雨が振り始めていた事に気が付いたのは、が自宅最寄りのバス停に降り立った時だった。ここまで乗ってきたバスの窓にも水滴は見られたものの、打ち付けるような感覚は無かった為、露のようなものかと思っていたのだ。
 小走りで近くの公園に移動し、東屋の下に逃げ込んだ。他に公園内に人影は無く、いつもは子供達で賑わう遊具も雨の中どこか物寂しげに佇んでいる。
「(このまま止みそうなら、待とうと思ったけど……)」
 雨足の強さはさほどでもないが、重たげな厚い雲に覆われた空は、一層暗くなったように感じられた。
 は携帯電話を出すと、迎えを頼もうかどうか逡巡する。進学してから年頃なりにある程度の自由を許されている彼女だが、こういった事をきっかけとして、またあれこれ世話を焼かれる生活に逆戻りしないとも限らないとの考えが頭を過った。
 木製のベンチに座って悩んでいると、雨音に混じり、濡れた地面を歩く音が近付いてきた。
「何をそんなに難しい顔してるんですか」
 親しげに掛けられた声にが顔を上げると、下校中と見られる制服姿の律が、閉じた傘の水を払って東屋に入ってくるところだった。何となく一人きりで心細い気になっていたは、見知った人物の登場に表情を明るくする。
「律君。お帰りなさい」
 律は一瞬不意を突かれたように目を開くと、今度は少し眉を下げて笑いながら「はい」と返した。
さんもこれから帰るところですか?」
「そう……なんだけど、傘が無いから少しここで雨宿りさせてもらってて」
 言われてみればと、そこで律は始めてが傘を持っていない事に気が付いたようだった。は再び手元の携帯に視線を落とす。
「やっぱり家に連絡し、」
「一緒に帰りませんか」
 が言わんとした事を察した律がそれを遮って提案した。律は手にしていた黒い傘を、彼女に見えるように持ち上げる。
「これ、父さんの傘なんです。大きい傘なので、二人で入っても余裕はあると思いますよ」
 やや世間擦れしたところがあるも、相合い傘というものくらいは知っている。
 自分ぐらいの年代になるとそう意識する事でもないのだろうが、もしも律と同じ塩中の生徒に見られては、彼にとって不本意な噂でも立てられてしまわないだろうか。
 パンっと傘を開く音がして──年上としての責任感に揺れるの思考は再び、雨降る公園へと引き戻された。
 開いた傘に再び雨粒がぽつぽつと当たり出すと、律はの方を振り向いて声を掛けた。
「それじゃあ行きましょう」


 + +


 どちらが傘を持つかという問題で僕が私がという多少のいざこざはあったものの、結局は律がその権利を勝ち取っていた。
「また身長伸びた?」
「どうだろう、身体測定から測ってはいないですけど……。でも、この前兄さんからもそう言われましたよ」
 茂夫の話をする律は、の目から見ても嬉しそうに見えた。にとって兄を慕うその姿は幼い頃から何ら変わりないものだったが、それでも律は、少し変わったような気がしていた。
 ますます優しく、そしてどこか頼もしくなった。兄弟が互いを支え合いながら共に成長していく姿は微笑ましい。
「律君は最近……」
 パシャ、と小さな水音がした。
 のすぐ脇の水溜りに勢い良く飛び込んだ黄色いレインコートの女の子は、自分が跳ね上げた水溜りがまるでシャボン玉のようにふよふよと宙に浮かんでいる様子を不思議そうに見つめていた。
 律がかざした手を降ろしていくと、球体は液体に戻り、コンクリートの地面の上を流れていく。すると女の子に手を振りほどかれた母親が慌てたように駆け寄ってきた。
「いえ、気にしないで下さい」
 詫びる母親に人当たりよく応対しながら、律はじいと見上げて来る女の子にもこっそりと笑みを返し、彼女らを見送った。
「そうだ。さん、何か言い掛けてました?」
「いえいえ。何でもないの」
