”として頼みがあるのではないかと一瞬身構えたのだが、今は昼間、ここは多くの人が通りを行き交い賑わう洛内である。互いに他に知られたくない言葉を交わし合うには相応しくない。
「それで……その、頼み事とは?」
 が促すと、斎藤は静かに瞳を閉じ、やがて覚悟を決めたかのようにそれをまたゆっくりと開いて。
「惚れ薬を探している」
「…………」
 明らかに戸惑うに対し、斎藤は眉間に皺を寄せ、少し慌てたように付け足した。
「違う、使うのは俺じゃない」
「そ、そうでしたか。……少し前に話題になってましたね。確か骸街にいる商人が取り扱っていたはずですが」
「いや。そっちは俺も使いで頼まれた事があるが、香水(においみず)といって体にふりかけるものだった。今度のものはどうも飲み薬らしくてな」
「それはまた、手を変え品を変えですね」
 その『惚れ薬』とやらを意中の相手に渡して飲ませると気持ちを自分に向けるさせる事が出来るとか、出来ないとか。
 いかにも俗信めいた話だが、実際の所にもここ数日だけで既に何人かが薬の所在を尋ねにきていた。まさか斎藤からも同じような事を聞かれるとは思っていなかったが、口振りから察するに誰かから頼まれたものなのだろう。
「生憎私は持ち合わせてないんですが、噂だと越中堂さんに置いてある長命丸なんかにそういった効果があるらしいですよ」
「いいや、あれはどちらかと言うと精」
 何か言葉を口にしかけた斎藤だが、なぜかそれを苦々しい表情で飲み込んだ。
「とにかく、悪いがあれは駄目だ。肉体的な作用ではなく、精神的な作用が望ましい」
「ですが、まさか本当に薬で人の感情を操るだなんて」
「ああ、俺もそんな都合のいいものは存在するはずがないと思っていたが、前回の香水(においみず)の例もあるからな。あれは使いようによってはとても恐ろしい……」
「え?使ってみたんですか」
「!い、いや。……とにかく、偽物でも構わない。ただ少しでもきっかけになるような、本人の背中を押してやれるようなものであればいいんだが……」
 こうして奔走する斎藤の姿を見るのはもう何度目になるだろう。
 例えばそれが彼にとっては恐らく何の得にもならないであろう事でさえいつもの寡黙な表情をさして崩さずやってのけるのは、彼がこれまでもずっと、自分では無い誰かの為にそのような生き方をしてきた証なのだろうとは感じていた。
 当然誰もが彼のような生き方を容易に選択出来る訳はない、が。
「分かりました。私に出来る事なら」
 は斎藤の瞳の中に映る己自身の事を見上げながらそう応えた。


 + +


「ま、待て……乱暴に扱わないでくれ……」
「この大量にある包みはなんや?お前、武器商人やったんとちゃうんかいな」
 狭い路地にしゃがみ込んで地面に散らばった荷を物色していた沖田は、その中にあった小袋の口紐をひょいと摘み上げると、肩越しに背後を振り返った。
 月灯りに照らされた視線の先には、古い建物の壁に背を預ける一人の男がいた。男は手で押さえた肩口からどくどくと血を流しながらも、今まさに己の命運を握っている目の前の相手からの問いにか細い声で応じる。
「それ、は……そう、惚れ薬だよ。あんたも、噂に聞いた事くらいはあるだろう……」
「惚れ薬?」
「……その手の流行りもんは稼げるからな……金の無い攘夷志士だけを相手してちゃ、うちも商売あがったりだからね」
「ほぉ〜。そらまた、商魂逞しいやっちゃ。見習いたいもんやの」
 たわいない世間話を交わした事で周囲の空気もどことなく和らぐ。男は内心安堵の息を吐くと、立ち上がった沖田に媚びた笑みを向けた。
「へへ……、どうだい?なんならお安く、」
「間に合うとるわ」
 ぴしゃっと、地面が濡れる音がした。
