誰かに呼ばれた気がして、霊幻は机に伏せていた状態から勢い良く顔を起こした。
 まず、先程思いっ切り地面に転倒した時にぶつけたはずの額へと反射的に手をやりそっと擦るも、大きなコブやらが出来ている気配は無い。それどころか痛みすら無かった。安堵した霊幻は息を吐くと──、気が付く。
 ────いや、待ってくれ。“机”?
「大丈夫?」
 その机に手を付き、心配そうに霊幻を見下ろすのは制服姿のだった。
 黒板と教壇、楽しげな笑い声を上げるクラスメイト、窓の外に広がる校庭。そんなごくありふれた学生生活の景色の中、自身を凝視したまま固まる霊幻を心配してか、彼女はもう一度彼に向かって呼び掛けた。
「ねえ。授業の後からずっと寝てたみたいだけど具合でも悪いの?」
 の言葉には応えずに。霊幻は、ゆっくりと自身の顔を両手で覆った。
 “ 夕暮れ時。その三叉路で背後から声を掛けられた者は、突然糸が切れたかのように眠りこけてしまう”、と。
 今回事務所にきたのは、最近起こっている怪奇現象への調査依頼だ。更に詳しく聞くと、眠っている最中の幸せそうな表情とは打って変わって数日後に目を覚ました後はどこか抜け殻のような状態になってしまう者が多く、中には引き篭もったり、病院に入院したりという事例もあるという。
 そんな事実であれば深刻な依頼に、霊幻が比較的余裕の態度で挑む事が出来たのは、今回は別件に掛かる芹沢の代わりに、たまたま手が空いていた影山兄弟や花沢といった彼にとってのオールスターを揃えて望む事が出来たという事がまず要因として大きい。そして同じ霊同士の繫がりかは知らないが、エクボから「そいつはお前らが言う所の“獏”みたいなもんだ」というほぼ種明かしのような情報まで受け取っていたからだ。ただしこの場合は獏のように悪夢を食べるのではなく、その人物にとって願望に近い夢を見せてじわじわと生気を奪うのだと。
 という事は、である。
 聖ハイソ女学園ではなく、霊幻自身の高校時代の女子制服姿でいかにも同級生然として現れたは、彼の願望という事だ。そんな己でも気が付いていなかった深層心理をまざまざ見せつけられるという羞恥プレイからようやく立ち直った霊幻は、ふぅー……と息を吐いて、両手を降ろすと共に再び表情を引き締めた。腕組みし、に指先を向けた。
「設定は高校ってところか?だとしたら、も今のじゃなくて、黒髪おさげ眼鏡の委員長スタイルじゃねえとおかしいじゃねえか。人様を騙くらかすにしてはその辺のディテールが甘いんだよ」
 それから霊幻は自分の姿を改めて確認する。
「うお、やっぱり俺も制服か……。今着ると懐かしいより、恥ずいが勝つな。鏡とかねえけど、見た目的にはどうなってんだこれ」
「あの……」
 そこで戸惑うように声を掛けてきたに、霊幻は距離を取った冷静な眼差しを向ける。
 当然だ。これは本人ではないのだから。
「あー、もういいぞ。今までの奴がどうだったか知らねーけど、俺の認知ははっきりしてる。これ以上続けても時間の無、」
「新隆君、何か寝惚けてるんでしょ」
 ひらひらとあしらうように手を振っていた霊幻の動きがピクッと止まる。はおかしそうに笑って、再び彼を覗き込むように顔を近付けた。
「何ともないなら帰ろうよ」
 するとはあっと小さな声を出して周囲を気にする様子を見せると、今度は恥ずかしそうに声を潜めた。
「私、先に出て校門の外で待ってるね」
 そう言って教室の前の扉から出て行ったの背を、霊幻は無言のまま見送った。残された彼は再びゆっくりと腕組みし、天井を見上げる。
「調査は必要か……」
 それは、まるで誰かに聞かせるかのように。
 不必要な程はっきりした声での独り言であった。


 + +


 しばらく過ごすうちに、霊幻は自身が置かれている場の仕組みを段々理解してきていた。
 これが本当に夢の中であれば、現れる人物や風景は全て霊幻の記憶や経験に依存するのだから、必ずどこかに矛盾や曖昧さが見られるはずだ。しかし舞台こそ過去存在し得なかった架空の高校生活というものであれ、登場人物に至っては霊幻自身思いもよらない言動を取るという、現実世界に近いリアルさを持っていた。
