これも商売柄であろうか。は、まだ陽も高いというのに前から歩いてくる男の顔色がやけに青白い事が気になっていた。その動向を密かに窺いながらすれ違おうかとした時、男がよろけて彼女の背負う薬箱にどんっと肩をぶつけた。
「おっ……と、すまねえ」
 立ち止まって謝る男の口調が思いの外しっかりとしていた事を意外に感じながら、は首を横に振った。
「いえ。貴方の方こそ具合が悪そうですが、大丈夫ですか」
「俺は大丈夫だよ。ああ、大事な商売道具にぶつかっちまったなあ」
 男はまるで無傷である事を確かめるようにしての薬箱に触った。
 しかし背負子に括り付けられた木製の四角い薬箱は見た目にもかなり頑丈である。余程の事で無い限り壊れたりなどしない。
 やがて男も気が済んだのか、に向かって改めて「本当に悪かった」と頭を下げてから、またふらふらと道の向こうに歩いていった。
 男の姿が角に消えたのを見送っても踵を返す。しかし足を前に踏み出そうとしたその時ふと、妙な違和感と共にある嫌な予感が彼女の脳裏を掠めた。
「(……まさか)」
 つい他人の事を疑ってしまう、これは薬師とは別の、もう一方の商売の悪い癖である。
 恐らくそんな事はないだろうが念の為だと、はまるで己に言い聞かせるように内心で唱えながら、道の端で荷物を降ろしその中身を検める事にした。
 ぶつかった時の衝撃のせいか薬箱の蓋は少しずれてしまっていた。
 “衝撃のせい”──本当にそうだろうか。そんなに強くぶつかっただろうか。
 の嫌な予感は、彼女が躊躇いつつも覚悟を決めて薬箱を開けた時、確信へと変わった。
 予感の正体。本来、そこにあるはずのものが無くなっていたのである。


 + +


 特にこれといった目的は無く神明町の付近を歩いていた沖田は、いかにも退屈そうな大欠伸をして首元を掻いた。
 すると、少し離れた前方の角からざざっと勢い良く地面を滑るようにして見知った姿が現れる。珍しく慌ただしい様子で辺りを見渡している狐面に、彼は笑みを浮かべ、首元から離した片手をよっと軽く持ち上げた。
「きーつねちゃんっ!そないに急いでどないしたんや」
「……!沖田さん」
 は沖田の姿に気が付くなり早足でその距離を詰めてくる。
沖田が見下ろす姿勢になってもなお身を乗り出すようにする普段のからは思いも掛けない行動に、つい上半身を反らせながら「お、お?」と戸惑ったのは沖田の方であった。
「沖田さん。沖田さんは、新選組は、京の治安を守ってくれるんですよね」
「あぁ?」
 突然何を言うのかと沖田はいかにも怪訝そうに声を張り上げた。
 しかし、彼を見上げるのやけに押しの強い雰囲気に負けるとうっと言葉に詰まり、少しだけ考えるような素振りを見せてから後頭部をぽりぽりと掻きつつ答える。
「……ま、そういう事にはなっとるな」
 その言葉が終わるか終わらないかの内に、は縋るようにして沖田の羽織を掴んだ。
 驚いた沖田はぎょっと目を見張る。
「私のピンセットが、盗まれてしまったんです!」
「ぴ……、な、なんやて?」
「ピンセット!」
「せやからそれが何の事なんか、少しは落ち着いて話せえ!!」
 が言うには『ピンセット』というのは南蛮の言葉で、彼女にとって貴重な医療道具の名称なのだという事であった。それをつい先程ぶつかってきた男に盗られてしまったかもしれない、それで男を探して走り回っていたのだ、と。
 余程大切なものであったのかは沖田に事の経緯を話しながらも段々と肩を落とし、分かりやすく気落ちしていった。
「細かいものを挟んだり摘まんだり、便利なものなんです」
 対してに説明させておきながらどうもいまいちぴんと来ていない沖田は、さして興味はなさそうに応じた。
「んなもん、挟んだり摘まんだりする程度なら何か別のもんでも代わりはきくやろが」
「そんな、使い勝手が全く違いますよ」
「一緒、一緒」
 いかにも面倒臭そうにひらひらと手を払う沖田を見て、は彼に協力を望む事は難しいと悟った。
 確かに、常日頃は新選組という組織や沖田という男に複雑な思いを抱えているにも関わらず、都合の良い時だけ頼るというのも虫のいい話である。
 実はにとっても、男の特定だけであれば恐らく情報を辿っていけばそう難しい事ではなかった。だが今回に限っては、そうやって悠長に動いていている間に盗まれたものが売り払われてしまうかもしれないという焦りがあったのだ。
 ではこんな時、他に誰を頼れば良いだろうか──そう考えた時の頭に直ぐ様浮かんでくる人物がいた。そこでがつい、あっ、と声を出すと沖田は片側の眉を持ち上げる。は気を取り直して沖田に頭を下げた。
「お忙しい所どうもすみませんでした。それでは、私はこれで……」
「ちょお待ち」
 薬箱を背負子に括り付けている縄をぐいと掴んで、沖田は立ち去ろうとしたを引き止めた。
 戸惑うが振り返って仰ぎ見ると、沖田はゆっくりとその口角を持ち上げる。
「冷たいやんけ狐ちゃん……まだワシと話しとる際中に、一体どこの“男”の所に行く気や?」
 その言葉にが思わずぎくりと肩を揺らしてしまったのは、実際、彼女は斎藤の元に行こうとしていたからである。
 斎藤であれば、新選組という組織とは関係無く、普段から町の人々の手助けをしている事で有名だ。その考えはどうやら沖田にも見透かされてしまっていたらしく、の沈黙を肯定と取った彼は眉間にぐっと皺を寄せた。
「こぉら!!ほんま、ワシの知らん所で一ちゃんにはとっくにコマされてもうたんとちゃうやろな!!?」
「な、何を大きな声で言っているんですか!私はただ、斎藤さんなら協力してくれるかと」
「……ほう?斎藤さん……“なら”?」
 ぞくりと寒気がするような低い声に、は自分が今使ってはいけない言葉を使ってしまった事に気が付いた。固まる彼女を見下ろして、沖田はその顔に不穏な笑みを浮かべてみせる。
「なるほどなぁ〜〜。狐ちゃんの目にはワシがここで泥棒探しの一つも手伝わんような、薄情な男に見えとるわけや」
「……沖田さんはさっき、他のものでも代わりはきくって仰ったじゃないですか」
 実は少し根に持っていた事をが言い返すと、沖田は「はあ?」と恍けて大袈裟に肩を竦めた。
「あんなもんちょっとした冗談に決まっとるやないか!可愛い可愛い狐ちゃんが困っとるんやで?ワシに出来る事なら、そら、喜んで何でもしたるっちゅうもんやがな」
 言葉だけ聞けばありがたい申し出だが、は先程から沖田の目だけが決して笑っていない事が不安であった。
 これならば、額にはっきりと青筋を浮かべながら怒鳴られた方がどれだけ良いか。辛うじて抑え込んでいる激情をいつ破裂させるかも分からぬ不気味な沖田を前に、は殊更慎重に言葉を選んだ。
「ありがとう、ござい、ます……でも、よくよく考えたらご迷惑かと思いますし」
「ええから、ごちゃごちゃ言っとらんと行くで」
 口篭るの言葉を遮って沖田は彼女にくるりと背を向けた。どうするべきかと戸惑い見上げたに対して、沖田は己の肩越しに「ん?」と振り返り、再度その口角を持ち上げた。
「ワシに任せとき。狐ちゃんはなぁんも心配せんでええ」
 しかし、その言葉を聞いてもの不安感は増すばかりなのであった。


