今度、二度目のチャイムはハッキリと聞こえた。霊幻は歯を磨く自身の手の勢いを弱め、視線を動かす。
 何か勧誘の類にしては朝早過ぎる。こんな出勤前の慌ただしい時間に訪ねてきてはまともに取り合う者の方が少ないだろう。それにこれでも毎月の家賃はしっかり収めているので大家という線も薄い。部屋を訪ねるような親しいご近所付き合い、自慢では無いがそんな殊勝なものは無い。
 そうこうしている内に、今度はいかにも遠慮がちに三度目のチャイムが鳴らされた。
「(……“この程度”だったら、いざとなればすぐ追い返せるか……)」
 口をゆすいだ水を洗面台に吐き出すと、シャワー後のために裸であった上半身に脱ぎ捨てていたスウェットだけを再び着て、玄関へと向かった。
 仮に何かの勧誘だとすればまず相手に優位は取らせまい。霊幻は敢えて無言で戸を開けた。
「わっ!……びっくりした。おはようございます」
「……は??」
 びっくりした、は霊幻の台詞である。
 予想だにしなかった訪問者であるを前に、彼は頭上にいくつもの疑問符を浮かべた。
「ど、どうしてここに……」
「茂夫君からのメール見ていませんか?」
 言いながら、は肩から提げていた自身のバッグを探る。そこから取り出した鍵に朝日がきらりと反射した。
「事務所の鍵を先生から預かったまま持って帰っちゃったって。茂夫君は学校があるので、私が代わりに届けに来たんですが……」
「……あ。あーあー、それな!思い出した!」
 ようやく合点がいって霊幻はポンと手を叩いた。
 昨日は仕事が終わってから早めに事務所の戸締まりをしたのだが、外に出て革靴を履き直すため何気なぐモブに鍵を預けて、結局そのまま忘れてしまっていたのだ。
「それにしてもまさかモブもに頼むとは……。俺としては事務所の郵便受けにでも入れといてくれたら良かったんだが」
「朝練もあるのに可哀想ですよ。私今日は、ちょうど講義も無かったので」
 霊幻に鍵を手渡すと、は無事におつかいを終えた達成感から、満足気に頷いた。
「では私はこれで。お邪魔しま、」
「え」
 その声にが反応し見上げると、霊幻は何か悩むような仕草で腕を組んでいた。彼はしばし自問自答を続けるかのように「いやいや」「うーん……」などと一人唸った後、改めての方に顔を向けて。
「まあ……、少し上がっていけよ。礼にコーヒーぐらいは淹れてやる」
 そう言って、彼女を招き入れるように玄関戸に自身の背を預けたのだった。