 夢というより、高性能なAIを用いたシュミレーションに近い。高校生活ではあるが、当然のように何時間も授業を受けたりという面倒な流れはない。その中でのイベント毎を切り取って繋ぎ合わせたものだけ体験しているという感覚だ。

「ほら、当たったぞ。もう一個だと」
「え、すごいね!」
 こうして霊幻がと学校帰りに駄菓子屋に寄るのも、もう何度目になるのか。
 当時彼が住んでいた場所の近所にある古い小さな駄菓子屋。更にそのすぐ目と鼻の先にある児童公園は、近所の子供達の姿がちらほらあったが、高校からは離れているため同級生達と会う事は無いという所謂“おあつらえ向き”の場所だった。
 なにせ、目立つ行動をして大々的に冷やかされるのは遠慮したいが、少しはこの状況を誰かに見られたいというちょっとした欲はある。子供達からするとたまに見掛ける近所の高校生へ何の気無しに向けた視線なのだろうが、それだけで十分だった。
 とベンチに並んで駄菓子屋で買ったスナック麺の当たりくじを開封する。何気ない日常、それだけで──。
「──いや、ピュア過ぎかっ!!逆に気持ち悪いわ!!」
 突然我に返ったかのようにくわっと叫んだ霊幻に、は驚き肩を跳ねさせた。霊幻はそのまま額に手をやってうわ言のように続ける。
「自覚が無いだけで、実は俺はものすごーく何か拗らせちまってるのか……?いや、あんまりアレな内容でも元に戻った時に気まずいだろうし、いいと言えばいいんだが……」
 するとその時。隣であっと小さな声を上げたが、霊幻の肩をトントンと叩いた。
「見て、100円だって!これって当たってる?」
 霊幻は言われるがまま、興奮したように頰を紅潮させているが指先に持つ菓子の裏蓋にぼんやりとした視線を向けた。すると一拍置いて、その瞳は再び生気を取り戻していく。
「うおお100円!!スゲー!久々に見た!」
「おみくじで言うと、どれくらいかな」
「お、おみくじ?何でそれに例えたいのかは謎だが……まあ、そりゃ大吉だよ。当たりの中でも一番いい当たりだからな」
「わ、嬉しい」
 は霊幻の言葉に跳ねるように応えた。そして自身が引き当てた“大吉”を、裏返したりしながら改めて眺める。
「折角だし取っておこうかな。捨てちゃうのは勿体無いよね」
「……、そ、そうだよな。まさか本当に交換しにいくわけでもないが、捨てるのもなあ」
 の言葉で色々と察した霊幻は、善は急げとばかりに浮かし掛けていた腰を再びそっ……とベンチに抑え込んだ。
 悔しい事に、こういったやり取りは現実の相手にも往々にしてあり得る。ただやはり決定的とも言える大きな違いは彼女の態度であった。
 この公園はいつも夕暮れだ。霊幻は見慣れているようで全く知らない──そんな、オレンジ色に染まるの横顔をしげしげと眺めながら。
「やっぱり年上や年下相手には気遣うもんか?例えば俺がお前より10ぐらい上のおっさ……お兄さんだとしたら、と言うか」
 そう問い掛けると、は不思議そうに目を瞬かせた。
「どうしたの、急に」
「いや、仮想だとしてもこうリアルに体験しちまうとなぁー。別にお前が俺達に壁を作ってるわけじゃないってのも、分かってはいるつもりなんだが」
 霊幻が普段目にするは、霊幻や茂夫達と接している時の彼女で、それこそ同級生達と普段どのような話をしているか等はほとんど知らなかった。
 ただ、たまに友人らしき相手からの電話に出て砕けたやり取りを交わしているのを見掛けた事はある。今回こうした設定になったという事は、霊幻自身そこに何らかの無い物ねだりのような感情を抱いてしまったのかもしれない。
 しかしそんな事を聞かれても、当然この世界のは戸惑う様子をみせるばかりだ。いくら仮想とはいえ、彼女を困らせる事が本意ではない霊幻は誤魔化すように笑って、「なんてな」と自身の言葉を取り下げた。
「折角開けたんだし食おうぜ。久々に食うと案外うまいぞ」
「あ……うん。ねえ、これってお湯掛けたらカップラーメンみたいになるのかな」