「いくら商魂逞しい言うたかて、見る目の無い商売人はあかんなぁ〜。この色男のどこをどう見たら惚れ薬なんてもんが必要そうに見えんねん?」
 問いかけに言葉が返ってくる事は無かった。沖田は刀を大きく一払いして鞘に収めると、ほんの少し考え込むように顎に手をやって。
「……まあ、夜やし。見えん事もあるか」
 そう呟くと、納得したようにうんうんと頷きつつ、その場から踵を返した。
 本来であればこのまま屯所に戻り報告まで済ませるのが新撰組隊士である彼の仕事である。
 だが当然、この沖田という男にそのような殊勝な心掛けはない。退屈凌ぎに夜の町をふらついていたところ、たまたまそれらしいものを見つけ、さてどんなものかと軽く突いてみただけの事。結果は大当たりで所謂お手柄なのだろうが、彼にとってその中身自体は期待外れの代物でしかなかった。
「しっかし、実際なんの粉やこれ」
 通りに向かって歩きながら興味本位で拾ってきた小袋の口を開けてみると、その中には黒っぽい粉末が入っていた。鼻を近づけてすんすんと動かしてみるも、何かを焦がしたような煤臭い匂いがするだけで正体は掴めない。
「あっ、沖田さん」
 そこで沖田に声を掛けてきたのはだった。沖田はそちらに顔を向けたが、彼女はなぜか彼から少し離れた場所でぎくりとその足を止めてしまう。
「狐ちゃんか。どないしたんや」
「いえ……、すみません。お仕事だったんですね」
「あ?」
 沖田が自身に向けられたの視線を追ってみると、通り沿いに並ぶ店の明かりが彼の袴にべっとりと生々しく付いた赤黒い染みを照らし出していた。
 酒に酔いふらふらと気分良さげに歩いていた町人も、ぎょっと酔いから醒めたような表情を彼に向ける。沖田は袴の裾を摘み上げ、軽い舌打ちをした。
「ったく、毎度毎度困ったもんやなぁ〜。誰が洗濯する思とんねん、なぁ?」
 同様の色に染まった羽織を纏いながら白々しく吐き捨てる沖田に対しはしばらく言葉に詰まっていたがやがてまた思い出したように声を上げた。
「お急ぎでなければお伺いしたい事があるんですが、この近くで棒手振りの万屋さんを見かけませんでしたか」
「万屋?その手の商売人なら、似たようなのが何人かうろついとるやろ」
「黒塗りで、赤い縁取りがしてある行商箱と聞いたんですが」
「んなもんいちいち細かく見……ん、待った。黒に赤……」
「ご存知ですか?」
 いかにも心当たりがありそうに呟いた沖田をは期待を込めて見上げる。すると沖田は思い出したとばかりにぽんと手を打って。
「あ、そや。そいつならちょうどさっき斬ったとこやで」
「え」
 ほれそっち、と親指で暗い路地の方を指してみせた沖田には慌てて詰め寄った。
「そんなどうして……!まさかまた虫の居所が悪かったとかそういう」
「人聞きの悪い言い方すな!!チッ……仕事や仕事、文句あるなら指示出した歳ちゃんに言えや」
 その沖田の言い方で大体の事情は悟ったのだろう。は力無く肩を落として彼から離れた。
「そうですか……仕方がないですね……」
「なんや。まさか狐ちゃんもこの惚れ薬が欲しかったっちゅうクチかいな」
「!それがそうなんですか!?」
 沖田が先程の小袋を摘んでぷらりと揺らしてみせるなりは飛び上がらんばかりの嬉しそうな声を上げた。半ば冗談のつもりであった彼は、彼女のまさかの反応に面食らったような表情をみせる。
「良かった。本人から話を聞けない限り、もう手に入らないのかと思いました」
 すると、少しばかりの間を置いて沖田が口を開いた。
「惚れ薬なんぞ、誰に使うつもりや?」
 背筋をひやりと凍らせるような低く冷たい声だった。口元に笑みを形作りながらも感情の読めない静かな眼差しを向けてくる沖田に、は僅かに後ずさる。
