周囲からの囁きには恐怖と嫌悪の念が入り混じっている。自然と道の両端に割れる人波の中央を、大きな欠伸をして闊歩していくのは沖田であった。
 京の人々の多くは今でも新選組の事を影で壬生狼と揶揄している。
攘夷派の浪士達に向けられている刀の先が、いつ自分達に向けられるか。実際新選組という立場を笠に着て傍若無人な振る舞いを繰り返す隊士も存在しており、国に対する思想からは離れた所で暮らす人々にとって、“人斬り”と“新選組”に対する大きな認識の違いは無いに等しかったのだ。
 特に、沖田が纏う返り血に染まった浅葱色の羽織などはその最たるものである。
 しかし当の本人である彼は周りの反応など気に掛ける素振りさえ見せず、昼間の活気ある京の町並みに億劫そうにして目を細めていた。
「チッ、これだけ陽が高かったら鼠共もまだ穴ぐらからは出てこんわ」
 舌打ちと共に呟いたのは新選組副長の土方に対する恨み言である。
 基本的には己の気が乗れば動くという自由気ままな沖田だが、そんな彼に物申す事が出来る数少ない人間の内一人が土方だ。先程も遅く起きて屯所内をふらふらしていた時に、見廻りにでも行ってきてはどうかと声を掛けられたのだった。
 それをうるさがって外に出てきたはいいものの、やはり遅い時間に比べて辺りに切迫したような雰囲気は微塵も感じられない。
むしろ沖田の場合は攘夷派の浪士達の方から避けているようなきらいもある中、彼の望んでいる展開が訪れる可能性は限りなく低いように思われた。
いっそ自ら骸街あたりにでも足を伸ばしてみるか──沖田がそんな事を考えて、見渡すように視線を動かした時。
 左手の路地、寺町通りの御所前に見知った姿を見付けた沖田は、それまでの退屈そうな表情を消して代わりに瞳を大きく見開いていった。
「ええもん、見いっけ」


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 が息を吹き込んで膨らました紙風船を手のひらに乗せてやると、少年は「わあ」と嬉しそうな声を上げた。
「もらっていいの?」
「ええ。どうぞ」
「ありがとう!帰って、父ちゃんと母ちゃんにも見せてあげるね」
 薬の包みと紙風船を大事そうに抱え、少年は笑顔でに大きく手を振りながら去って行った。
 小さな背はやがて曲がり角に消えて見えなくなる。が振り返していた手を降ろすと、反対側から声を掛けられた。
「狐のおね〜ちゃん!ボクにも紙風船ちょうだぁい?」
「あ、ちょっと待っ」
 振り返ったは、そこに手のひらを差し出しながら立っていた沖田を見て一瞬固まった。
 大きな手のひらから、にやにやとからかうように見下ろす笑みへと視線を上げて、どうにか気を取り直したように尋ねる。
「……何してるんですか」
 すると沖田は手のひらを下げた。
「冷たいなぁ?さっきのガキんちょ相手に振りまいてたくらいの愛想はあってもええと思わんか」
「振りまいていたわけではないです」
「よう言うわ。こっちはんなもん貰った事無いで」
 そう言って沖田が顎で示したのは、が持っていた膨らます前の紙風船だった。確かに基本は子供相手にしか渡していないそれを、は気まずそうに手で隠す。
「これは、だって、新選組の皆さんは大人じゃないですか」
「ほぉ。つまり狐ちゃんは相手見て商売の仕方変えとるいう事やな?」
「す、すみません」
 使いで薬を買いに来る子供も多かった為、はそういう場合には薬と一緒に手製の紙風船を渡していた。
 色とりどりの千代紙で作った紙風船は評判が良く、今では薬を買わずともわざわざ紙風船が欲しいと声を掛けてくる子供もいるくらいだ。
 更に後から付いてきた事ではあるが、子供の警戒心が薄くなると大人もそれに倣うようで、がいかにも怪しげな狐面を付けて町を歩いていようと、行く先々で彼女に温かく接してくれる人の数は紙風船を配る度に段々と増えていったのである。
 だが勿論、あの新選組相手には紙風船を用意した事など当然無い。でなくても誰がそんな真似をするだろうか。しかしその事を「商売の仕方を変えている」と言われれば確かにその通りで否定も出来ず、は後ろめたい気持ちになった。
 指摘を真に受けて力無く肩を落としたに、沖田は笑い出してしまいそうな所を堪えていた。拳を口に当て誤魔化すようにわざとらしく一つ咳をしてから、畏まった声で続ける。
「あー、まあ、目撃者が歳ちゃんあたりやったら処分も分からんかったが、ワシは寛大な男やからなぁ……」
「!どうすればいいでしょうか」
 沖田の言葉にはハッとして顔を上げた。
 今のように新選組の贔屓となるまでには随分と手間も掛かり苦労した。まだ知りたい情報も掴めない内に、こんな事で出入り禁止にされてしまっては元も子もない。
 沖田は顎に手をやり言い放つ。
「そら同じ商売で取り返す他無いやろ」
「なるほど……。それでは、値引きなどはどうでしょう」
「アホ、んなもんは面白くもなんとも無いやろが」
「(面白い?)」
「せやなぁ……紙風船の代わりやったら、やっぱ接吻さすあたりが妥当か」
 納得したように頷きながら言う沖田には愕然とした。
 接吻?それは自分がするのだろうか。いや、紙風船の代わりが、そもそもなぜ接吻という発想になるのか。
 全く理解の出来ない展開に、は混乱しながら片方の手のひらを前に突き出した。
「わ、私が皆さんにですか?それは誰が得をするんですか」
「はぁあ〜!?狐ちゃん、まさか揃いも揃ってむさっ苦しいあの面に接吻して回りたいっちゅうんかいな」
「え、いえ、そんな事は一言も」
「せやから。そこは美少年様の特権や」
 沖田は愉しむように口角を上げ、己の頬をとんとんと指先で叩いた。静止するの前で沖田は肩を上下させて笑う。
「ヒッヒッヒ!なんや、楽しなってきたやんけ!?しかし毎度毎度接吻いうのも勿論悪くは無いが、代わり映えはせえへんな。どや?そこは段々と色を付けて……」
「手を出してくれますか」
「は?」
 言われた通り反射的に沖田が手を差し出すとは膨らませた紫色の紙風船をそこに乗せた。怪訝そうに眉間に皺を寄せる沖田を、は指先を紙風船から離し、見上げる。
「よく考えたら代わりを考える必要はありませんでした。お望みなら、同じ紙風船をご用意します」
「……チッ。あ〜あぁ……ノリの悪い女やな」
「ご冗談が飛躍されたので、おかげさまで冷静さを取り戻しました」
「冗談とちゃうわ。こっちは本気や」
 沖田は不満げに口を尖らせながら、手のひらを左右に傾けて紙風船を器用に転がした。ようやく落ち着いて心に余裕を取り戻したはこれまでの仕返しの意味も込めて言い返す。
「最初に声掛けてきた時には紙風船をくれっておっしゃってましたよ」
「そっちが冗、談、や!!俺がほんまに紙風船なんぞ貰ってどうすんねん。こんなもんちょっとでも力入れたらすぐ潰れてまうで。ほれ、こう……」
「そういう可哀想な事はやめて下さい」
 沖田が紙風船を握り込むような素振りを見せると、がすかさず両手を伸ばしてその指先をぐぐぐと抑え込む。彼は彼女の頭を見下ろしながら「あー分かった分かった」と、適当な相槌を打っていた。