「ふっ、いい質問だ。なにせ俺は経験者だからな」
 すると霊幻は得意げに、人差し指を立てる。
「結論として、一応ラーメンっぽくはなるがうまくはない。味が濃いようで何かが物足りないし、あと短いから食いづらい」
「そうなんだ。……でも一回ぐらい食べてみたいかも」
「おう、いいぞ。それなら今度モブ達も呼んで、事務所で試してみるか」
「ジムショ?」
 に聞き返されると、霊幻はふいに虚を突かれたような表情をみせた。
 そのまま少し考えて、訝しげに首を捻る。
「……あれ?何だ、ジムショって」
「ふふ、自分で言ったのに。もしかしてまだ寝惚けてたりして」
「いや、そんなはずは……。けど待てよ、そもそも寝惚けてたってのもいつの話だったか……」
 そんな事もあったような無いような。
 霊幻は思い返してみるも、記憶にまるで靄が掛かったような感覚があった。はっきりとしているのは今この瞬間。隣にいるの存在がより鮮明になっていく。彼女は、菓子が入っている小さな赤いカップを手のひらに乗せて少しずつ摘んで食べていた。
「(俺だったら一気食いするところだな)」
 ただ、そんなお互いの違いはむしろ悪くない。違うからこそ、このままぼんやりといつまでも眺めていられるような気分だった。
 霊幻からの視線に気が付いたは手を止めると、少し照れくさそうにする。
「何か黙々と食べちゃうね。ごめん、2個も」
「いや、結局中身はめちゃくちゃ少ないからなコレ。2個なんて食った内に入らねーって」
 そう言って、霊幻はカップを逆さにしてザッと一気に食べてみせた。続けて2個、3個。更にダメ押しで手に取り4個。
 膨らませた頰をもごもご動かしながら「な?」と視線で言う彼に、は一瞬呆気に取られたようにしてから笑った。
「そんなに一気に口に入れたら食べづらいんじゃない?」
「ひや、ほんなほふぉないぞ」
「ほっぺたがハムスターみたいになってる」
 は指摘するように霊幻の頬、直接触れるか触れないかの位置まで指先を近付けた。その動きをじっと黙って目線で追っていた霊幻は──、口の中のものをゴクンと飲み込んだ。
「!!んぐっ、喉に麺が刺さッ……!!」
「えっ!大丈夫!?」
 喉を押さえて前のめりに悶絶する霊幻にも慌てる。
 そんな彼女に対し霊幻は手のひらをかざして心配するな、或いはちょっとタンマといったポーズを取ると、喉に引っかかったものを無理やり奥に押し込んで、ようやく息を吐いた。
「はー、危ねえ。まさかスナック麺の一気食いにこんな落とし穴があったとは……」
「噛まずに飲み込んだらそうなるよ!」
「いや、でも悪い事ばかりじゃないぞ。おかげで色々と思い出した」
 霊幻は上を向き、オレンジ色の空を指す。
「ほら。あそこヒビが入ってるだろ?どうもモブ達が助けに来ようとしてくれてるみたいなんだが、この状況を見られたらさすがの俺も上手く言い訳出来る自信が無い」
「ヒビ?」
 同じように空を見上げたが不思議そうに聞き返す。
 この世界側である彼女には、やはり見えないのだ。霊幻は静かに手を降ろす。
「……俺、学生の頃は前髪も真ん中分けでさー」
 唐突な告白にの目が開かれる。
「本当どこにでもいる平凡な奴で、そのくせ変な知恵はあるから冷めたところがあるというか。自分は要領良くやってるなんてのも、結局楽しくやってる連中に馴染めない言い訳みたいなもんで……」
 そこで霊幻は一度唇をぐぅ……と尖らせた。
 彼はそのまましばらく考え込んでいたが──やがて、パシッ!と大きな音を立てて両膝を叩いた。そして驚くの肩に吹っ切れた表情で手を置く。
「今回は、俺の勝手な未練にお前を付き合わせて悪かったな。俺はやっぱり少し拗らせてたらしい」
 向き合ったは先程までと目線の高さが違っていた。
 霊幻が、元の姿に戻っていたからだ。彼は懐かしい学生服から見慣れたスーツ姿に戻った自身の姿を確かめるように、彼女の肩から離した手を握ってまた開いた。
「お。何かこのまま元に戻れそ──」
 そこにもうの姿は無かった。