 + +


 建物の壁を背にぐったりと項垂れる男の意識は既に無い。沖田は男から取り上げた小さな巾着を摘み上げ、男が持つにしてはやけに可愛らしい布地で作られているそれを、後方で見守っているに向かって手を伸ばして差し出した。
「ほれ。これか?」
「あっ。そうです、それです」
 小走りで駆け寄ったは沖田の足元にいる男を気にしながらも巾着を受け取った。念の為に紐を緩めて中身が無事である事を確認してから、安堵の息を吐く。
「ありがとうござ、」
 言い掛けて、しかしは途中で影を落としたようにその声を暗くした。
「……巾着に、血が……」
「ああ!?それくらいは我慢せえ!!さっきから注文が多いんねんお前は!!」
「は、はい、そうですね。本当にありがとうございます」
 がびくりと肩を上下させると、沖田はまだ文句を言い足りなさそうな顔でふんと不機嫌に息を吐いた。
 元々沖田はこの盗みを働いた男を相手にする事で己の鬱憤、斎藤に対して抱いた嫉妬心のようなものをいくらか晴らすつもりであった。だが骸街の近くでようやく男の後ろ姿を見つけた時、嬉々として刀に手を伸ばした沖田をが横から止めた事で、その目論見はまんまと外されてしまったのである。
 実際、ぐったりと無残な姿で倒れている男を見ればこれでも充分だろうとは思われたが、沖田から言わせればこの程度ではまだまだ物足りなかった。むしろ不完全燃焼となったせいで、その苛立ちは更に増したとも言える。
「聞こえますか。これは切り傷に塗って下さい。それとこちらは後でお湯に溶かして飲んでみて下さいね、少し苦いですが身体はよく温まりますよ」
 だがその苛立ちは、僅かに意識を取り戻したらしい男の隣に片膝を突きその手に何かを握らせているの姿を見て、大きな呆れの感情へと代わった。
 用事が済んだは立ち上がると、あんぐりと口を開けている沖田に向かって声を掛けた。
「行きましょう」
「……おお」
 そうして歩き出してから、は隣の沖田から向けられている物言いたげな視線に気が付き顔を上げた。
「あの人具合が良くないんですよ。最初から顔色が悪かったし、今触ったらやっぱり手も熱かったです」
「あのなあ、別にそないな話を──」
 は沖田の言葉の続きを待ったが、彼は彼女の顔をしばらく黙ってじっと見つめた後、その視線を外して諦めたような溜息を吐いた。
「──……こういう手合いには何言うても無駄か。狐ちゃんはワシら相手にも似たような事しとるわけやしな」
「あっ」
 沖田はから先程の巾着を取り上げると、その手の中でお手玉のように宙に放りながらずかずかと大股で歩いていく。はそんな彼の事を慌てて追い、声を掛けた。
「返して下さい!あっ、あ、そんな。乱暴に扱わないで」
「やかましいのぉ〜〜。折角ワシが新しい巾着買うたる言うとんのや、もう少し嬉しそうな声は出せんか?」
 は思わず抗議の言葉を止めて、沖田の背を見上げた。
「新しいって」
「他の男の血の染みが付いた巾着なんぞ、そない気味の悪いもん使わせてられるか。店なら四条通りの方に何軒かあったやろ。さっさと行くで」
 特にこれといった感情を読み取る事が出来ない淡々とした口調で言いながら、沖田はの先を迷いの無い足取りで進んでいく。
 は戸惑いつつも、置いていかれてしまわないように彼の背を追い掛けた。