 実際にここまでよく出来た振る舞いをされた後では、自分の口から敢えてそれを言葉にして賞賛する事は、にはおこがましい事のように感じられてしまった。
「私もちゃんと周りを見て歩かなくちゃね。どうもありがとう、律君」
「たまたま僕の方から見えただけですから。……あ」
 何か不都合があったかのようにそう呟いた律の方へ、も顔を向けた。彼は一瞬バツが悪そうに彼女と視線を合わせた後、僅かにそれを泳がせる。
「その、さっきみたいに超能力を使って雨を避けるというのも多分出来るとは思うんですけど……さすがにそれをすると目立つかなって……」
 まるで言い訳でもするかのように続けた律の言葉に、は思わず“目立つ”状況を想像して笑ってしまった。
「律君にはおじさまの傘があるものね」
 律は目を開くと、安堵したように身体の力を抜いて、やや照れくさそうな表情をにみせた。
 それから互いに学校であった事などを話しながら、気が付けば既に彼らの家の近くまで来ていた。の家は影山家よりも住宅街の奥にあり、律にとっては余計な手間になるにも関わらず彼は「送ります」と当然のように申し出て、譲ろうとしない。
「それじゃあ、せめて傘だけ貸してもらうのは……」
「勿論それも構いませんけど、返すのが手間でしょう?さんの家は近くだし、僕も家まで帰るのとそんなに変わりないですよ」
 するとそんなすっかり見慣れた景色の中、は公園で考えていた事をふと思い出した。
「ここまであまり塩中の子は見掛けなかったね」
「ああ……今日は生徒会が無かったので、部活がある人に比べたら下校が早かったのかもしれません。運動部も、室内で出来るところはそうしてるでしょうし」
「そうなんだ」
 では先程の事はいらぬ心配だったのかと、はひそかに安堵する。律は変わらず傘を手にしたまま、彼女の横顔をじっと見て。
「今、何を考えていたんですか?」
 その問いは、の心臓を僅かに跳ねさせた。
 何も後ろめたい事は無いのだが、それまで特に言葉にはしていなかった自身の思考をすべて律に見透かされたような気がしたのだ。の返答を待つ律に、彼女は素直に打ち明ける。
「二人で歩いてるのを律君を知ってる子とかに見られたら、誤解されて困るんじゃないかなって。そう言いつつ、結局私がお言葉に甘えちゃったんだけど……」
「なんだ。そんな事、別に何も困りはしませんよ」
 やや拍子抜けしたように応じる律に、は首を傾げた。
「中学生でも、男の子と女の子では違うのかな。律君たちは、あまり誰が誰を好きとかの話はしない?」
「……、え!!?」
 一瞬理解するまでに時間を要するかのような間を置いた後で、律は先程とは違い、明らかに動揺したように大きな反応を示した。
 は笑顔で、ほらと人差し指を立てて続ける。
「友達とじゃなくても、茂夫君とか」
「兄弟であまり直接的な話は……」
「はあ。私が茂夫君だったら、律君の好きな子とか気になりそうなのに」
「っ、気になるんですか!?」
 ついにに身体の正面を向けて立ち止まってしまった律の迫力に、彼女は立てていた人差し指をふにゃと折り曲げた。
 必死の形相と言っても差し支えない彼の縋るような眼差しから、何かを期待されている事は分かるが、それが一体何なのかには分からない。確かに年頃の男子にとって、特に律のようなタイプにとっては、無闇に触れられたくはない話題だろう。彼女は慌てて返した。
「茂夫君と比べると、律君からはあまりそういう話を聞かなかったからどうなのかなって……、!あれ、そう言えば雨止ん……で、なかったね……?」
 一瞬止んだかのように思えた雨、勢いは大分弱まったもののそれはまだ傘をポツポツと鳴らし続けていた。
 なぜ自分はそんな勘違いをしてしまったのかと、やや混乱するに対し、なぜか律が「……すみません」と俯き加減に謝罪する。彼から謝られるような事に何も心当たりが無かったは、不思議そうな表情をみせた。
「どうしたの?」
「いえ……ちょっと今、自分でもどうするのが一番良いのか迷っていて……」
