事務所の応接室から続く小部屋の中央には簡易ベッドと、その脇には小さな丸椅子が置かれている。実はあまりこちらの部屋には通された事が無い。彼女が中に進みながら物珍しげに見渡すと、霊幻は開いた扉のドアノブに手を掛けたままバツが悪そうに言った。
「悪いな。何だか追い出したみたいになって」
「そんな事無いですよ。それより私がこっちの部屋にいても良いんですか?」
「ああ、今から来られるお客様にはマッサー……もとい、この部屋を利用するタイプの手法とはまた違ったアプローチでの除霊を行ってるからな。うん」
 霊幻の携帯電話のアラームが鳴ったのは、が事務所を訪れて間もなくの事だった。
 自らも心当たりが無いといった表情で携帯を手に取って、みるみる青ざめていった彼が話すには、元々入っていた相談の予約を勘違いしてしまい、所謂ダブルブッキング状態になってしまっていたのだという。
 すると霊幻の後ろから、芹沢が慌てたように姿を見せた。
「霊幻さん、いらっしゃいました」
「おお、予定よりも早いな……。それじゃあ、長く掛かりそうな時は声掛けるから」
「分かりました」
 そこでが椅子に腰掛けるのを見届けた霊幻は、小さく咳払いをして、すっと息を吸うと──。
「──いやあ、どうも!お待ちしていました」
 それまでとスイッチを切り替えたかのような溌剌とした声を出し、ばたんと扉を閉めた。
「あ〜、うるせ。霊幻のやつ、相変わらず口だけはよく回るな」
「エクボ」
 するとエクボが霊幻と入れ替わるようにのいる部屋の中にすっと入ってくる。
 エクボが言う通り、相談者の対応をしているらしい霊幻の声はこうして壁一枚を隔てていても薄っすら響いてくる程だった。彼の発言に限るのであれば、こちらの部屋で耳を澄ましてみれば聞き取れない事も無いだろう。
 にとってそういう霊幻の姿は、事務所の広告等でしかあまり目にする機会が無いものであった。彼女がその事を話すと、エクボはそりゃそうだと応える。
「あいつは客の前では猫かぶってるからな。……ん?いや、むしろの前でかぶってるのか……」
「そんなに違うの?」
「なんだ、気になるか?」
 がえっと問い返すと、エクボは何かを企むかのように口角をニッと上げて続けた。
「そんなに気になるなら、お前もあいつの客として体験してみればいいだろ」
「でも、私のお祓いの時はいつもの先生だし……」
「そこは俺様が協力してやってもいい。相手がと分からないように、その時だけあいつの認知をずらしてやるよ」
「そんな事出来るの!?」
 するとエクボは得意げに丸い身体を突き出した。
「へっ、俺様を誰だと思ってやがる。それまで気にしてなかった壁のシミが、ある日突然女の顔に見えたりする話があるだろ。それと似たような事をしてやるだけだ」
 そうしてよく聞くような例を出されると、詳しい仕組みは分からなくとも納得してしまう。
 確かに霊幻の自分以外の相談者に対する仕事振りには興味があったし、本当に実現するなら面白そうな誘いだと思った。しかし彼女にはまだ気掛かりな事がある。
「それって、一種の心霊現象みたいな事?それなら先生には分かっちゃうんじゃ……」
「あー、ナイナイ。ただ芹沢あたりにはあらかじめこっちの事情を話して協力してもらった方がいいかもな」
 かくして好奇心には抗えず。
 秘密裏に、その計画は決行される事となった。



 + +



「今日はようこそおいでくださいました。どうぞお掛け下さい」
 数日後、応接室でを出迎えた霊幻には、既にエクボの“手助け”が効いているようだった。早速の眩い営業スマイルに気圧されるも、は彼に怪しまれぬようにと勧められるがままソファーへと腰を降ろす。
 すると霊幻も同じように向かいに座って、事前に彼女が記入していたアンケート用紙を手にした。
「アンケートのご協力ありがとうございます。……現在服用中の薬やアレルギーは無しと……」
「そういうアンケートは皆さんに?」
「ええ。勿論無理強いはしませんが、新規のお客様にはご協力をお願いしています」
 一応自身も客であるはずのには、今までそういったアンケートを記入した記憶は無かった。ただし彼女の場合そもそもの出会いが客としてではなく茂夫を通してのものだったので、例外となるのかもしれないが。
 すると回答のチェックを続けていた霊幻がぽつりと呟いた。
「山田……、花子さん」
 山田花子。OL。独り暮らし。──これといったものが思い付かなかったにせよ、いかにも過ぎる偽名だ。実際どこか引っ掛かったような素振りを見せた霊幻には内心ハラハラするも、さすが場馴れしている彼はすぐ何事も無かったように人当たりのいい笑みを浮かべた。
「山田さん。それで今回はどのようなご用向きで?」
