携帯の着信画面には、霊幻の名前が表示されていた。
 元々用件があればメールよりも手っ取り早く電話で済ます事が多い彼だが、こういう遅めの時間に掛けてくるのは珍しい。変則的な出来事はの心に僅かな不安の影を落とす。ソファーで読書をしていた彼女は読み掛けの本をテーブルに置くと、代わりに手に取った携帯の通話ボタンを少し緊張しながら押した。
「はい。です」
『……あら、本当に出たわよ女の子が』
 意外そうに返ってきた声は、霊幻のものでは無かった。ハスキーな声色に驚いてが携帯を耳から離そうとすると、電話向こうからゴソッと擦れ合うような物音がし、ようやくそこから聞き慣れた声がする。
『ほらなぁ、だからそうなんだって本当に……お〜い、。聞こえてるか?』
「霊幻先生!」
 それは確かに霊幻だったが、いつものキビキビとした口調に比べて呂律が回っていないというか、どことなく甘ったるい。
 は心配になり、携帯を持つ手に力を込める。
「大丈夫ですか?どうしました?」
はさぁ、……もう飯食った?』
「め、ご飯は、はい。夕飯はさっき食べました』
『そうか、それは……よかっ、た……』
「……先生?」
 噛み合わない会話の後、再び通話先から音がして、最初に聞こえた声の主が代わって話し出した。
『突然掛けてごめんなさいね。今、新隆ちゃん酔っ払ってて』
「あ……良かった、そういう事ですか」
 何か病気や事故などでは無かったと知り、は一先ず安堵する。
『それで、今うちの店で飲んでたんだけど、どうにも潰れちゃって動けないのよ。携帯勝手に触っちゃって申し訳ないんだけど、着信履歴に貴女の名前があったから……貴女、新隆ちゃんの恋人なんでしょう?』
「えっ、ち、違」
 否定しようとしたは、今の相手の口振りを思い出して咄嗟に口を紡いだ。少し考え、改めて問い直す。
「霊幻先生がそう仰ったんですか?」
『ええ。やだ、違うの?』
「ち……がくないです。そうですそうです」
 ここで否定しては、霊幻があちらで気まずい思いをするかもしれない。おそらく酒に酔ったノリで口が滑ったのだろうし、は話を合わせる事にした。
『良かった。それじゃあ迎えに来てあげてくれない?実は絡まれてる子もいて……うちの店、BARギャランドゥで調べれば出てくると思うから』
「はい、分かりました。ギャランドゥさんですね」
 は時計を確認し頷いた。外は暗いが、この時間であればまだ外出も許されるだろう。通話が終わって早速準備のため立ち上がろうとしたは、思わずぽつりと呟いた。
「ギャランドゥ……」
 会話の中でさらりと述べられた霊幻馴染みの店名は、時間差でに衝撃を与えていた。


