スカイファイナンス事務所前に立って数回扉を叩くも、一切の反応は無かった。
 しかし中には確実に人の気配がある。花であればすぐ応対してくれるだろうから恐らくは残るもう一人、こちらの社長の気配が。
 は手を下げると、今度は顔を扉に寄せて小さな声で呼び掛けた。
「秋山さん、いますか?」
 すると中からはバサッと雑誌が床に散らばったような騒がしい音がして、気配がどたどたと扉の前に近付いてくる。
 そうすると先程までの無視など無かったかのように。秋山は笑顔で扉を開けて、を出迎えた。
「やあ、情報屋さんかあ!この時間には、久しぶり」
 この少し困ったような人の良い笑顔を見ると何でも許してしまいたくなるというのが、秋山という男の強みだ。
 それは女に限らず男に限らず。恐らく本人も自覚しているであろう所が厄介であるが。
「花ちゃんにいつものお裾分けに来たんですけど集金中ですか?」
「あー、そうか。花ちゃんはね、えー……その、そろそろ戻ってくる筈だから。良かったら中に入って待ってて」
 ニコと笑んで扉を開き促されたは、事務所に足を踏み入れ動揺した。
 そこには数日前に見た綺麗に整頓された事務所の姿など無く、ただ自堕落な男の住み処と化していたからだ。


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 積み重なった雑誌を退かした狭いスペースに、秋山は冷蔵庫から出した二人分の缶コーヒーを並べた。
 何か言いたげに部屋を見渡しているに気まずそうにしながら、自身も向かいのソファーに腰掛けた。
「えっ、と。実は一昨日出勤した時に俺が二日酔いで来ちゃいまして……それでまた、花ちゃんに少し呆れられちゃったというかですね」
「それって、ストライキですか?」
「あ、そう、ストライキ!労働者の権利だもんな、見捨てられたって言われ方よりは断然良い」
 やけに呑気な秋山にが呆れていると、さすがに彼にも思い当たる所があったようで苦笑しながら段々と肩を落としていく。
「だから、今度も正直いつ戻ってきてくれるか分からないんだ。韓来あたりのメニューをあらかた食べ尽くしてきたら、帰ってきてくれるかもしれないけど」
「そうなんですか……」
「今日もしばらく脈が無いようだったら荷物は俺が預かるよ。それまではゆっくりしてって」
 秋山が缶コーヒーの蓋を開けたのに倣い、も取り敢えず蓋を開けた。見れば彼がこちらに目を合わせ缶を差し出してきていたので、カチンと合わせる。
「はい、乾杯。……悪いね、味気無くて」
「私、缶コーヒーも美味しくて好きですよ」
「情報屋さんはいい子だねぇ。今そんな優しい事言われると泣けてきちゃうな」
 普通なら気障に聞こえるような言い回しも、秋山の口から出されるとごく自然に感じられるから不思議だ。
 彼はコーヒーを口にし、ソファーの背にふうと片腕を乗せながらまた話し出す。
「そう言えばさ、花ちゃんと情報屋さんはどうして知り合いになったんだっけ?」
「私がレイプされそうになってた時に、通り掛かった花ちゃんが大声を出して助けてくれたんですよ」
「レイプ……!?」
 秋山がぎょっと驚くと、は首を傾げる。
「引っ掛かる所はそっちですか?」
「いや!どう考えてもそっちの話の方が物騒でしょう」
「あっ、されてはいないですよ。でも実は、最近よく分からなくて」
 が面の下で溜め息を吐いた声がハアと響く。
「このお面をして歩いてると“逆に”興味を持ってくる男の人がいるみたいなんです。特にここらへんって、そういう変わった人が多い気がするっていうか」
「そ、そうだなぁ……確かに狐のお面をした情報屋さんも最近神室町の名物に……ってのはアレだけど、隠されたものを見てみたいっていうのは人間の好奇心……いや、探求心というか」
「でも狐ですよ。下がどんな顔しているか分からないんですよ?普通、性欲の対象になりますか?」
「ん〜……」
 切実な悩みなのか、ずいっと身を乗り出して聞いてくるに、秋山は苦笑しながら頬を掻く。
「ま、ほら。人間、顔じゃないからさ。情報屋さんはこう……すっとして!な?スタイルも良いし」
「顔じゃなくて、体なんだ……」
「あっ、いや。そういう意味じゃ……ない、んだけど」
 フォローするつもりが、暗い影を背負って俯くにどうやら不信感を抱かせてしまったらしい秋山は、肩を竦め短く息を吐いた。
「本当に、大丈夫だったの?」
「?あ、その時は花ちゃんの声で近くにいた警察官が」
「そうじゃなくて。情報屋さんも怖かっただろ、女の子なんだから」
 急に真面目な顔で言われ、は固まった。
 まさかそんな事言われると思っていなかったものだから、一瞬何と返せば良いのか分からず、「えっと」と迷いながら言葉を紡ぐ。
「……どうだったんだろう」
「君も、プライドを持ってやってる仕事だろうから俺が口を出せる事じゃないけど。だからと言って、傷付けられる事に慣れる必要は無いんだ」
「…………」
「なんて……余計な事かもしれないけどね。一応君より少しだけ人生経験を長く積んでいる男の話だと思って、聞き流しておいてくれるか」
「……はい。ありがとうございます」
 が素直に頭を下げると、秋山は優しげな笑みを浮かべて頷いた。


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「あれ。花ちゃんからメールが来てました」
「え、本当!?」
 がそろそろ帰ろうとした時、ふと携帯を見て呟いた。彼女から預かった花へのお裾分けを冷蔵庫に仕舞っていた秋山は、ガタッと音を立てながら慌てて振り返る。
 は画面を指でスクロールさせながら、メールの文面を読み進める。
「どら焼が傷むといけないので、今から来てくれるそうですよ」
「ああ、この和菓子って書いてあったのはどら焼だったんだ……いや良かった、花ちゃんがいてくれないとうちは回らないから」
「あとは秋山さんの反省具合によるみたいですね。部屋の片付けはしておいた方が良いかもしれません」
「あぁー……片付けね、片付け……」
 秋山は古い雑誌やスポーツ新聞、まるで山のようになったゴミ箱に目をやると、頭をがしがしとかき混ぜながらを見た。
「情報屋さん……これから忙しい?」
「ごめんなさい、今から約束があるんです。花ちゃんにはよろしく伝えて下さい」
「や、良いんだよ。商売繁盛で大変結構だ。……さて、花ちゃんが来るまでに半分は片付くかな」
 弱りきった顔で言う秋山を前に、もついクスクスと笑ってしまった。
 が、秋山が僅かに目を開いてこちらを見ているのに気が付き、慌てて笑うのを止めて背筋を伸ばす。
「ご、ごめんなさい。つい」
「……はは、情報屋さんに声を掛ける男にはひょっとしてそのお面の下が透けて見えてるんじゃないか?」
「えっ」
 焦ったが思わず面にぺたりと両手をやると秋山は口角を上げ、彼女の顔に照準を定めるようにゆっくり人差し指を上げていく。
 そして、ピタリと止めた。
「俺には見えるけどね。可愛い可愛い、お嬢さん?」
 それから一瞬の静寂──向かい合う互いの心の内を探るような間を置いて、の方が口を開いた。
「秋山さんより年上だったりして」
「いいね!それはそれで、また楽しいんじゃない?」
 足元に崩れたゴミ山の中で秋山は明るく、本当に愉しげに笑った。