背後の窓から射し込む陽が茜色に染まり始めた頃。霊幻は鼻と唇の間にボールペンを挟みながら、椅子の背をキイと軋ませた。
「……今日は閉めるか」
 ペンを手に取って、ポツリと口にする。
 すると同じくそれぞれ思い思いの時間を過ごしていた芹沢とトメにエクボ、事務所に顔を出していたがその声に反応した。
 芹沢は腕時計を確認すると、霊幻に顔を向けた。
「でもまだ少し早いみたいですが」
「どうせ誰も来ねえよ。俺くらいになってくるとこういうのは肌感で分かるんだ」
「は、肌感!すごい、プロっぽいなあ……!」
「あ。それじゃあ霊幻さん、どこかご飯連れてって下さいよ」
「ええ」
 露骨に嫌そうな顔をした霊幻に、提案者のトメがさっと素早く耳打ちに行く。
「まあまあ、私と芹沢さんはいいところで退席しますから。うまい理由を付けてさんの事も誘えるんだから、悪い話じゃないでしょう?」
「ちゃっかりしてるな……、一体どこでそういう交渉術を覚えてくるんだ……」
 一番身近で“そういう交渉術”の手本になっている霊幻は、自身のスマホを気にしているの様子をチラと見ると、どこか切り替えたように声を出した。
「それじゃあ、ラーメンでも行くか?」
「ええ……、女子が二人いるのにまたラーメン」
「まあそう言うな。奮発してプラス200円のセットメニューまでなら出してやる」
 霊幻が2本指を立ててキメ顔で言い放ったその時。のスマホが彼女の手の中で短く震えた。
 自然と周囲の注目が集まった中、画面を見てハッとした表情を見せたは慌てた様子で帰り支度を始めた。
「ごめんなさい、今日は私用事が出来たので帰りますね」
「あ……そう?あー……、それじゃあ気を付けて帰れよ」
「はい、またよろしくお願いします」
 は霊幻と、他の面々にも別れを告げると、やや急ぎ足で部屋を後にした。
 カチャンと事務所の扉が閉じられた音がして。微妙な空気感が場を支配する中、エクボが腕組みし、同様のポーズを取ったトメの隣にふよふよとやってきて並んだ。
「ありゃ男かな」
「霊幻さんドンマイ」
「ドンマイ言うな!」
 唯一芹沢だけは事情が分からず、戸惑ったように疑問符を浮かべていた。


 + +


 事務所を出てすぐ、待ち合わせ場所の喫茶店前に着いたが辺りを見渡すと、その背後から影が掛かった。
「こっちだ」
 振り向いたの視線の先、桜威が眼鏡のブリッジを指先で持ち上げた。
 その姿は爪にいた頃と同じかっちりとした黒のスーツ姿で、違いといえば帯刀していない事くらいである。一見すると不機嫌そうなサラリーマン──、しかしコンビニ勤務時とは違って明らかに堅気とは異なる雰囲気を醸し出す桜威は、彼が見下ろすのみならず、行き交う周囲の人々にも一定の緊張感をもたらしていた。
「今日は確かアルバイトがあるって」
「シフトを誇山と交換した。俺が入る時間までに、今日こそは終わらせるぞ」
 ──桜威が“それ”を目撃したのは、数日前の事だった。
 コンビニの店外でゴミの収集をしていると、前の道を慌てた様子で走り去っていく若い男と、大分後ろから男を追ってくる聖ハイソ女学園の女子生徒の姿を見掛けた。すると、よりにもよって彼の目の前まで来た生徒はふっと糸が切れたようにしゃがみ込んで、そのままその場で泣き出してしまったのだ。
 そうなるとさすがに無視は出来ず、桜威は作業の手を止めて生徒に声を掛けようと近付いた──。