 + +


 繁華街のやや寂れた場所に構えられたその店は、いかにも老舗のバーといったレンガ造りの外観をしていた。未知の世界であるばかりにもっとギラギラした夜の店を想像していたにとっては拍子抜けするくらい落ち着いた雰囲気ではあったが、それでも一応おずおずと扉を開ける。
「!あら、もしかして……」
 間接照明による薄暗い店内。入口から顔を出したを見るなり、背後に酒瓶を並べたカウンター内でグラスを磨くバーテン服の男が、興味深そうに声を上げた。
「もしかして、ちゃん?ええ、すっごいかわいい子ねえ!?新隆ちゃんもやるじゃない!」
「あっ、さっきの電話の」
 も男に向かって慌てて頭を下げた。
 電話の口調からは、女性なのか男性なのか判断が付かなかったが。それにしても特徴的な顎を持つ店主の勢いに気圧されながら、は口を開く。
「それで、霊幻先生は……」
「ここよ、ここ。ほら、新隆ちゃん。ちゃん来てくれたわよ」
「……ん〜〜……?」
 店主から揺り起こされると、カウンターに伏していた霊幻も寝ぼけ眼を擦りながら顔を上げる。酒を飲んでいる途中で暑くなったのか、ジャケットは脱いで今はやや襟元を崩したワイシャツ姿だ。まだ酔いが抜けていない彼は、心配そうに隣へと寄ってきたを見るなりへらへらと上機嫌そうに片手を上げた。
「おぉ、じゃねえか。何してんのー、お前」
「さっき電話でお話したじゃないですか。迎えに来たんですよ」
「はは、そうだったっ、……け……」
 途中で糸が切れたように再びゆっくりと頭を沈めていく霊幻。は店主に声を掛ける
「大分飲まれたんですか?」
「ううん、新隆ちゃん下戸だから。そこにあるレモンサワーを、サワー多めで一杯だけ」
 はえっと驚いて、霊幻の前にある中身が半端に残ったグラスに目を向ける。さして大きくもないグラスに一杯、詳しくは無いでもよほど霊幻がよほど酒に弱いのだと分かった。すると店主が腕組みしながら、同情したように付け加える。
「なにか、嫌な事あったみたいなのよね……。それで少し悪酔いしちゃったみたい」
 達にとって、常に頼れる大人である霊幻にも色々とあるのだろう。は「そうなんですか……」と応えると、改めて店主に顔を向けた。
「お店ってもう閉まっちゃいますか?」
「いえ、全然。ひょっとして他にお客さんいないから、閉店だと思った?」
「す、すみません。まだ閉まらないなら、もう少しだけお邪魔させていただこうかと思って」
 が慌てて言うと、店主はからかうように笑った。
「勿論。今日は新隆ちゃんともう一人の貸し切りのようなものだったから、ゆっくりしていって」
「もう一人?」
「あら、噂をすれば」
 すると店の扉が開いて、黒いスーツ姿の男が姿を現した。店主は肩を竦める。
「道然ちゃん本当に戻ってきたの?絡まれるのが嫌だったなら、そのまま帰っちゃえば良かったのに」
「顧客から連絡が入っただけだ」
 蘆舅道然(ろしゅうとどうぜん)。霊幻と同業で何かと彼をライバル視している。街で偶然あった霊幻と互いの意地の張り合いから、言い争いに発展し、場所を移したバーではすぐに酒に落ちてしまった彼に絡まれ続けた気の毒な男だ。
 店主に携帯電話を見せるようにそれを軽く持ち上げて返した蘆舅は、突然思い出し笑いをするかのように口に手を当てながら吹き出した。
「ぷっ……!くく……、それにここで帰ったら霊幻を笑えないだろう?あれだけ女性に縁が無さそうだった奴が、言うに事欠いて恋人が出来ただと!?ははは、そんなものが本当にいるなら見せてもらいたいね!」
 元々このような性格なのかもしれないが、この急なテンションの切り替わりを見るとどうやら蘆舅にもある程度酒は入っているようだった。
 酔っ払い二人に呆れつつ、店主は呆気に取られているに向かって手のひらを差し向けた。
「そんなに見たいなら、来てくれてるわよ」
「…………は?」
 笑うのをピタと止めた蘆舅が、間の抜けた声を出す。店主からホラと紹介されたも、そこで改めて霊幻の恋人という自身の設定を思い出し背筋を伸ばした。
 相変わらずカウンターに伏したままの霊幻、その隣で彼を介抱するように寄り添う彼女の姿を認めるなり、蘆舅は酔いから醒めるように目を開いていく。
「え……あの、もしかして……貴女は様のところの」
 の父にはいくつか敬称があったが、いずれにせよ蘆舅の反応から父の事を知る人物なのだろうと彼女は判断した。は彼に向かって頭を下げる。
「お知り合いの方ですか?父がお世話になっています」
「!いえいえ、そんな滅相もない。こちらがただ一方的に存じ上げているだけですよ」
 途端営業用のにこやかな顔に切り替えた蘆舅は、の隣の席に滑り込む。顧客の中にVIP客というものを抱える彼にとって、実はの事は既にチェック済みであった。調味市を大きな盤の目で考えた時、そこで覇権を取るにはどうにかして己の人脈の中に引き込んでおきたい重要な一角である。
「へえ、ちゃんってどこかのお嬢様なの?」
「おいっ、失礼だぞ!……はじめまして、蘆舅道然と申します。調味市で霊能事務所をやっておりまして……よろしければ、こちら私の名刺です」
「ご丁寧にありがとうございます。です」
さんですね。いやぁ、こうしてお近付きになれるとは光栄です。今日はどうして此方に?」
「それは霊幻先生が」
「……なぁ〜に、してやがんだ……」
 するとそれまで伏せていた霊幻が再びぬっと身体を起こし、に近付く霊幻の顔を、彼女越しに鷲掴みして遠ざけた。
「いだだ!な、何をする!?」
「こっちの台詞だ!距離が近いんだよ、セクハラで訴えるぞッ!」
「なぜお前に指図されなきゃいけ、……!」
 そこまで言った蘆舅は、はっと気が付いたように息を飲んだ。動揺し僅かに震える指を、霊幻へと向ける。
「待て、ひょっとしてお前の恋人というのはさんの事なのか」
「コイビトぉ……?」
 蘆舅からの問い、“恋人”という言葉の意味について、未だ酔いの抜けきらない霊幻の頭では咄嗟に処理しきれていないようだった。彼はとろんとした目付きのまましばし間を置くと。
「おお、そうだ。それ、コイビト」
 考えるのが面倒になったのか、蘆舅に対しピシッと指先を向けて頷いた。
 おそらくここに至るまでの流れも忘れているのだろうが、それでも咄嗟に相手の顔色を見て自身が優位を取ったまま事を進める言葉を選ぶ堪の良さはさすがである。実際、蘆舅は苦々しい表情を浮かべていた。
「また軽薄な物言いで……」
「軽かろうが重かろうが、お前には関係ないだろ」
「いいやそれにどうも怪しい。勿論さんではなく霊幻、お前がな」
 追求の姿勢を見せた蘆舅には内心どきりと動揺した。一方の霊幻は特に様子も変えず、続く相手の出方を待っている。
「まずそもそもの接点が無いだろう」
とは、いつかお前に褒めてもらった中学生の知り合いからだよ。あいつらと昔からのご近所さんらしくてな」
「!な、そんなところから……!?……まあいい、だが歳もいくらか離れているように見えるが」
「歳が上だろうが下だろうが、人として付き合いたいと思える相手かどうかだろ」
 そう、至極真っ当な言葉で返す霊幻。酒によっての感情の起伏というものがあるのだろう、今の彼は先程目覚めた頃と比べてどうやらまったりと緩めのゾーンに入っているようであった。
 そうなるとやや前のめりになっている蘆舅の分が悪いようにも思えたが、霊幻の落ち着いた受け答えは彼の脳裏に新たな疑念を浮かび上がらせていた。
「随分、淡々と答えるな……。さんには失礼だが、本当にそれで彼女の事を真剣に想ってい、」
「──は?めちゃくちゃ好きだわ」
 すると再びそれまでの雰囲気とは一変、霊幻は心外だとでも言わんばかりにくわと目を開き、感情露わに蘆舅の言葉を否定した。
 恥じらう事すらなく言い切った彼の迫力と、の手前という事もあって、蘆舅は焦ってフォローを入れる。
「わ、分かったよ。今のは確かにデリカシーの無い発言だった、その点は信じるとしよう」
は、俺がこいつと同じくらいの年だった頃よりずっとしっかりと物事を考えてるし、相手の中身を見る事が出来てるし……」
 やけに据わった目付きで続ける霊幻は、言葉の途中で一度何かを確かめるようにを見た。彼は立てた親指で彼女を指し示しながら、再び蘆舅の方へと真顔を向ける。
 その喉が、ヒックと小さく鳴った。
「つまり──は、かわいい」
「小学生かお前は……」
 酔っ払いが、話の途中で語彙力を喪失してしまうのは珍しい事ではない。対して既にほぼ酒が抜けている蘆舅は、呆れてそれ以上追求する気も無くしたようだった。
 するとそれまで霊幻らのやり取りを一歩引いた位置から眺めていた店長が、オレンジジュースを注いだグラスを彼らの間の席にコトと差し出すようにして置く。
「でも、そういう小学生ぐらい真っ直ぐな言葉の方が、案外響いたりするものよね」
 ねえ?と優しげに声を掛けてくる店長に、は未だ小競り合いを続ける二人に挟まれながら、肩を縮こまらせつつ苦笑で返した。