「えっと、近い内に引っ越しを考えているのですが、こちらではいわくつきの物件の判定も出来ると聞いたので」
「ああ、なるほど。そういった事であれば、よろしければ住所や間取りなどお聞かせいただけますか?無論、守秘義務は遵守します」
 は、物件情報を印刷した紙を霊幻に手渡した。ちなみにこれは実際に引っ越し検討中の友人から許可を得て、候補の内一つをプリントアウトしてもらったものだ。
「失敬」
 紙を受け取った霊幻はおもむろに立ち上がる。彼は自身のデスクまで行って着席すると、そこでパソコンを操作し始めた。
「……ふんふん、どうやら事故物件の心配は無いようです」
「分かるんですか?」
「これくらいならネットで検……いえ、私共の専門的なネットワークを駆使すればすぐですよ」
 もっともらしく話してみせるその間もマウスを忙しくカチカチと動かしていた霊幻は、パソコン画面に更に顔を近付けた。
「間取りはワンルーム、最寄り駅から徒歩10分。オートロック付きバストイレ別……ほう、常時ゴミ出し可能か。近辺の家賃の相場から見ても悪くない物件ですねえ……」
 どうやら霊幻は、ネットで検索した物件情報を改めて確認しているようだった。
「失礼ながら、一人暮らしにしては部屋数が多いような気がするのですが……」
「ああ、その、恋人と同棲しようかと思っていて少し広めの場所を借りる事にしたんです」
「なるほど。では二人暮らしになられるわけですね」
 しばらくパソコンとにらめっこしていた彼は、やがてそこから顔を上げると、に向かって声を掛けた。
「ちなみに、内見には行かれましたか?」
「あ……いえ、まだ行けてないです」
「おっと。それはいけませんね」
 の返事を聞き、霊幻はぴしっと人差し指を立てた。
「例えばこの駅から徒歩10分というのも、ひょっとしたら途中傾斜のきつい坂道があるかもしれない。壁が薄くて隣人の話し声が聞こえたり、防犯面からもベランダ近くに足場になるものがあるとそれが不審者の侵入口にもなり得る等々……実際に見てみないと分からない事も多いですから」
 先述の通りこれは本人の話ではないのだが、彼女自身まだ独り暮らしの経験等は無い為、霊幻が話す内容にはなるほどと思わず目を見張る。
 は慌ててバッグの中に手を伸ばした。
「今までの事、一旦メモに取ってもいいですか」
「ええ、どーぞどーぞ」
 霊幻はに笑顔で手を差し伸べてから、取り出した手帳にペンを走らせ始めた彼女に対して、改めて観察するような視線をじっと向けた。
「(どうやら、冷やかしってわけじゃなさそうだな……)」
 事務所に入ってきた時のどこか落ち浮かない様子に、明らかな偽名からしてそうだが、何より彼女は敢えて“このような場所”を選んで相談に来るようなタイプには見えなかった。
 浮かんだ可能性としては、適当なネタ探しのため以前メディアで騒がれたインチキ霊能者の調査を押し付けられたゴシップ雑誌の新人記者。もしくは同業者の敵情視察といったところだが、実際向かい合ってみるとそのどちらもしっくりこない。結局興味本位から相談に来てみたものの、いまいちこちらを信用し切れていない内から個人情報を明かすのは躊躇われたという、そんな事だろうか。
 メモを取り終えたが顔を上げると、霊幻もまた視線を元に戻した。
「お待たせしました」
「いえいえ」
 これといった裏が無いのであれば、新規顧客はぜひとも獲得しておきたいところであった。霊幻は再び自身の中のスイッチをカチッと倒して入れ直すと、滑らかに話し出す。
「そうだ、あと実際に見てみないと分からない事といえば現場のニオイですかね。かくいう私も経験がありまして」
「それってもしかして」
 思わせ振りな霊幻の言葉に聞き手として満点に近い反応を見せるに、霊幻もここが決め所と言わんばかりにキリッと表情を引き締める。
「あれはそう──、回鍋肉のニオイでした」
「ホイ、コー……」
「他にも餃子に麻婆豆腐……。近所にある中華屋の排気口から、どういうわけか窓を閉めても……、匂ってくるんですよ」
 いやぁ危ないところでしたと続けた霊幻は、しかし先程までと比べての反応があまりよろしくない事に気が付いた。内心何かまずかったかと思いながら、表情には出さないように問い掛ける。
「すみません。ひょっとして、中華はお嫌いでしたか?」
「い、いえ。私そのニオイっていうのはつまり、プロの人が霊の気配を感じ取ったりする事なのかなって。勝手にそう思ってしまって」
「……、……よくご存知でッ!!」
 突然張り上げられた声には思わずビクッと身体を揺らしたが、霊幻は更に間髪入れず続ける。
「勿論そのような意味でしたとも。ただ、あまり直接的な言葉を使うと呼び寄せてしまう可能性もありますのでね」
「それじゃあ窓を閉めても匂ってくるというのは、ひょっとしてそれだけ強い気配だったという……」
