「よお、非行少年」
 背後から掛けられたその声は、律もよく知るところである人物からのものであった。彼が足を止めて振り向くと、携帯をパチンと閉じた霊幻がその手を軽くあげて親しげに近付く。
 それを待つ間、律は霊幻の気楽な様子に対して。
「(相変わらず、何も考えてなさそうな人だな……)」
 ──なんて、多少失礼な感想を持ったりもしていたのだが。彼曰く何も考えてなさそうな霊幻は、目の前の中学生から冷静に批評されている事など露知らず続ける。
「こんな時間に何してんだよ。……ははーん、さては晩飯前に買い食いか?俺的にはレジ横のアメリカンドッグがオススメだぜ」
 ちょうどそこがコンビニの前であったからか、霊幻は店を見ながらピンときたように言った。
 帰宅ラッシュのピークは過ぎた頃だが、繁華街に程近い立地と今日が金曜の夜という事もあり、出入りする客の数はそこそこ多い。他の客の邪魔になっていないかを確認してから、律は霊幻に言葉を返した。
「いえ、違いますよ。……いや、そうとも言うのかな」
「なんだ、曖昧だな」
「兄さんかエクボから聞いてませんか?うちは今晩から両親が家の用事で留守で、兄さんも肉改部の合宿があるので週末は僕一人なんです」
 それを聞いた霊幻は僅かに目を丸くする。
「その間のメシは用意してもらわなかったのかよ」
「兄さんの合宿は元々その予定でしたけど、両親の用事は少し急だったので。それに一応、簡単な自炊くらいなら出来ますから」
「そ、そうか……」
 あまりにもしっかりした受け答えをする年下に気圧されつつも、霊幻は少し考えるようにして。
「んじゃー……、お前も今から俺とラーメン食いに行く?」
「止めておきます」
「うっわ即答」
 NOと手を突き出す律に、まさかそんなはっきりと断られると思っていなかった霊幻は、口の端を引きつらせて多少傷付いた様子を見せた。
 すると律は瞳を伏せて続ける。
「これは兄さんには内緒にしてて欲しいんですけど、ラーメン屋の床って……ぬるぬるしてませんか?」
「してるところもあるけども。なに、もしかして潔癖か?」
「潔癖では無いです。あのぬるぬるがちょっと苦手なだけで」
「じゃあ今日はなるべくそうじゃないとこに行くからさ。なー行こうぜ、も来るし」
「だから僕、は──……」
 そこまで言い掛けた律は大きく目を開く。
 彼の纏う空気が、にわかにざわつきだしていた。


 + +


 どこか様子のおかしい律を見て不思議そうにする霊幻に対し、彼は声を小刻みに震わせながら問い掛けた。
「どうして……」
「え?いやまあ、なんかそんなあっさり断られたらこちらにも意地があるというかだな」
「そうじゃない!!どうしてさんが霊幻さんなんかと食事に行くんですか!?」
「声でっか!」
 律の剣幕に、霊幻はビクッと肩を跳ねさせた。慌てて自身の口の前に「しーっ」と人差し指を立てる。
 そうして、やがて周囲の視線が散った事を確認すると安堵の息を吐いて。
「……ん?霊幻さん“なんか”?」
「分かった、今のは僕をからかう為の嘘ですね。別にさんは特別ラーメン好きでもないのに、わざわざ待ち合わせてまで来る理由がないじゃないですか」
 対する律は霊幻の反応には構わず、今度はやや強い口調で続ける。
 霊幻は頬を指先でポリポリと掻いた。
「からかうも何も、ただ昼に事務所で世間話した流れでは午後から講義があるからこの時間にってなっただけだぞ」
「嘘ですね。そんな話は信じられない」
「いや頑なだな!どうした急に!」

