肩から荷物を降ろしたが事務所のソファーに座ると、霊幻は仕切り直すように手を叩いた。
「よし、それじゃあ始めるぞ」
「よろしくお願いします」
 律義に頭を下げるの言葉を受けて、霊幻は腕組み状態のまま思案する。しばらくして考えがまとまったのか、彼はその手をの頭の周辺にゆっくりとかざすと。
「え〜……、まーかーはんにゃーはーらー、み?……みーたー」
 背後から聞こえてきた覚えのある節に、もそっと両目を閉じ手を合わせる。
「うんーにゃー、ほんにゃー……」
「(あっ違う、私の知らないやつだ)」
 早とちりして手を合わせてしまったを焦りと羞恥が襲うが、今更構えを解くのもどうかと思い、取り敢えずはその状態を維持する事にした。
 それに以前、このような場面ではなるべく無心に、心を預けるのがよいのだと霊幻から聞いた事がある。そうでなければ折角時間を割いてくれている彼にも申し訳ないと、は再び意識を落ち着かせていき──。
「まーかーはんにゃー、はーらーみーたー」
「(あれ、また)」
 所謂皆がよく知っているであろう文言を、霊幻は特に念入りに繰り返していた。気のせいかこの部分を差し掛かると声も大きくなり、自身に満ちて堂々としているように感じられる。
 今までもそうそう耳にする機会があった訳ではないが、こんなに何度も同じような節が繰り返されるようなものであっただろうか。いや、先程の謎の言葉を思い出すとそもそもが違うものであるのか。
 意識を落ち着かせるどころかまたあれこれ考え始めてしまったの背後で、霊幻は息を吸うとくわっと勢い良く開眼した。
「キエエエッ!!!」
「!」
 突然の大声にの肩がびくりと跳ねる。
 そして、水を打ったような静寂がその場を支配して──霊幻はの頭上から手を降ろした。


 + +


「段々、雑になってきてないですか……?」
「!ば、馬鹿言え」
 自身のデスク脇に立って一息ついていた霊幻は、ソファーで首を傾げるからの指摘に慌ててそちらを振り向いた。
「でも今日のもそうですけど、最後気合を入れて締めとけばみたいな傾向が」
「あーこらこら、そういう疑心暗鬼は良くないぞ。前にも言っただろ、な?」
 霊幻がニコニコとした笑顔で言うと、はハッと我に返って申し訳無さそうに眉を下げた。
「そ、そうでしたね。すみません、私また失礼な事を言ってしまって」
「いいや、お前みたいに霊に憑かれてる事に自覚の無いタイプだと疑いたくなる気も分かる。……となると、俺の事を信用してもらうという他はないんだが……」
「それは大丈夫、茂夫君たちの事もあるし霊幻先生の事は信用しています」
 すると霊幻は「そうか……」と短く返し、施術の疲れを取るかのよう大きく背伸びをしながら、彼女に背を向けた。
 窓ガラスに映る彼の顔。その口の端が、ひくりと引きつる。
「(まずい……、これじゃあますます言い出すタイミングが……)」
 あれは茂夫と出会って日も浅い頃、まだランドセルを背負っていた彼と、事務所の近くを歩いていた時だ。
 霊幻がふと気配を感じて背後を振り向くと、そこには聖ハイソ女学園の制服を着た、おさげ眼鏡のいかにも生真面目そうな少女が立っていた。
 一瞬、無言で見つめ合うような間があっただろうか。
 それからやや遅れて振り向いた茂夫があっと親しげに少女の名を呼ぶと、そこで何かを察した霊幻は視線を素早く動かし、少女の耳元に当てられた携帯電話の存在を捉えた。──瞬間。
「“その子から離れろォ”!!」
 まさに自分が言おうとしていた台詞を先に言われ目を丸くする少女の肩先に向けて、彼はビシッ!と力強くよく指先を突きつけたのだった。
「(……あの咄嗟の判断が無ければ、危うく不審人物として通報されるところだったからな……)」
 それから困惑する少女、を強引に説き伏せお祓いのようなものをしてやったのが、そもそも最初である。
 茂夫曰く、近所に住む彼女とはかねてより家族ぐるみで親交があるのだとか。おそらくあの時は、知り合いの小学生を連れ回している見知らぬ大人の姿を見て、何とかしてやらなければと思ったのだろう。
 霊幻が驚かされたのは、その後勢いを弱めたが、除霊料として彼が真顔で吹き出すくらいの大金を提示してきた事だった。さすがに怖じ気付き、「サービスだから」など声の震えを堪えつつ返した事は、結果的にからの心象を大きく改める事に一役買った。