 律は気を取り直したようにを改めて正面からじっと見て、何か考え出した。
 一本の傘の下。向かい合う距離は、密着するまではいかないが、いつもに比べるとずっと近い。同じく律を見つめ返すの口が、彼より先に自然と開いた。
「やっぱり、身長伸びたね……」
 感慨深げに言うに、律はハッと我に返ったように瞳を瞬かせた。
 彼は、自身とほぼ同じ目線の高さのに、今度はどこか遠い眼差しを向けながら小さく呟く。
「……そうか……まだこんな……」
 何と言ったのかとが聞き返す前に、律は気が抜けたようにやや肩を落とし、自嘲めいた笑みをみせた。どうやら普段の様子に戻ったらしい彼を見て、も気遣うように声を掛ける。
「大丈夫?」
「はい、おかげさまで。……危うく、勝算の無い勝負をしてしまうところでした……」
 そう言って律がおもむろに傘を傾けるとは思わずあっと声を出したのだが。彼らの身体が、雨に濡れるような事はなかった。
 咄嗟に空を見上げ疑問符を浮かべるを見て、律はふふと小さく笑う。そして、彼はまるで種明かしでもするように──。
「雨、上がったみたいですね」
 彼らの足元、町内会の有志によって手入れをされた花壇では、花々に残る雫がしとやかにきらめいていた。“空になった”備品の青いジョウロは、カコンと小さな音を立てて、元あった位置へとこっそり戻された。


 + +


「あれ……」
 バスタオルで濡れた髪を拭きながらリビングへ戻ってきた茂夫は、先に風呂を済ませていた弟の姿をテーブル見つけると意外そうな声を出した。律も気が付き、正面の椅子を引いて座った茂夫へと顔を向ける。
「律、牛乳飲んでるんだ?」
「あ……ごめん、飲みたかった?」
 茂夫から指摘された律は、自身の前にある飲みかけの牛乳が入ったグラスを見て申し訳無さそうに言った。茂夫はううんと首を振る。
「僕は大丈夫。でも律がお風呂上がりに牛乳飲むのは珍しいね」
「そう、かな。そうでも無いと思うよ」
「いいや、今のはちょっと意味深な反応じゃねえか?」
 すると彼らのやり取りを聞きつけたエクボが、茂夫の肩越しに腕組みしながら顔を覗かせた。ニタニタと、面白がって探りを入れるような眼差しを向けてくるエクボに、律は茂夫に対するものとは別の、むっとした不快そうな表情で返した。
「別に、意味深も何も無いけど」
「とか言って、お前らぐらいの年頃の男が急に牛乳飲み始めた時はどうせ身長を伸ばしたいとかだろ。さては誰かさんに背の高い男が好きとでも言われたか〜?」
「別に」
「律、身長伸ばしたいの?僕もなんだ」
 そこで自身を指さしながら、再び無邪気に会話に加わったのは茂夫だ。
「牛乳は伸びるって言うよね。牛乳と、あとはやっぱり筋トレが大事だって先輩達も言ってたよ」
「……そうか、兄さんはよく牛乳飲んでるもんね……」
 そこで改めて茂夫にまじまじと視線を向けた律は、自分よりやや小柄な兄に対して落胆を隠しきれない複雑そうな顔をみせた。
「ね、ねえ、兄さん。ちなみに……霊幻さんの身長って、どれくらいか知ってる……?」
「師匠の?ううん、聞いた事は無いけど……師匠は大きい方なんじゃないかな」
「あれで意外とな。ま、これくらいってとこか?」
 そう言って、律の頭上に移動したエクボが自身の見立てを示すかのようにくるくると旋回する。それを見上げて更に顔色を曇らせた律を励ますように、茂夫が明るい声を出す。
「律はもう僕の身長も追い越しちゃったし、これから成長期だからきっとどんどん大きくなるよ」
「シゲオも成長期だぞ」
「うん。だから律、一緒に牛乳飲んで頑張ろう」
「……ありがとう。そうだね、兄さん」
 そこで少し元気を取り戻した律は、茂夫に向かって笑顔をみせると。
「早く大きくなりたいね」
 目の前の牛乳が入ったグラスに、伏し目がちに視線を落としながら。歯痒さを滲ませてそう呟いた。