角を曲がって梅小路町南の開けた路地に出ると夕暮れの光が一層眩しく射し込んできた。は思わず一瞬だけ足を止めて面の中で瞳を眇める。
 燃えるような茜色がこの日は妙に彼女の気持ちを急かしてきた。再び足を動かし、道の端に項垂れる物乞いの前を通り過ぎる。
「……、お帰りですか……?」
 足首に、ぬるりと蛇が巻き付いたかのような冷たい感覚がを引き止めた。声の主の方を振り返ると先程の物乞いがゆっくりと顔を上げた。
 その顔はもよく見覚えのある顔だった。新選組監察の山崎は薄汚い着物に身を包んだまま、彼女に向かって不気味な薄ら笑いを浮かべた。
「ふふ……いえね……日がな一日こうしていると、私もそろそろ誰かと言葉を交わしたくなる頃合いでして」
 そう語る山崎の生々しい傷跡が縦に残る潰れた左目、今はほとんど光を宿していない濁った蜻蛉玉のようなそれがの方に虚ろに向けられていた。
「そこにちょうど知った顔が通ったものですから。ひょっとして、驚かせてしまいましたか」
「いえ……」
「しかしお忙しいでしょう。引き止めてしまい申し訳ありませんでした」
「…………」
 は少し考えてから、山崎に軽く頭を下げて踵を返した。
「私も貴女とは、是非いつかゆっくりとお話がしてみたいんですよ……ねえ?“狐面の薬師”さん……」
 背後から掛けられたその言葉に、聞こえなかった振りをして──は振り向かずに進んだ。本心では一刻も早くこの場を離れたかったが堪え、なるべくいつも通りの速さで歩く。
 彼女の姿が路地から無くなるまで、その背には山崎からの視線がじっとりと張り付けられていたのだ。


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 後日がまた薬箱を背負って屯所を訪れると、そこに待機する隊士の姿は少なく、多くが出払っていた。
 理由はなんとなくにも察しが付いていた。
 昨晩、隊士の数人が祇園にある店を貸し切って酒を飲んでいたらしい。しかし彼らが散々大騒ぎし、気分が良くなってうとうととし始めた所で、その店の裏手から火が出た。
 その後の消火が早く単なる小火騒ぎ程度で済んだものの、まるで隊士が眠りに就く所を見計らったかのようであった為、浪士が火を放ったのではとその炙り出しが始まっていたのだ。おかげで京の町の人々は自分が巻き込まれやしないかとびくびくしている。
「(確かに火が付けられたのは間違いないけど、でも誰が……)」
「──おい、君」
 思案しながら荷を解いていたに縁側から声を掛けたのは、土方であった。
 常時不在の近藤に代わり、事実この新選組を取り仕切っているのが副長の彼である。が今のように薬師として新選組の敷居を跨げるようになるまでに最も苦労した事が、何より、彼からの許可を得る事であった。
 が見上げると、土方は踵を返し、顎で己の私室の方向を指し示した。
「部屋まで来たまえ。少し、君に聞きたい事がある」
 その言葉にの身体は強張った。と言うのも、土方がと話すのは基本的にそうしなければならない必要性があるという時のみで、勿論その内容のほとんどは新選組に関するものだったからである。
 嫌な予感は当たった。
 部屋に入ったが差し向かいに腰を降ろすなり彼は静かに口を開く。
「早速で悪いが……昨晩、君はどこにいた」
 はすぐ、土方の問いは火事の件に関連した事だと思った。
 なぜ自分までもと内心動揺はしたものの、あまり察しが良いのも不自然であると思い、敢えて一度とぼけた返しをする。
「昨晩……?それは商売を終えた後の話で良いのでしょうか」
「ああ、そうだ」
「……昨日の商売は夕暮れまで洛外辺りでやっておりまして、その後は伏見のうどん屋で夕餉を」
「その後は」
「家に戻って翌日の準備をしてから床に就きましたが」
 土方は整った双眸をすっと薄くし、を見据えた。
「その話を証明出来る者はいるかね」
「家に戻ってからは一人ですので、誰もおりません」
「そうだろうな」
 の答えに対し、土方は腕組みをしながらしばらく考え込むように下を向いてしまった。
 からすると生きた心地のしないような息苦しい沈黙だ。やがて考えが決まったのか、土方は顔を上げた。
「時間を取らせた。下がってもらって構わない」
「……、?」
 思わず拍子抜けしたの雰囲気を感じ取って、土方は「ふむ……」と唸って先を続けた。
「当然、何の事か気にはなるか。なに、昨晩火事があった店の近くで狐の面をかぶった者を見たという報告があったのでね。それで、まさか君が火を付けたのではないかと念の為に確認をさせてもらっただけだ」
 隠す気さえない率直な土方の物言いに、やはりそうかとの心臓が早くなった。
 しかし、決して潔白な身の上では無いとしても今回の火事の件については正真正銘全くの無関係である。否定する言葉にも思わず力が入った。
「そんな、誤解です。申し上げた通り、昨晩私はずっと伏見の方におりました」
 すると土方の眉が僅かに上がった。彼は羽織の袖に入れた腕を組み直す。
「……信じよう。取り繕った様子も無かった。それに本当の所、私は始めから君の事はあまり疑っていない」
「それは……?」
「燃えやすいようにという事だろうが、建物の一部があらかじめ壊されていたのでね。その細腕では難しいだろう」
 緊張で強張っていたの身体から徐々に力が抜けていった。
 土方はそんな彼女の様子を表情一つ変えずに黙って見ていた。しかし、しばらくしてふっと息を吐いて僅かに口元を緩めると、その珍しい表情に驚く彼女に向かって続けた。
「こちらが昨晩の行動について尋ねた時、君はどうも火事の件は知らない様子だったが、その場所が祇園であったという事はよく知っていたようだな」
 ぴくっとの肩が動いた。構わずに土方は膝に手を置いて立ち上がる。
「私は君を招き入れた自分の判断が間違っていたとは思っていない。腕の良い薬師の存在が、我々新選組にとって有益なものである事は間違いないのだから」
 土方は畳を静かに踏み鳴らしながらの隣を過ぎて、私室の障子に手を掛けた。
 そしてそれをゆっくりと開き──、俯く彼女の姿を背後からひどく冷酷な瞳で見下ろした。
「さあ行きたまえ。そして……これからもどうか上手くやるように。君自身と、我々新選組の為にも」
 は改めて思い知った。自分はこの新選組という組織下においては、あくまで“生かされている”だけなのだ。
 だが、今は立ち上がらなければ。は強く奥歯を噛み締めてすっかり硬直してしまった脚に力を込めた。