「あれは鋭利な刃物で切りつけたような跡だった。もしも刃先が制服だけでなく体まで届いていたら、軽い怪我では済まなかっただろうな」
 そうして桜威が泣き続ける生徒の扱いに戸惑っていた時、いつものようにコンビニを訪れたのがだ。
 学園の卒業生であるの姿を見てようやく落ち着いた生徒から話を聞いて警察に通報する事が出来たのだが、監視カメラには男の顔が映っていなかった事、生徒自身も直接切り付けられた所は見ておらず被害届を出すのに躊躇した事から、周辺のパトロール強化に留まった。
 しかし警察が帰った後に更に聞くと、実はここ最近通学路で誰かに後を付けられている気がすると話す生徒が他にもいたらしいのだ。そして──そんな時は決まって、足元から迫り上がるような寒気を感じたという。
 改めて事の経緯を振り返って、は首を捻った。
「寒気というのは何なんでしょうね」
「その話は正直怪しいところだ。共感能力が高いと特に不安や恐怖なんてものは伝わりやすい。あの位の年頃で集団生活をしていると、最初に話した奴の例が伝染してしまっているだけとも考えられるが……」
 桜威はそうしてと話す間も、すれ違う人々の顔に注意深く視線を走らせている。
 だが繁華街の方ではそれらしい人物は見あたらず、彼らはそのまま住宅街の方へと足を伸ばした。主に生徒達からの情報があった界隈だったが、何の成果も得られなかったここ数日と同様のパターンをなぞるかのようにそのコースも終わりへと近付く。桜威は一度足を止めて、人気の少なくなった道を見渡した。
「簡単には見つからないか」
 そう呟いて、段々と暮れてきた空を見上げる。
 すると、道の先から穏やかそうな老紳士とハッハッと息を弾ませる柴犬がやってきた。
 リードの先で主人を先導する犬は主人の事を気遣ってか、或いは長い時間を共にした老犬であるゆえか、実にゆっくりとした速度で彼らの脇を過ぎていき、やがてその姿は曲がり角に消えていった。
「毎日決まった時間に散歩してるのかな。よく会いますよね」
 の声に反応し再び視線を戻した桜威の眼鏡に、彼女の姿が反射する。その姿は、先程過ぎていった犬の姿とどこか重なった。
「…………ポメラニアン」
「ポメラニアン?柴犬じゃなかったですか?」
 からの指摘に桜威はハッと我に返るような表情を見せると、「いや」とだけ短く応えて彼女から顔を背けた。
 そこで若干気まずい雰囲気が漂うと、は何か悪い事でもしてしまったのかと、話題を探しつつ口を開く。
「あの、本当に今回は……後輩達の為にありがとうございます。私も何か出来る事は無いかと思っていたので、あの時、桜威さんが先に言い出してくれて助かりました」
 桜威が犯人の顔なら覚えていると声を上げた事から、も彼への同行を申し出たという経緯があったのだ。
 しかし桜威はそのの言葉に対し、怪訝そうに眉を寄せた。
「俺は自分からすすんで言い出した覚えは無い。事の一部しか目撃していない以上、あれが単なる痴話喧嘩で、切り付けられた云々は狂言って線も充分に考えられるからな」
「それならどうしてわざわざ」
「俺が黙っていたとしても、迂闊に行動しそうな奴があの場にいたからだ」
 そう話した次の瞬間。桜威の姿がの視界から消えた。驚いて目を開いたは、背後から聞こえてきた声に反応し咄嗟にそちらを振り返る。
 距離にして数メートル先、見知らぬ男が桜威に後ろ手を取られて膝で地面に押さえつけられていた。実際は当時生徒に追われていたという男の顔を見ていなかったのだが、状況から、今桜威の下にいる男がそうなのだと理解する。
 何やら怯えた声で喚いている男。しかし桜威はを牽制するように見据えながら先程の続きとばかりに口を開いた。
「いい機会だから話しておく。お前は、俺達に誘拐された一件で心にひずみを抱えている」
「ひ、ひずみ?」
「そもそも、こうして元誘拐犯の俺と普通に接している事自体がおかしい……。そちらが何と言おうと俺は今後この社会に迎合していく為にお前への借りを返し尽くして、それを真っ当な人生への足掛かりにさせてもらう」
 桜威の気迫のこもった言葉に、はその場から動く事が出来なかった。
 にとっては彼からそのような目で見られていたというのもそうだが、まず今回の捜索がの希望を汲んでのものであったという事が驚きだった。つまり構図としては、桜威にが同行していたのではなく、に桜威が同行していたという事だ。
 彼らが言葉を交わす間も、桜威の下になっている男はどうにか抜け出そうともがき、せめて顔だけをと必死に持ち上げる。
「あなた誘拐犯なんですかっ!?もしかして僕の事も誘拐するつもりで」
「そういうテメェはチカン兼、変質者兼、通り魔だろうが」
「な、なんですかその不名誉過ぎる言い掛か、いたたた」
「とぼけるな。数日前に女子高生に追い掛けられてただろ」
 桜威が男の腕をぐっと締め上げる。は少し離れた場所でスマホを手にしながら、恐る恐る彼らに声を掛けた。
「あの……、警察に連絡した方がいいですか?」
「ま、待って!確かにあの子の事を助けられなかったのは申し訳ないですけど、仕方がないじゃないですか!僕はただ“視える”ってだけで」
 男が言い掛けて息を飲んだのと同時。
 バッと顔を上げた桜威は、今回の事の全容を理解した。
!!」
 桜威がスーツの懐に入れていたエアガンに手を掛けての名を呼んだ。
 “足元から迫り上がるような寒気”──。の肌がざわっと粟立つと、それは想像していた以上の容赦無い速さで彼女へと迫る。
 ────あ、どうしよう。間に、合わ、ない。