「あれ……、霊幻先生に律君も」
 ちょうどその時に霊幻の背後から声を掛けてきたのは今彼らの話題に上がっていただ。
 彼女は待ち合わせ場所より少し手前となる場所で見つけた霊幻と、なぜか彼と一緒にいる律の姿に意外そうに目を開く。
 その声に同時に反応した霊幻と律は、一瞬互いに目線を合わせてから、まだ事情が飲み込めないに対し各々競い合うように主張を始めた。
からも言ってやれ!別にラーメンくらいなら何度も一緒に食いに行ってるってな」
「何度もじゃなくて、百歩譲って何度かでしょう。そうしてわざわざ見栄をはったような言い方を選ぶあたり、余裕の無さを感じるんですが」
「いちいち細かいガキんちょだな!?そんなんじゃ女にモテ……モテるんだったっけか、お前」
「普通だと思いますけど……」
「かーっ、聞いたか今のすかした言い方!普通だと思いますけど……、だって!」
「先生落ち着いて下さい、律君はそんな言い方はしていません」
 内容はよく分からないが、冷静な律に対してややエキサイト気味の霊幻をはまあまあと宥める。
 そうしながらが律の方をちらと見ると、視線を合わせた彼は途端ハッと頬を染めて礼儀正しく背筋を伸ばした。
「そうだ、おばさまから聞いたけど今晩から一人でお留守番なんでしょう。あ、もしかしてそれで先生が」
「それが、誘ったけどこいつは来ないん、」
「はい。ご一緒させてもらいます」
 ほくほくとした笑顔で頷く律に親指を指し向けたまま絶句する霊幻。はやっぱりと手を合わせた。
「律君はしっかりしてるから心配はないかもしれないけどその方がいいものね」
「はい、霊幻さんから誘ってもらって。そうですよね」
「え。いや、ぬるぬる……」
 戸惑う霊幻だったが、律の話を聞いたから好意的な眼差しを向けられている事に気が付くと、そちらを見てギクッとその動きを止めた。
「先生、何だかんだで面倒見がいいですよね」
「そっ……そうか?」
 だらしなく表情を緩めて満更でもなさそうな霊幻に、は「はい」と笑顔で頷く。それから彼女はふと、コンビニの方に目をやった。
「あ。すみません、お店に行く前にコピーとってきてもいいですか?先に行っててもらって構わないので……」
「いや、ここで待っててやるよ。行ってきな」
「ゆっくりで構いませんからね」
 申し訳無さそうにするをにこやかに見送ってから。再び二人きりとなった霊幻と律の間には、微妙な空気が漂い始めた。
 互いに視線は前方へと固定したまま、先にその重たげな口を開いたのは霊幻だ。
「前から思っちゃいたが……律、お前はなかなかいい性格をしているよな……」
「結果的に霊幻さんの株も上がったんだからいいでしょう。……よく考えたら、僕の方は何となく子供扱いされていたような気もしますし……」
「お……?なになに〜、律君。年上のオネーサンに興味持つなんざ、お前もそういうお年頃ってか?」
 肩を組んでくる霊幻に、律は「そういうわけでは」などと困ったように眉を下げた。
 なんだ、やはりまだ歳相応に可愛らしいところもあるではないか。霊幻にとってその反応は、微笑ましくすら感じられ──、
「興味とかではなくて、僕がもう少しさんにとって頼りになる男になれたら、結婚を前提にお付き合いを申し込むつもりですから。その為に今は……って、何ですかその顔は」
 ──感じられる、はずもなく。
 霊幻は顔を青くして律からススス……と身体を離す。
「お前……、そんな真顔でさらっと衝撃的なカミングアウトをしてくれるなよ。完全に準備してなかったわ……」
「?でも霊幻さんって兄さんからも恋愛相談は受けてますよね」
「モブのはいいんだよ。お前のは何か、何かこう……胃の奥にぐっとくるというか、デザートにカレー出されたみたいな感じで。はっきり言って重い」
「人の恋心をカレーに例えないでくれますか」
 霊幻はいまだ衝撃が抜け切らずといった様子でまじまじと律を見ながら、自身の顎に手をやった。
「いやいや、にしても結婚て。冗談……ってわけでもなさそうだな、律の性格から言うと」
「そう驚くような事ですか?自分で言うのも何ですけど、僕の態度って分かりやすいでしょう」
「自覚はあったのか……。まあ分かりやすかったってのはその通りなんだが、改めてはっきり聞かされるのとは違うだろ」
 霊幻はつい先程が話に絡んだ途端に豹変した律の事を思い返していた。
「別に隠す事でも無いですけど、かといって自分から言うような事でも無いので……。兄さんはあの通りの人なので気が付いて無さそうですし、こうして誰かに話すのは初めてですよ」
 どこか含みのある言葉に、霊幻が瞳を眇める。
 対する律は、まるで傍観者のような物言いに徹する霊幻から少しでも反応を引き出そうと、敢えて直接的な言葉を口にする。
「霊幻さんは、さんの事どう思ってるんですか」
「……カワイイなー、と。……思っている」
「…………は?」
 予想外の返答に、逆に動揺させられたのは律の方だ。
 霊幻が放った台詞自体はともすると軽薄にも受け取られかねないものであったが、自身でも何やら考え込むように言葉を選ぶ彼の表情に、誤魔化しは無い。
「“いい奴”である事は間違いないとして、だ。しかし異性を相手にしてそれだけってのも白々しいし、お前が今聞いてるのはこういう事だろ?」
「そうですけど。……まさかそんなあっさり答えてくれると思わなかったので、拍子抜けというか……」
「そっちが聞いてきたんだろうが!俺だって出来ればこういう恥ずかしい話はしたくなかったんだから、絶対本人には言うなよ!いいか、絶対だからな!」
「わ、分かってますよ」
 やや押され気味に頷いた律から離れると、霊幻はスーツの襟元を軽く緩めて顔をパタパタと手で仰いだ。
「何か変な汗かいてきた……。やけに心拍数も上がってきた気がするんだけど、大丈夫かこれ」
 そんな霊幻の事を、律は隣からじっと見上げた。
「無理に答える必要も無かったのでは?霊幻さんならあのまま上手く誤魔化す事も出来たでしょう」
「いやいや……、だってお前“初めて話した”んだよな。それなのに俺だけ誤魔化すってわけにもいかないだろ」
 ああまったく本当にこの人は、誠実なのか、不誠実なのか──。
 再び口を閉ざしてしまった律の心情をどのように察してか、霊幻はフォローするように声を掛けた。
「あ〜……ほら、心配すんなって。俺は正直お前ほど腹を決めきれちゃいないというか、今すぐどうこうしようってつもりもねーからさ」
「は?当たり前でしょう、霊幻さんがさんにしてるお祓いに意味が無いってバラしますよ」
「おぉっと声が大きいぞう律君!?」
 律が口の前に人差し指を立てる霊幻の視線の先を追うと、なるほど、用事を済ませたがコンビニから出てきた所であった。