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 暗く閉ざされた土蔵の中で松明の火がばちばちと音を立てて燃えている。
 男にとってはもう何度となく繰り返した意識の覚醒だった。柱に縛り付けられた身体の激しい痛みがここが残酷な現実であると告げている。
 虚ろな視界に別の男の白い足が映った。ぶつぶつと呟くような独り言が頭上から降ってくる。
「折角お膳立てしてやったのに土方も使えない……、あんな素性の怪しい手合いは、やろうと思えばどうとでもこじつけられるだろうに……」
 募る苛立ちを示すように、男の目の前を往復する足の動きは忙しなくなっていった。
「それに、沖田が鼻を利かせていやがるのも面倒だ。あいつはやっぱり邪魔だよなぁ……、どうにかして上手く目を盗むか、いっそ」
 突然、呟きと共に足の動きがぴたと止まった。男が恐る恐る顔を上げると、それを歪んだ笑みが出迎える。
「よお。お目覚めか、“裏切り者”」
「ひっ、だ……だから違う!!何度も言うが火をつけたのは俺じゃ無い!隊の連中が店にいた事だって俺は知らなかったんだ、頼む、信じてくれ……!!」
 声を枯らした男からの悲痛な訴えに対し、相手は面白くてたまらないといったように顔を片手で覆って肩を揺らした。
「分かった分かった……お前が火を付けてないって事は、他でも無い俺がよぉく知ってるよ。何にもしてやいないのにこんな所に閉じ込められて、可哀想になぁ……」
「それじゃあ」
「だが、そうでなくちゃ困る。……分かるだろ?」
 ほんの一瞬希望の光を宿した男の瞳は自身の胸元に突き付けられた刃先の冷たさでまた闇の底へと引き戻された。ほんの僅かに押し込められたそこから赤い雫の珠が生まれ、つうっと肌を伝う。
「さて……その声もそろそろ聞き飽きて来たし……、ここらが潮時か」
 信じられない嘘だ止めてくれ──もう声さえ出せなくなってしまった男は、どうにか訴えるように相手の事を見上げた。
 だが、“濁った蜻蛉玉”には、とうに男の姿など映ってはいなかった。
 それは虚空へと見上げるように向けられながら、


「ああ、早くこうして……あの女も鳴かせてやりてえなぁ……」
 陶酔したような言葉と共に刃先は男の身体に深く、深く、埋め込まれていった。