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 沖田との件があって数日後、はいつものように屯所を訪れていた。仕事も終えてそろそろ引き上げようかとしゃがみながら薬箱を片付けていると、先程取引を終えたばかりの藤堂が彼女の頭の上で不思議そうな声を上げた。
「あれ、今日はこれだけですか」
「……?すみません、何か足りないものがありましたか」
 が手を止めて立ち上がると、藤堂は人懐こい笑みを浮かべた。どこか含みのあるそれに、はつい身構える。
「俺も紙風船貰えるのかなーと思って。残念だな、あれは沖田さんだけかぁ」
「!どうして」
「えーっと、何日前でしたかね……。随分と似合わないものを持って戻ってきたものだから、どうしたのか聞いてみたんですよ。最初はあしらわれちゃったんですけど、しつこく聞いたら狐さんから貰ったものだって言うから」
 藤堂の言葉には驚いた。
 それは彼の元にまで話が伝わってしまったから──では無い。
 あの後いかにも邪魔臭そうにして紙風船を受け取った沖田が、それを屯所まで持ち帰っていた事だ。道中どこか適当な場所にでも忘れるか捨てるかしてしまっただろうと思っていたのに一体何の気まぐれがあったのだろう。
 反応の無いに藤堂は軽く首を傾げた。
「どうかしました?……あ、今の事なら冗談ですよ。ああいうのって普通は子供にだけあげるものなんでしょう?」
「あ……え、ええ。そうなんです」
「また、いつもの事ながら随分大きな子供に絡まれてしまって大変でしたね。今度土方さんあたりに上申してみたらどうですか。沖田さん分の別手当が貰えるかも」
 声を潜めて言ってくる藤堂の冗談なのか本気なのかよく分からぬ口振りには思わず小さく笑って、礼を告げると共に今度こそ屯所を後にした。

 門をくぐって下り始めた石段で、逆方向から来る相手の姿に気が付いたのはの方が先だった。
 立ち止まり端に避けたの気配を感じてか、石段を上ってきた沖田も顔を上げた。彼は彼女の姿を認めると鼻の頭に皺を寄せながら目を薄くしたが、また顔を下げ、そのままゆっくりと足を進める。
 やがてと同じ段に足を掛けた沖田は立ち止まった。が顔を上げると、彼女をじろりと睨むようにして見下ろす彼の影が掛かる。
「ほんま……、敢えてワシのいない時を見計らって来てんとちゃうかあ?」
「沖田さんがいらっしゃらない時の方が多いんですよ」
「いいやそっちの間が悪い。っと、そや、そう言えば一ちゃんが探しとったで。今は多分常宿の方におるわ」
「斎藤さんが?」
 が聞き返すと、沖田は口角を上げた。
「素性の怪しいもん同士、悪巧みの相談でもしたいんやろ。はよ行ったったらええ」
 ほな、と軽く片手を上げて再び足を踏み出した沖田の背に、は少し考えてから声を掛けた。
「沖田さん。あの紙風船、持っていてくれてたんですか」
「…………あ?」
 先程とは逆の位置関係で──沖田は石段の数段上で立ち止まり、自身の肩越しにの方を振り返った。
 沖田からすぐの返答は無かった。彼はしばらく口を開けたままの方を探るように見ていたが、
「んなわけあるか」
 そして、馬鹿馬鹿しいとばかりに強く息を吐いた。
「言うたやろ。あんなもんは狐ちゃんと別れた後にすーぐ潰してどっかやってもうた」
「そう、でしたか。……宜しければ、今日も新しいものを持っていますよ」
「はっ、いらんいらん。代わりの接吻する気になったらそん時は喜んで貰うたるわ」
 沖田は鬱陶しそうに手を振りながら前を向き、屯所の中へと消えて行った。そんな彼の背を見送ってから、もくるりと踵を返して再び石段を下る。
 自然と綻んでくる口元をどうにか冷静にと堪えながら。心なしか、その足取りは来た時よりも軽かった。