 しばらく黙り込んでいる霊幻の事を不思議に思いつつも、は彼の背に向かって声を掛けた。
「私の除霊、あと何回くらいかかりそうでしょうか。講義の方はある程度調整出来ると思うんですが、近い内にバイトも探してみようかなと思ってて……」
「あ〜……、そうだな……」
 今やすっかり霊幻を信用したと、彼との付き合いも短いものではなくなった。やや世間擦れした金銭感覚から察するに、案の定“相当大きな家に住んでいる”らしい彼女との縁をあそこで切るのも惜しいと思い今日までに至るのだが、今やそれなりの情も湧いている相手に対しどうこうしようという程、霊幻も非道な男では無い。
 霊幻は何かを決意するように短く息を吐いてから、再び彼女の方へと振り向いた。
「なあ。実はお前に大事な話が──」
「霊幻先生?」
 口を開いたまま静止した霊幻は、としばし向かい合ってから「えっ」と間の抜けた声を出して彼女を指差した。
、お前髪伸びたか?」
「髪ですか?おそらくそこまでは……今日は下ろしてるからですかね」
「……眼鏡は?」
「眼鏡も今日は掛けていませんよ。少し前にコンタクトにしたって言ったじゃないですか」
 大事な話というので多少構えたものの、今更感のある問いに、は思わず拍子抜けしながら応えた。
 しかしそんな彼女とは対象的に、霊幻は更なる動揺を見せる。
「いやいやいや、と言えば黒髪おさげで分厚い眼鏡の委員長スタイルだっただろ!?」
「私もう委員長ではないですし……それに、少しくらいお化粧したりおしゃれもしてみたいなって」
 の言葉が届いているのかいないのか、霊幻は彼女の事を凝視していた。ゆっくりと距離を詰めてきた彼の異様な迫力に気圧されて、はソファーに座りながらも思わず上半身を引く。
「お前もしかして……彼氏というものを、作ろうとしているんじゃ……」
「そ、そういう理由だけではないですけど……あの、これが大事な話ですか?」
「……いや」
 すると霊幻は、少し考えるような間を置いてから。
「お前の除霊だが、少なくともあと一年……いや、もうしばらくは掛かりそうだ」
「えっ、そんなに」
「いいか、。現時点で何も問題は起きていないんだろ?」
「はい……正直、本当に憑かれてるのかなってくらい何も」
「それもこれも、この霊幻新隆の“リボ祓い”が霊にさえ気が付かれず、やつらを刺激しない程度の絶妙なラインを見極めているからこそと言える……。これは並大抵の霊能力者には真似出来ない芸当だろう」
 するとは口ごもって、やがて諦めたようにしおしおとその肩を落としていった。
「アルバイトの件はもう少し考えます……」
「おお、そうしてくれ。つうか、お前はお嬢なんだし別にバイトなんてする必要は無いじゃねーか。金に困ってるってわけじゃないんだろ?」
「アルバイトは、周りの子達が始めてるので私もやってみたいなって」
「あのなあ。いいのか若者が、そんな右倣えの精神で」
 すると霊幻は自身の頭上に視線を向け、考えるような素振りを見せてから。
「そんなにバイトがしたいなら、うちに来てみるか?」
「いえ、折角ですけど」
「早ッ!」
 やんわりとではあるが、即答で拒否の意を示したに霊幻はショックを受ける。
「おま、そんなあっさりとお前……。えっ何、こんな地味で暗くて時給も安そうなところで働くのは恥ずかしいって……?」
「そ、そんな事は思ってないですよ。芹沢さんもトメちゃんもいるのに、私が来てもやる事ないじゃないですか」
「あるよ!暇そうに見えてこれでも色々と……その、色々とあるから!」
 肩で息をする霊幻。彼は驚いた顔のとしばし見つめ合ってから、そっと視線を逸らした。
「あの、霊幻先生……」
「……うん悪い、分かってる。どうしちゃったんだろうな俺……」
 霊幻は腕組みしながら、ううんと不思議そうに首を捻る。そうして彼が一人考えこんでしまった事でやや手持ち無沙汰になったは、自身の肩先をぱっぱと手で払ってみたりしたのだが。
 相変わらずそこには、何の感触も、当然気配すら感じられなかったのである。