 + +


「すみません、私だけソファーに」
「そこに並んで座るのも変だろ。コーヒー、少し熱くなってるかもしれないから気を付けろよ」
 を部屋に通した霊幻は彼女を二人掛けのソファーに座らせると、彼女から斜め向かいの位置にどさりと腰を下ろし、床に直接胡座をかいた。彼女の分よりやや濃い目に淹れたコーヒーに、ずず……と口を付ける。
「そう言えば、スーツ以外の先生は久々に見ました」
 そんな霊幻の姿を見てが声を弾ませると、彼はカップから口を離して微妙な表情をみせた。
「別に、そんな物珍しいもんでも無いだろ。ただの寝巻だし」
「新鮮ですよ!そのプリントってくまベアーですよね。先生、好きなんですか?寝る時もいつもその格好で?」
「いやこれは適当に何着か買っただけ……って、おおなんだ、結構グイグイくるな……」
 本来この部屋の主である霊幻だが、いかにも興味津々といったの勢いに、どうにも押されがちになってしまっていた。するとは彼の背後に見えるベッドをじいと見て。
「ベッド……狭くありませんか?」
「はっ、別に!?一人で寝るだけだかるぁ!?」
 思わず声を裏返らせ、くわっと目を見開きながら反論した霊幻に、は慌てて手を振った。
「失礼があったならごめんなさい。私だったら寝てる間に落ちてしまいそうなので、先生は寝相がいいんだなって」
「!な、なんだよ。そういう意味か」
 確かに、にしては際どい話題を振ってきたなと思ったのだ。危うく墓穴を掘るところであった霊幻は、ハッとして我に返る。
「なに、じゃあ普段は相当でかいベッドに寝てたりするわけ?」
「大きいといっても、クイーンサイズですよ」
「ハハ、マジか。……俺んちだったらそれだけでスペースのほとんどが埋まるな……」
 霊幻は乾いた笑いを洩らしつつ、の家が生粋のお金持ちであった事を思い出していた。
 あまりに暮らしぶりの違うから見たら、独身男の冴えないワンルームはそりゃあ新鮮に映ることだろう。当初を招き入れるか躊躇った時の理由とはまた別に、霊幻はやはりこの部屋を彼女に見せるべきではなかったのではと思い始めていた。
「(男の一人暮らしにしちゃ片付いてる方だとは思うが、面白みというものには欠けているとも言える……)」
 一応プロフィールには『趣味 ネットサーフィン』としているが、あれは趣味のひとつさえないのもどうかと思ったわけで。仕事でホームページの更新などもしており、まったくの嘘というわけでもなく、無難かなと思ったわけで──。
「(実際に部屋まで見られるパターンは想定してなかったからな……。ダーツボードでも飾っとくべきだったか?そんなにやった事は無いが、塩を投げる要領でいける気がするし)」
 カップで口元を隠したまま劇画タッチの真顔で黙りこんでいる霊幻にが声を掛けた。
「上がり込んでしまった私が言うのも何ですけど、時間は大丈夫ですか?」
「ん?ああ、その事なら……」
 真顔モードをふっと解除して、霊幻が応じる。
「律儀に届けてもらった手前、若干言い出しづらかったんだが……実は芹沢にはスペアキー持たせてるんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
「仮に芹沢が忘れてたとしても、あいつなら鍵くらいどうにか出来るだろ。今日は午後からのアポで、どうせ午前は暇だし」
 霊幻が、最後の方は大きなあくび混じりに対超能力者における施錠行為の無力さを語ったところで、は少し考えるような間を置いてから続けた。
「でも飛び込みのお客さんとかが来られた場合に、芹沢さん一人だと」
「それは……確かに、あまり大丈夫ではないな」
 片膝に手を置いて立ち上がった霊幻に合わせて、もソファーから腰を上げる。
「台所お借りしていいですか。私カップ洗います」
「おお、頼む。すまんな、結局バタバタさせて」
「とんでもないです」
 しかし二人分のカップを手にしたは、霊幻がじっと真顔で彼女の事を見つめている事に気が付き動きを止めた。すると霊幻がその表情は変えぬまま口を開く。
「ちなみに、洗いものには時間掛ける方か?」
「時間……普通ですかね。あっ、水はなるべくたくさん使わないように気を付けます」
「いや。そういう意外と庶民的な感覚は助かるが、そうじゃない」
 すると霊幻は遠回しな表現が面倒になったのか、親指で自身を指して続けた。
「お前にそっち頼んでる間、俺はスーツに着替えようと思ってな。一応ここで服脱いだりするから、先に言っておこうと思って」
 うっかり見たくないものを見せるのも悪いだろ、と。
 彼の言葉を徐々に理解していったはその動揺を表情にも滲ませていく。
「わ、私は声を掛けられるまで絶対にこちらの部屋は見ないようにしますから、大丈夫です」
「……おやおやぁ?ちゃん、もしかして今になって何か意識しちゃってる?」
「止めて下さい」
「(やべ、調子乗った)」
 すんっ……、とそこでが心を閉ざしてしまったため、霊幻はそれ以上彼女をからかうのは止めた。
 だが、そうでもしないと──この状況は霊幻にとっても気恥ずかしいものである事には違いなかったのだ。


