屯所に続く石段に足を掛けると、永倉は背後を歩く沖田に前を向いたままで声を掛けた。
「斎藤と狐、よう話しとるらしいな」
「あぁ?」
 それがどうしたと言わんばかりに沖田が応じると、永倉は短い溜息を吐いて立ち止まり軽く背後を振り向いた。
「斎藤の素性について隊士が色々噂してる事くらい、お前かて知っとるやろ」
「ヒヒ……ま、一ちゃんは見るからに訳ありやからな」
「余計な火種を生みとうないなら狐の方も少し慎重に行動せなあかんっちゅう事や」
 真剣な永倉の言葉を聞くと沖田は片眉を上げた。だが彼はすぐにハッと息を吐き、永倉の隣を追い越して石段を登って行く。
「んなもん、言いたい奴には好きに言わせといたらええ。新選組で斬り合いする口実が出来てワシは大歓迎や」
「阿呆。庇うにしてもそんなやり方やとあいつの立場がますます悪くなるだけや」
「チッ……、相変わらず口やかましいやっちゃの〜。大体、その噂立てとる奴らも男と女が少し話をしとったくらい細か、」
 石段を昇りきった所で急に沖田の言葉と歩みが止まった。不思議に思った永倉もその後に続くと、沖田の隣に並んで彼の視線の先を追う。
「噂をすればやな」
 門の奥、正面で顔を突き合わせていたのは先程話題にしていたばかりの斎藤とであった。
 はいつもの大きな薬箱を背負っているので仕事に来たのだろう。身長差のある斎藤を見上げながら、何か言葉を交わしていた。
 この場合却って堂々と隠す様子も無い事からか、周りの隊士の関心は薄い。永倉は感心したように「ほう……」と息を吐いた。
「総司、これはお前が言うとったように俺らがあまり心配する話とちゃうかもな」
「あんなもんは……あかんに決まっとるやろうが……!!」
「は?」
 永倉が隣に顔を向けた時には、沖田は肩を怒らせながらずかずかと早足で歩き出していた。


 + +


 実際に斎藤と顔を合わせたのはサイの風呂屋だけなので知らぬ振りも出来たのだが、はその方がやり易くなるだろうと斎藤には自ら名乗りを済ませていた。
 知り合ってまだ日は浅く互いに手の内を全て明かした訳ではないが、にとって斎藤は不思議と信頼の置ける男であった。
 こうしてそう言葉数の多くはない会話を、勿論今は新選組の隊長と馴染みの薬師としての立場で交わしながらも、普段気を張っている事の多いは安堵感のようなものを感じていた。
「三番隊のお仕事を引き継いだなら、斎藤さんも隊士の皆さんも怪我は多くなるでしょうね」
「ああ。その時はまた頼む」
 頷いて短く応える斎藤に対しは無性に、もっと彼の役に立てる事はないだろうかと胸を疼かせた。
 自身もどうしてそんな気持ちになるか不思議であったが、そもそも斎藤があまり周りに求める事をしないからか、または自分と近い彼の境遇に対して無意識に何か感じるような所があるのかもしれない。
 僅かに俯き、指の先を擦り合わせながら、は更に言葉を続けた。
「あの、本当に、何か必要なものがあればおっしゃっていただけたら……」
「ん?」
 するとその時、斎藤との方に向かって怒涛の勢いで駆け寄る人物がいた。
「とおぉーーーーう!!!」
「!?」
 突然頭上からかぶさった影に驚いたが身を引くと、勢い良く飛び込んできた沖田が斎藤との間にずさっと音を立てて着地した。
 同じく一歩後ろに下がった斎藤は、身体を起こした沖田に対し怪訝そうな表情を向ける。
「……何してんだ、あんた?」
「すっとぼけんなや!!!」
 顔を合わせるなり斎藤を睨んだ沖田は怒声を上げる。彼はを背にしながら斎藤との距離を詰めて、どんっと肩をぶつけた。
「どないな手ぇ使ったんや?え?この女が誰のもんなんかは知っての事なんやろうな」
「ちょっと待て。だから何の話だ」
「総司!」
 遅れてその場に現れた永倉が沖田の肩を掴んで引き離した。それでもまだ斎藤を睨み付けながら舌打ちする沖田に、永倉は呆れた声を出す。
「急に走り出したと思ったら何しとるんやお前は。斎藤と狐は話しとっただけやろ」
「新八ちゃん、どこ見とんねん!?」
 沖田は永倉の手を強く振り払って、先程から呆然とした様子のの事を指差した。
「どこからどう見ても!明らかに!女の顔させとったやろが!!」
「どこからどう見ても……?」
「女の、“顔”だと……?」
 怪訝そうに呟いた永倉と斎藤は、揃っての方へと顔を向ける。無論彼女が付けているのはどこからどう見ても──いつもの狐面である。
 二人からの視線を受けたはいたたまれない様子で俯くと、気を取り直すように小さく息を吸ってから沖田に向かって再び顔を上げた。
「斎藤さんとは普通のお話をさせてもらっていただけです。おかしな勘違いをしないで下さい」
「ほぉ〜普通の話ってどんなんや?それにしては随分と色気出しとったように見えたがの」
「色気など出してはいません!」
 沖田に言い返すに、斎藤は僅かに目を見張った。
 あまり人前で感情を露わにする性格ではないと思っていたが、こうして年頃の町娘のように分かりやすくむきになる事もあるのかと驚かされたのだ。
 斎藤も沖田相手には普段の調子を崩されるという事が度々あったがどうやら彼女も同じ苦労をしているらしい。
「(にしても、さすがに“これ”が相手じゃ手こずってるみたいだな……)」
 沖田を見上げて抗議を続けていたはふと横顔に強い視線を感じた。すると視線の主であった斎藤は彼女に対して一度しっかりと頷き、今度は沖田の方へと向き直る。
「沖田」
「あ?」
 眉間に皺を寄せて応じた沖田を見てはまた揉め事になるのではと心配した。だが次の瞬間斎藤の口から飛び出した言葉はそんな事よりも更に彼女自身を焦らせる事となる。
「こいつが本当にあんたのもんってやつなのかは知らねえ……が、それなりに深い間柄なのは確かなようだ。馴染みの女に対する俺の態度が、あんたの気を悪くさせたなら悪かったな」
 斎藤からの謝罪に驚いて動きを止めたのはと永倉である。
一方僅かに目を見開いた沖田は、その表情にみるみる喜色をあらわにしていった。
「なんや、さすが一ちゃんは見る目があるやないか〜〜!ええで、特別に許したる。狐ちゃんを可愛がりたくなる気持ちはワシもよう分かるからなぁ」
「待って下さ、……!」
 慌てて訂正しようとしたは、斎藤から視線で制されてはっとした。
 確かにここでまた話をややこしくさせて揉めてしまうより、今は沖田の機嫌を優先すべきなのかもしれない。斎藤と同じくも余計な波風を立ててしまう事は本意ではなかった。
「(斎藤さんが新選組で動きにくくなるような真似はしたくはない……けど)」
 困ったように沖田の方を見たは、そこで羽織の下に覗く彼の素肌、脇腹の部分に薄っすらと残された一筋の赤い線に気が付いた。
「沖田さん、それは」
「ん?あぁー、これな。さっき町でおもろそうな騒ぎに混ざった時にちょろ〜っと」
「触ってはいけません」
 指摘された箇所を何気無く掻いた沖田の手首を話途中でぱしっと取り上げて、はそのまま屯所の奥へと彼を引いて歩き出した。
 急な事に、沖田の方は思わず体勢を崩し前のめりによろける。
「っお!?こら何すんねん!」
「沖田さんは人目がある場所で手当てすると嫌がるじゃないですか」
「手当てぇ〜〜?阿保か、こんなもんでいちいち手当てなんぞいらんわ!」
「いります」
 言い合いしながら遠ざかって行く沖田との二人を見送りながら、斎藤はぽつりと口を開く。
「案外気が強い女だな」
「そうでなきゃ、総司や俺らみたいに血の気の多い連中の相手は務まらんやろ」
 最早慣れてしまったというような口振りの永倉に、斎藤は確かにと納得させられた。