「私が使うわけではなくて、その、頼まれたというか」
「おお、そういう事ならはよ言わんかい」
 途端沖田はけろりと軽い調子に戻り、に小袋を手渡した。
「いただいてしまっても宜しいんですか?」
「ワシには必要無いもんやしな。もっと欲しいんやったらあっちの方にまだなんぼでも落ちとるで」
 そう言って再び路地の暗がりの方を指差した沖田に、は慌てて首を左右に振った。
 幸いが沖田から貰った小袋には目立つ“汚れ”などは何も付着していなかった。
 は中身の粉末をいくらか手の平に出すと、指ですり潰して感触を確かめたり、先程沖田がしたのと同様に鼻を近付け匂いを嗅いだりした。特にやる事もない沖田はそんな彼女の様子を傍から眺める。
「狐ちゃんまで手ぇ出すっちゅう事は、やっぱ相当儲かるんかいな」
「私は今回限りですけど、この人の場合は一つ二両で売っていたって聞きました」
「二両!?」
 予想を上回る高値に声を張り上げた沖田は、同時にが指先に付けた粉末を躊躇いなく口にしていた事で更にぎょっと目を開いた。
「やっぱり気付薬に近いのかな」
「お前……ようそない得体の知れんもんが舐めれるなぁ。それが動物の糞とかやったらどないすんねん」
「えっ!?……だ、大丈夫ですよ。確かめましたし、多分……」
「そうかそうか。で、どや?惚れ薬の効果の方は」
 腰を屈めた沖田はの事を覗き込むようにぬらりと間近に顔を近付けた。
 こんな時。反応に困って狼狽えてしまえばそれこそ彼の思うつぼであると、最近はも段々理解してきている。
「特に何も。いつも通りの沖田さんです」
「そらそうや」
 すると案外、沖田はあっさりと身体を起こして。
「“いつも通りの素敵な沖田さん”やろ?そないなもん使わんでも狐ちゃんはワシにほの字やもんなぁ」
「からかわないで下さい。大体、沖田さんこの手のものを信じるような人じゃないでしょう」
「いや、これが存外真面目な話やで」
 そこで急に声の調子を落とした沖田はゆったりと腕組みをしながら続けた。
「噂だけの紛いもんならこんなただでさえ胡散臭い代物はとっくに廃れとる。それがまだ広がっとるっちゅうからには、それなりの理由があるはずや」
「そうでしょうか。時にはそういうものもあるかと思うんですが……」
 の言葉を聞いているのかいないのか。沖田は彼女の事を見つめたまま、何か思案を巡らせるように黙り込んでいた。
「……?沖田さ、」
「よっしゃ、没収」
 そう言って、沖田はの手から小袋をひょいと摘まみ取る。はあっと声を上げ、彼の頭上高くに持ち上げられたそれを慌てて視線で追った。
「さっきはくださるって」
「ほぉ、そないな事言うたか?」
 沖田は意地の悪い笑みを浮かべ、必死に背伸びし手を伸ばすを見下ろしていた。
「ほーれほれ、よう気張らんとここまで届かんで。もっとこう!押し倒すくらいの気迫でこんと!!」
「っ……、もういいです。どういうものかは分かりましたし、自作することにしますから」
「ヒヒッ、それがええ。狐ちゃんなんか、ただでさえ歳ちゃんには胡散臭がられとるんや。大人しゅうしとくんやな」
「どうしてそこで土方副長の」
 言い返そうにもこの話題に関してはも歯切れ悪くならざるを得ない。
 思った通りの反応に口角を上げる沖田だがその時、生温い何かが彼の頬の上をぬるりと這うように流れていった。
 果たしてそれは夜風であったか、──誰かの血濡れた赤い手か。
 沖田はハッと短く鼻で笑った。
「アホか。こっちはもう顔も忘れてもうたわ」
 心当たりの無い呟きに困惑するを余所に。沖田は冷ややかな眼差しで路地を見やりながら、小袋を懐にしまい込んだのだった。


 + +