 何も無いだだっ広い空間。一人ベンチに残された霊幻は数度にぎにぎと手を動かし、やがて、長い溜め息と共に背凭れに沈み込んだ。
 こういう時は煙草でもあれば時間も潰せるし、この遣る瀬無い気も何となく落ち着かせられるのだろうが、生憎吸わなくなってから久しい。他に何か無いかと探ってみるも、結局は空っぽであった両ポケットに手を入れたまま彼は顔を持ち上げた。
「結局、付き合ってるのかどうかはビビッて聞けなかったな……」
 空間がビシッと割れる音がした。


 + +


「もう少し強めに揺さぶっても構わないんじゃないですか」
 霊幻が眠りに落ちてしばらく。道の端に寄って様子を見守るように彼を囲んでいた面々の中、ついに痺れを切らした律に皆の視線が集まった。
「律。僕にも経験があるけど、こういう時は眠ってる状態とも違うんだ。それに師匠は頭も打ってるし、あまり動かさない方がいいと思うよ」
「それじゃあ顔に水を掛けてみるっていうのはどうかな」
「なるほど、そうか。それなら冷たさで目を覚ますかも……」
「おいおい」
 すると花沢が制止の声を上げる。何か悪い事を言ったかとそれぞれ視線を向けてきた兄弟に、彼は思わず苦笑した。
「心配する気持ちも分かるけど、もう少し待ってみないか?こちらからの接触には気が付いたみたいだし、後は霊幻さん次第だよ」
 花沢の言葉に頷く茂夫に対し、律はまだどこか納得がいかない様子だった。すると花沢は悪戯っぽく、からかうような口調で続ける。
「それに水なんか掛けたらさんの膝まで濡らしてしまう事になると思うけど」
 その言葉通り、霊幻は今に膝枕をされていた。突然倒れた彼をそのまま地面に横たわらせておくのも忍びなく、彼女が膝を貸したのだ。
 見上げると目が合うと、律は慌てる。
「す、すみません、僕はそういうつもりでは」
「分かってるよ。律君も先生が心配なんだよね」
「ああ……、はい」
 虚ろな目付きで応えた律を、花沢が横目で困ったように見る。するとそれまで様子を見ていたエクボが律の側までやってきて耳元で囁いた。
「律、要はこの状況をどうにかしてーんだろ?俺が霊幻の身体に入って事務所まで連れてってやるよ。貸しイチってやつだ」
「それ、身体に入った瞬間はエクボの意識があるって事だよな」
「……いや、それくらいは許容しろよ!!この件になると本当話が通じねぇなコイツ!」
「あ。そうだ、そう言えば肉改部で使ったタオルがあった。これを濡らして顔に乗せれば衝撃を与えないし、さんの膝も濡らさなくて済むんじゃないかな」
「別の衝撃があると思うけど……。と言うか、君まだその話をしていたのか」


「……騒がしいな……」
 ポツリと呟く声が下から響いた。は安堵の息を吐くと、上半身を僅かに屈める。
「良かった!大丈夫ですか、どこか痛みます?」
 しかし目を覚ました霊幻は、の問い掛けにも反応が無く、自身を逆さの状態で覗き込んでくる彼女をどこかぼんやりと見上げるばかりだった。
 そうしてやや遅れて、フッと笑う。膝上から伝わる重みには彼の身体の力が抜けていくのを感じた。
「結局、俺の願望なんて大した事じゃなかったな……」
「え?」
「こっちの話だ。というか、これやっぱりコブ出来てるだろ?めちゃくちゃ痛え」
 そう言ってハハと笑う霊幻は、心配していた周囲が呆気に取られる程にいつも通りの彼であった。
「それだけ元気があるなら、さっさと起き上がって下さい」
「いや、それがだな律……お前の言いたい事はよーく分かるんだが、マジで力が入んねえ。そうだ、そういや俺を引き込んだ奴はどうなったんだ」
「あっ、すみません。師匠が戻ってきた時、もう用事は済んだのかと思って除霊は済ませちゃいました」
「早っ。……い、いや、でかしたぞモブ。と言う事は、俺のこの状態も時間の問題って事か」
 霊幻は改めて、をチラ……と見上げると。
「ところで、……。お前、スナック麺をお湯で戻した事はあるか?」
「スナック麺?カップラーメンとは違うんですか?」
 興味ありげに聞き返してきた彼女に、得意げに「おぉ」と返したのである。