「そういう事でいいでしょう」
「そういう事」
「いえ、全くもってその通りです。まさかそんな、中華屋だなんて。ここはあくまで霊とか相談所、ですから」
 そう自らにも言い聞かせるように念押しすると、彼はジャケットの内側へと手を伸ばした。
「それにしても山田さん。貴女はとても幸運なお方だ」
 再びの元まで戻ってきた霊幻は、そこから紙を折り畳んだような小さな包みを取り出して彼女の前に置く。
「これは?」
「これは──塩です」
 の正面に腰掛けて、霊幻はにこやかな表情を彼女に向けると。
「偶然。たまたま。こんな事は滅多に無いのですが」
 これでもかとお得感を散りばめた前口上の後、続ける。
「今だけお試しコースをご利用の方にプレゼントしているんですよ。新居へのご移転をお考えという事で盛り塩として使ってもよし、食用ですので料理の味付けにもなりますから、ぜひお持ち下さい」
「私は……今まで、貰ったこと無いです」
 その聞き逃してしまいそうな小さな呟きに、霊幻は思わずパチッと瞬きをした。
「…………ん?」
 すると。一瞬で切り替わった眼の前の光景に、眉間に皺を寄せてゴシゴシと目元を擦る。
 しかし何度擦って目を凝らそうと──、彼の瞳に映るのは今日初めて会ったばかりの新規のお客様ではなく、どこか落ち込んだような表情で俯くの姿だったのだ。



 + +



 何も悪びれる様子も無くふよふよと宙を漂うエクボを、霊幻は椅子に座ったまま引きつった表情で睨みあげた。
を唆しやがって……」
「ちょっとした悪戯心ってやつだろ。そっちこそ普段の仕事ぶりに何か見られちゃまずい事でもあったのか?」
「そんなものあるわけないだろ。どこに出しても恥ずかしくない完璧な接客だ」
 背筋を伸ばした霊幻は、自身のネクタイを押さえながらふんと息を吐いて応える。エクボはそんな彼をしばらく見返すと、思惑が外れたとばかりに舌打ちをした。
「ちっ、ボロが出るまでもう少し粘ればよかったな」
「(セェーーフッ!!)」
 実際“塩”の効果が薄かった際、二の矢三の矢となるセールストークまで考えていた霊幻は、その手前で留まれた事に安堵していた。仮にそこまで話が及んだ場合は、おそらくエクボが望んでいたであろう姿をに晒していた可能性もあったからだ。
 すると霊幻はポリポリとこめかみを掻いて、今度は正面に座るに声を掛けた。
も、エクボの案に乗る時は一度よく考えろよ。ここ最近は無害なマスコットキャラぶっちゃいるが、こいつは基本性悪なんだから」
「ご、ごめんなさい。先生が普段どういう風にお仕事してるのか知りたくて」
 そう謝りつつも、はやはりどこか元気が無い。戸惑う霊幻と視線を合わせた彼女は、続けて遠慮がちに口を開いた。
「私以外の方は、皆さんお塩もらってるんですか」
「え〜と……、皆じゃない。皆じゃないぞ、勿論」
 の追求に後ろめたい気持ちになった霊幻は、何とか誤魔化すようにハハと明るい声を出した。
「なーんだ、そんなに塩が欲しかったのか?俺とお前の仲なんだし、いつでも言ってくれて良かったのに」
「欲しいというか。先生と言えば塩のイメージがあるので、自分でも説明が難しいんですけど、何だか少し羨ましいなと思ってしまって」
「えー……、俺のイメージ塩かぁ……」
 ややショックを受けたように言ってから、彼は気を取り直すかのように短く息を吐いた。
「よし、分かった。俺も普段の付き合いに甘えてた所があったかもしれないし、が望むならそこの線引きはきっちりやらせてもらう」
「!いえ、本当にそんなつもりは無かったんです。それに私は先生のご厚意で見ていただいているだけで、皆さんみたいにお金も出してないのに……」
「それは俺から言い出した事だからいいんだよ。そもそもプロとして仕事をするうえで、金の事は関係無いからな」
 全て事情を知っているエクボは、霊幻に白けた眼差しを送っていた。
 そんな中ではしばらく躊躇うようにした後、おずおずと口を開く。
「それなら……たまに、お願いしてもいいですか?毎回だと私も緊張してしまいそうなので」
「おお、任せろ。その代わり、今後こういう抜き打ちみたいな真似はするんじゃないぞ」
「は、はい!」
 勿論ですと応えるに、霊幻も頷く。
 こうして、仕掛け人であるエクボにとってはあまり面白くない結果となったものの、今回の話については一件落着といった雰囲気が流れた。
 しかしその前に、どうしても確認しておかなければならない事がひとつ残っている。
「ちなみに──、悪戯だったって事は、“同棲する恋人”ってやつは存在しないんだよな……?」
「え?」
 すっかり忘れ掛けていた設定には呆けた声を出したが、対して、問い質す霊幻の表情にはどこか、強く念押しするような必死さが滲んでいた。