 + +


「──……、…………え?」
 血の気の失せた顔を片手で覆いながら問い返してくる霊幻に、今しがた事務所を訪ねてきた蘆舅は、デスク越しに彼を見下ろして再び応じた。
「だから、あの晩は私が立て替えたんだ。さんの分はともかくお前に奢ったつもりは無い、きっちりと返してもらう」
「いや、それはまあ分かったが……何でその話にが出てくるんだ?」
 はっきりとした記憶は無くとも、おぼろげながらどこか引っかかるものはあるのか、霊幻は動揺していた。蘆舅は訝しがるように眉を顰める。
「覚えてないのか?結局また眠って動かなくなったお前を、さんがタクシーで送っていっただろう」
「……そう言われると……そんな事もあったような、無いような……」
「タクシーに乗せるまでは私も手伝ったんだからな。まったく散々迷惑を掛けて……やはりお前のような奴には、あのように出来た女性は恋人として相応しくないな」
 溜息混じりに蘆舅が発した言葉に、事務所内の空気がピシッと固まる。
 受付で彼らの話を聞いていた芹沢は戸惑うような、その近くに浮くエクボは哀れむような眼差しを霊幻へと向ける。霊幻は彼らからさっと視線を逸らすと、改めてデスクに両肘を立てて、俯き加減に続けた。
「あの……蘆舅君。その件については何か……」
「その件とは?」
「俺がお前らに対してコイビトとか何とか、吹聴した事についてというか……」
「いや、特には……ああ、しかし惚気るのも大概にしておけよ。好きだ可愛いだ、人前で言われるのが嫌な女性だっているんだからな。現にさんも恥ずかしそうにしていただろう」
「……ソウダネ……」
 記憶を無くすほど酔い潰れて帰宅したわりには、しっかりとジャケットはハンガーに掛けられていたりだとか。戸締まりをしつつ、なぜかその鍵が郵便受けに入っていたりだとか。
 何よりその翌日に事務所で顔を合わせたが「体調は大丈夫ですか」と聞きながら、一瞬気まずそうに目を伏せたあの反応も、今にして思えば──。
 
 己の惨澹たるやらかしっぷりを改めて自覚した事でそのまま黙り込んでしまった霊幻に、蘆舅は眉を顰めた。
「おい。まずは金を返せ」
 “まずは”、
 まずは、迷惑を掛けた事を謝罪する。それから情けない話ではあるが酒のせいだと弁明しよう。余計な波風を立てないように、今はまだ冗談らしく──。
 そうして頭の中で必死にへの対応を組み立てる霊幻には、彼の前に差し出された蘆舅の手のひらは見えていなかった。