 + +


「すみません、今戻りました」
「おお、ご苦労さんー。支払いのやり方わかったか?」
「それが迷ってたら窓口の方が声を掛けてくれて……。あの、やっぱり俺、銀行よりも郵便局の方がまだ緊張しないでいけるような気がします」
「ここからだと普通に銀行の方が近いんだけど……。まあ俺としては徐々に慣れてくれればそれでいいが」
 霊幻から何か頼まれごとでもしていたのか、大きめの茶封筒を手に戻ってきた芹沢は、部屋の中のに気が付くと目を開いた。
「あ、さんも。こんにちは」
「こんにちは」
 霊幻は芹沢から封筒を受け取りつつ、芹沢とのやり取りに微妙な表情で口元をむずむずと動かす。
 その様子に二人が不思議そうな視線を向けると、彼は短く息を吐いて、気を取り直すように「よし」と呟き顔を上げた。そして受け取った封筒を、芹沢を労うようにしてその胸元にぺしぺしと押し当てる。
「ここのところ仕事が暇なせいで、雑用ばかり任せる羽目になってすまんな」
「い、いえいえ!俺にとってはありがたいです。こういう色んな手続きとか、よく分からないまま今までやってきたので……」
 芹沢が背を丸めて頭を掻くと、がソファーから身を乗り出して会話に加わった。
「それ分かります。私も、最近になって初めて自分の口座を作りましたよ」
「へえ、それはすごい!さん、大人だなあ」
「おい、なんだ。俺は今小学生の会話を聞かされてるのか?」
 霊幻は彼らのやり取りを尻目に、呆れながら自分のデスクへと戻っていく。
さんは、今日も霊幻さんにお祓いをしてもらいに来てたのかい?」
「はい、そうです。あ、そうだ……芹沢さんにも、私に憑いている霊は見えるんですか?」
 その言葉に、ちょうど椅子に腰掛けようとデスクに手を置いたところであった霊幻がピクッ反応し、俯き加減に静止した。
「それが、俺には見えないんだ。おそらく霊幻さんみたいな専門家じゃないと難しい、特殊なタイプなんだろうね」
「やっぱりそうなんですか……茂夫君たちも同じみたいで、霊幻先生の時間ばかり取らせてしまうのも申し訳ないと思ったんですけど……」
 そんな二人の会話を聞き届けてから。霊幻は再びゆっくりと動き出し、椅子に腰掛けた。デスクの上に両肘を立てて、やや前傾姿勢を取った顔の前で手を組む。
「なに気にするなよ。本来の仕事に支障があるわけじゃないし、俺も暇な間に腕を鈍らせてるよりずっといい」
 霊幻からの頼もしい言葉に、芹沢とは表情を明るくする。
「よかったね、さん。霊幻さんに任せておけば大丈夫だよ」
「そ、そうですね。安心です」
 彼らの反応にふっと笑みをこぼして、霊幻は椅子をくるりと回した。
「ところで、これは今までの話の流れとは全く関係無いんだが……お前ら、もし今後変なセミナーとか怪しい儲け話に誘われたら、まずは俺に報告しろよ」
 芹沢とは互いに顔を見合わせてから、いまいちピンとは来ていないかのように「はぁ」と応じる。霊幻は椅子の背凭れをギシ……と軋ませながら、窓の外、青く晴れた高い空を見上げていた。