 + +


「先生、電話が鳴ってますよ」
「ん?……ああ、そっち置きっぱなしだったか。悪いけど、誰からか見てくれ。芹沢からだったら代わりに出てもらえると助かる」
「分かりました」
 部屋の外から未だ着替え中の霊幻に声を掛けたは、彼の指示に従って着信音を辿り、洗面台の側に置かれていた携帯電話を手に取った。
「芹沢さん……」
 画面に表示されていた名前を確認し、一度霊幻のいる部屋の方を振り返ってから通話ボタンを押す。
『あ、繋がった……。霊幻さん、おはようございます』
「おはようございます、芹沢さん」
『………。……す、すすすみません間違えまし……!』
「あっ、私です!です!」
さん……?あれ、今霊幻さんの番号に掛けたと思ったんだけど……』
「はい。これは霊幻さんの番号で間違いないんですけど、私が代わりに出させてもらって」
「芹沢か?」
 いつの間にか着替えを終えて部屋から出てきていた霊幻に、が振り向き頷く。彼が「ん」と手を差し出すと、彼女もそのまま携帯を手渡した。
 霊幻はオッホンとわざとらしい咳払いをして、携帯を耳に当てる。
「……あー、芹沢?」
『霊幻さん!すみません、今事務所に着いたんですけど勝手に入ってしまっていいものか確認した方がいいかと……』
「全然いいよ。というか、俺は少し遅れていくから、それまで適当にやっててくれ」
『ええっ?……は、はい、分かりました。俺一人でやれるかな……。……、……霊幻さん?』
 なぜか不自然に黙り込んでしまった霊幻の事を不思議に思い、芹沢は声を掛ける。すると電話口の霊幻は、またオホンオホンと小さな咳払いをした。
「いや……えーと、……悪いな、さっきは俺が電話に出なかったから驚かせただろ?」
『ええ、間違ったのかと……。霊幻さん、今さんと一緒なんですね』
「そ、そうなんだよ!はは、参ったなー、モブ達みたいなお子ちゃま連中には黙っててくれよ?」
『?はい、分かりました』
「…………おお」
 そうこうして芹沢との通話を終えた霊幻は、微妙な表情で頭をぼりぼりと掻きながら呟く。
「牽制にもならなかったな……、こいつもそっち方面はお子ちゃまだったの忘れて……うわっ!」
 振り返った霊幻は、そこでずっと彼の様子を見ていたとの距離の近さに改めて驚き仰け反った。その勢いのままゴンッ!と重たげな音を立てて固い洗面台の角に頭をぶつけた彼は、後頭部を押さえて俯く。
「つぁあ〜……星が、星が飛んでいる……」
「だ、大丈夫ですか?」
 薄っすらと涙目になりつつも顔を上げた霊幻は、まるで強がる子供のようにオウと頷いた。
 そんな朝から何かと賑やかな霊幻の行動に、は申し訳ないと思いつつも小さく笑うと、その襟元へと手を伸ばした。彼女の指先がネクタイの結び目に触れると、霊幻の身体がぎくっと揺れる。
「少し曲がってますよ」
「……慣れてるな」
「小さい頃から父のネクタイを結ばせてもらってたので、これだけは出来るん……、……先生?」
 ネクタイから手を離したの両肩に、いつの間にか霊幻が手を置いていた。
 表情から何か考え込んでいる事は分かるのだが、何を考えているのかまでは読み取る事が出来ず。はやや緊張しながら、彼を見上げ待った。
 そうしている内に、霊幻は一度彼女の肩から手を僅かに浮かせて。そのまま何かを逡巡するかのような、僅かな静止の後──、

 ──ぱっぱっと、軽く彼女の肩先を払い、何事も無かったかのように再び腕を下ろした。
「……肩にゴミが付いてたぞ」
「そう、でしたか?ありがとうございます」
「うん……」
 心ここにあらずといった様子で頷く霊幻。
 案の定。この時の選択の是非については、今晩も寝る前に彼の頭を悶々と悩ませる事になるのである。