 + +


 隊長格に与えられている私室前の縁側で、沖田は立てた片肘を枕にし横向きで寝そべっていた。
 に半ば無理やり消毒された傷跡が何となく落ち着かず無意識に手を伸ばすも、その時彼の前で縁側に腰掛けて片付けをしていた彼女が動きを止め背後を気にした為、舌打ちと共に手を離した。
「あー、触らん触らん。けどなぁ狐ちゃん、これくらいの傷で騒いどったらきり無いで」
「小さな傷でも何があるかは分からないですよ。お身体は大事になさって下さいね」
 そう言って、は再び前を向くと片付けを始めた。沖田は彼女の背をしばらくぼんやりとした眼差しで眺めてから、おもむろに口角を上げる。
「狐ちゃんはほんまにワシの事が好っきやなぁ〜〜?ここまで献身的にされとったら、実際の所は生かしておきたいんかどうしたいんか分からんようなるわ」
 またこの人は。反応し辛い事を言う。
 は背後を振り向かないようにして、改めて顔を上げ庭内に視線を走らせた。
 すると見渡すように動かした視界の端に五番隊隊長の武田と彼の部下らしき隊士二人の姿を見つけた。距離は離れているので会話は聞こえないが、武田と向かい合う隊士らは肩を窄め、表情には怯えの色が浮かんでいる。
 こうして接触を始めてから、は新選組内の出来事であればどんな些細な事でも気にするようになっていた。ちょうど話題を逸らすのにも良いと思い、は背後の沖田に問い掛ける。
「五番隊の皆さんどうかしたんでしょうか」
「ん?」
 から言われて武田らの方に視線を向けた沖田は、その光景を見てすぐ得心が行ったのか薄い笑みを浮かべ頷く。
「あの様子じゃ、今から五番隊隊長さんの愛の篭った指導とやらでも受けさせられるんとちゃうか」
「愛の……」
 やけに愉しげな沖田に聞き返そうになって、しかしすぐ思い当たる事があったは言葉を止めた。
 武田の男色と隊士に対する悪癖は有名な話である。も話としては聞いていたが、こうして実際目の当たりにするとやはり反応に困るものだった。
 折角話題を変えたはずがまた言葉に詰まってしまったの背を目を細めて眺めながら、沖田はにやにやと意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「どや、狐ちゃんにもワシから熱〜い愛の篭った指導したろか?」
「……遠慮しておきます」
 先程までの疲労がどっと一気に襲ってきたようで。主にその原因である沖田からの言葉に、は力無く肩を落として答えた。