「だらっしゃああああ!!」
「きゃ!?」
 しかし身体に別の衝撃を受けたは、気が付いた時には先程までいた場所と少し離れた地面に転げ出されていた。
 目まぐるしく変わる視界に対し、不思議と身体的な痛みは襲ってこない。一体何が起きたのかと顔を上げたの瞳に、霊幻の横顔が大きく映し出された。
「ああくそっ、スーツが切れてるじゃねーか!?弁償させるぞこの野郎!!」
「先生……?」
 の呼び掛けに応える代わりに霊幻は彼女の肩を抱く手に力を入れると、すっと息を吸った。
「──エクボ!」
「へいへい」
 気の無い返事。彼らから離れた位置に浮遊していたエクボは大きく口を開くと、そこに留まっていた黒い靄をずももと吸い込んだ。それから口をもごもご動かした後、渋い表情で舌を出す。
「まず。この辺りの動物霊の集まりだな」
「ぐっ、マジかよ。相手が動物じゃスーツ代が請求出来ねえじゃねーか」
「その前に霊相手に無理だろ。まーお前は役得もあったみたいだし、それでチャラって事でいいんじゃねえの?」
 近くにきたエクボにニヤニヤと見下されて、霊幻は「は?」と間の抜けた声を出した。
 しかしすぐに自身がをしっかりと抱きかかえたままである今の状況に気が付くと、血の気が失せたかのように顔色を青くする。そしてそんな霊幻の心境を知る由もなく、の方は彼の足元を覗き込むように更にそちらに身を寄せた。
「先生、大丈夫ですか!?ああ大変、ズボンの裾が」
「へ!?い、いやこれは少し切れただけだから何も……それよりも、一旦ここは落ち着いて体制を整えてだな」
 にわかに騒がしくなり始めた彼らの一連を、遠くから驚いたような表情で見つめるのは桜威だ。
「霊幻、奴がなぜここに……」
「あわわ……、新しい悪霊だぁ……!視えてない視えてない、僕は何も視えてない……」
 既に桜威に解放された男は、祈るように手を組みながら地面に顔を伏せ続けていた。


 + +


「こちらの勘違いで巻き込んでしまって悪かった」
「い、いえ。僕もここは通り道にしているので、あなた達が解決してくれたなら助かりました」
 結局は──あの日男は女子高生から逃げていたのではなく、元々は女子高生を襲った霊を見て逃げ出したとの事だった。
 男はエクボの方を覗い見てビクッと肩を揺らすと、何かを振り払うように頭を振って、慌てたようにその場から立ち去っていった。
「さすがだな、霊幻。敢えて俺達と別働隊で動く事で、霊を誘い込んでいたという事か」
「そういやこのメガネはまだ勘違いしてるんだったな」
 桜威からの曇りなき称賛に目線を泳がせる霊幻の耳元で、エクボがこそっと囁く。
 芹沢らと食事に行こうと事務所を出た霊幻だが、反対側の道に桜威との姿を見つけ、どうにも気になって後を付けてきてしまったのだ。しかし事の経緯は聞いたものの、彼にはどうも引っ掛かる点があった。
「えーと、今回二人が協力して犯人探しをしていたという事は分かったんだが……」
 そう言って、霊幻は桜威とを改めて見比べる。すると彼が言わんとする事を察し、桜威が先回りして口を開いた。
「気になるなら、そちらからも言ってやってくれ。俺のような相手と普通に付き合っている辺り、警戒心が足りていないと」
「ん?いや、それは別にいいんじゃねえの。お前は今後に何かしようってわけじゃねーんだろ?さっきもあれだけ必死な顔して助けようとしてたんだし」
「必死な顔……」
「(おっとぉ……?このメガネに自覚が無いなら、これ以上は掘り下げない方がいいな)」
 霊幻が気になったのは、その時に桜威がを下の名前で呼んでいたり、そもそもなぜ自分には相談してこなかったのかという、桜威が考えるのとはまた違った点であった。
 藪をつついて蛇が出でてきてしまっては、元も子もないだろう。
 桜威の反応に危機回避センサーが反応した霊幻は、今度はに声を掛けた。
「その事件とやらが解決したのはいいが、その子にはどう報告するんだ。霊の仕業でしたって事で納得させられるのか?」
「はい。それは大丈夫だと思います」
 霊幻の問いに、は頷く。
「私達の学校って少し前に校内で心霊現象が多発していた事があったので、在学生の子もそういう事には理解があるんです」
「そう言えばそうだっ……い、いや、そうなんだ」
「結構大きな騒ぎだったんですよ。騒ぎに紛れて女装した変質者まで出たとかで、新聞にも」
「あー!見ろ!犬だぞ犬!ハハ、どうもここら辺は散歩コースになってるみたいだな」
 そうして再び話題を変えようとする霊幻。
 しかしさすがに苦しかったか、は目をぱちくりとさせながら「はぁ」と気の抜けたような声を出す。これはいけないと瞬時に判断した霊幻は、一歩引いた位置にいる桜威にも話題を振った。
「そ、そう言えばメガ、桜威もさっき爺さんが散歩してた犬の事見てたよな。なに、柴犬とか好きなの?」
「……犬か?」
 霊幻に声を掛けられた事でふっと再び顔を上げた桜威は、その視線をそのままの方へと向けた。
 何かを考え込むかのように、真っ直ぐ見つめられて、は若干の戸惑いを見せる。そんな彼女には構うことなく、彼はやがてぽつりと口を開いた。
「ポメラニアン……」
「へー小型犬かぁ、何か意外ー」
 危機回避センサーとやらはどこにいったのか。結局遠回りをして藪を突いただけという事にも気が付かず、霊幻はすっかり能天気な口調でそう応じたのであった。