 が斎藤に呼び止められたのは薬について更に詳しい話を聞き込みに行った祇園から戻る橋上での出来事であった。多くの人が行き交うそこから、取り敢えずすぐ下の宇治川のほとりへと場所を移す。
「良かった。ちょうど惚れ薬の事でお話に行こうかと思っていたところです」
「ああ、こちらもその件だ。……事情が変わった。昨日の依頼は無かった事にしてくれ」
 その言葉にがすぐ応じる事が出来なかったのは、少なからず出鼻を挫かれてしまったような気がしてしまったからだ。そんな彼女の様子を察して桐生は申し訳無さそうに続けた。
「すまねえな。色々動き回らせちまったってのに」
「あ……私の方は構いませんけど大丈夫なんですか?」
「これもいい機会だ。本人にはそんなもんに頼らずに直接ぶつかってみるよう俺から伝えてみるさ」
 どこか清々しく語る桐生。どうやら彼に惚れ薬を頼んだ人物の事は何も心配いらないようだ。は身体の力を抜いた。
「実は、まだ試作段階だったんですけど似たようなものを私の方で作ってみたんです」
「なに?まさか惚れ薬をか?」
「いえ、結局は気付け薬からの流用品ですが代わりに何か斉藤さんのお役に立つでしょうか」
 は取り出した薬包紙を斎藤の手のひらに乗せた。そして、そう言えば、と思い出して顔を上げる。
「事情が変わったというのは──」

「あ〜あぁ、こいつはいかんなあ」
 斎藤の首筋に押当てられた刀身。思わず動きを止めてしまったに対して、斎藤はそれを視線で確認してから特に動じる事なく背後へと声を掛けた。
「何の真似だ」
「今朝一ちゃんも聞いとったやろ?巷で例の惚れ薬やらのやり取りをしとる奴らには、よう注意せえって」
「こいつはただの気付け薬だ。そうだろ?」
 斎藤に同意を求められたは、はっと我に返って頷く。しばしの間。すると彼の背後に立っていた人物、沖田はようやく刀を下ろし鞘へと収めた。
「そりゃ残念。二日続けてのお手柄にはならんかったか」
「おい。確かに見廻るようには言われたが、いきなり斬りかかるようにとは言われてないぞ」
「どこがどうちゃうねん?」
 薄く笑い挑発するような物言いで返す沖田に斎藤も眉を顰める。
「あの……、何かあったんですか……?」
 が恐る恐る聞くと、沖田は思い出したよう彼女の方へと顔を向けた。
「昨日の棒手振り覚えとるか?あれが惚れ薬に紛れさせて攘夷志士に火薬の横流ししとったんや」
「火薬!?」
「ひひっ、舐めた途端に爆発せんで良かったのう?……にしても」
 沖田は羽織の袖に手を入れて腕組みすると、やれやれと大きな溜息を吐く。そしてじとっと恨みがましい眼差しを斎藤の方に向けた。
「やーっぱ相手は一ちゃんやったか。わざわざこんなもんに頼るとか、お前もどんだけ欲求不満やねん。良かったら俺が五番隊隊長さんに紹介したるで」
「生憎そっちの趣味はねえよ。それに、俺の方も頼まれたもんだ」
「どうだか。ま、一ちゃんがどこの女に手ぇだそうが、ワシの女にさえ手ぇ出さんかったら別に構へんねんけどな」
「…………」
 言いながら送られてきた沖田からの視線を、じっと無言で受ける。
「……お。珍しく言い返してこんな。ふうん、昨日の薬も丸っきり効果が無いわけではなかったか……」
「心当たりが無かったので口を出す必要がないと思っ……な、なんで近づいてくるんですか」
「いやぁ?またかわええ反応するなぁ〜思て」
 沖田は後ずさるに愉しげにしながら、彼女との距離を詰めていく。
 先程彼が斎藤の首筋に刀を押し当てた事は、今を相手にしているのと何ら変わらぬ戯れの一種であったかもしれない。
 だが、決して脅しではなかった。
 斎藤からの視線に気が付いた沖田がニイッと笑みを見せる。彼の手には焦るの両手首が軽々ひとまとめに捉えられていた。