 + +


「お客様」
 霊幻と律が店の外で密かな攻防を繰り広げていた頃。レジ横のやや奥まったスペースにあるコピー機の前にいたは背後からの声に振り向くと、その表情を明るくしていった。
「ああ。こんばん、」
「──“お客様”。大丈夫ですか?」
 親しげに応じようとしたの言葉を遮るように店員は続ける。一見穏やかな笑みの中に静かな圧を感じたは、身体を僅かにずらしてコピー機を示した。
「コピーを取るのに手間取ってしまって。お金は入れたんですけど」
「…………」
 店員がすっと無言で前に出て、パネルの表示を確認する。すると、彼は隣で心配そう見守るにも聞こえるような、疲労感に満ちた溜息を吐いた。
「これ、押せてねえだけだろ」
「えっ」
 先程までとは違う、やや乱暴な呟き。
 コピー機が置かれたスペースには今店員と以外の姿は無く、店内に流れるBGMや人のざわめきで、他に彼らの会話を聞くものはいなかった。
 店員は睨むように──というよりも、元々の目つきが悪さもあるだろうが──を見下ろすと、パネルに指を置きながらぶっきらぼうに問い掛ける。
「白黒のA4でいいのか?」
「出来れば色がついている方が……。大きさはA4でいいです」
「……。何部」
「一部で……」
 ごく単純な操作の後、長く待つでも無く、ガーッと音を立てて一枚の用紙が出てきた。店員は用紙を手に取るとに顔を向ける。
「これだけの事だぞ」
「ハイ……大変、お手数お掛けしました……」
 は目の前でまざまざ見せつけられた己の無知を恥じ、頭を下げながら、恭しく両手を伸ばして用紙を受け取った。
 そこで相手は更に、堰を切ったように続ける。
「こっちは前に下手に話し掛けられたせいで、例の奴が来たから様子を見て来いという無言のプレッシャーを他のバイトからかけられてるんだよ。迷惑だ、分かるか?」
「れ、例の奴?私ですか?」
「もっと悪意に満ちたあだ名で呼ばれないだけありがたく思え。大量コピー破壊女」
 以前のが起こしたなんらかの出来事を想起させる呼び名に、彼女は痛いところを突かれたとばかりにうっと唸った。店員は眉を顰めながら用紙の原本を取ると、そこをパタンと閉じて。
「……やっぱり、まだ根に持ってるのか」
 今度、やや気弱に聞こえたその声に、は改めて顔を上げる。店員は表情を隠すように口元を手で覆っていた。
「いや、誘拐した方が根に持ってるって言い方はねえか……。……とにかくあの時の一件に関しては、俺も今は悪い事をしたと思っ」
「えっと、すみません。ただ本当にコピーが使えないだけです……」
 すると店員──この店でアルバイトとして働いている「爪」の元幹部である桜威は、口元から移した手で眼鏡のブリッジを無言で持ち上げた。なぜか空気が重くなった事を感じたは慌てて続ける。
「あと、私だけではなくその事はもう皆気にしてないと思いますよ。そうだ、外に霊幻先生と律君もいるので呼びますか?」
「いやいい、やめろ。俺がここで働いている事はそいつらに話すな。帰れ」
「……。お仕事、頑張ってください」
 またコピーしに来ますねと頭を下げて、はその場を後にした。残された桜威は、ガラス越し、店の外で霊幻らと合流したの様子に瞳を薄くして。
「……いや、コピーは他所でも出来るだろう」
 今や本人の耳には届かぬ呟きをぽつりと漏らすと、舌打ちを最後に再びレジの方へと戻っていった。