事務所のテーブルに置いていた携帯が振動するとはそれを手に取った。するとそれまで退屈そうにしていたエクボもふらりとの背後にやってきて、彼女と共に画面を覗き込む。
「おい。律のやつこっちに返事寄越してるぞ」
「なに?」
 エクボの言葉に真っ先に反応したのは、デスクで自身の携帯を手にしていた霊幻だ。彼は開いていた携帯をパチンと閉じてに声を掛ける。
「律はなんて?」
「土曜は、本当に私も一緒に行くのかって」
「連絡したのはお前なのに、相変わらず信用されてねえなー」
 エクボからの指摘に、霊幻は口の端を引きつらせる。だが彼はすぐに気を取り直したように短く息を吐いて。
「それじゃあ律にはの方から返事しといてくれ」
「しました。……あ、今返事も来て、律君も土曜は来てくれるそうです」
「……前から疑問には思ってたんだが、俺はそんなにあいつに嫌われるような事したか?」
 あまりにも露骨な態度の違いに霊幻が呟くも、エクボは彼の頭上に浮かびながら「知らね」と素っ気無く返すだけだった。するとそれまで本棚を整理しながら様子を見ていた芹沢が、申し訳無さそうに声を掛けてくる。
「申し訳ありません。俺がその日は出られないせいで、影山君たちにまでに迷惑を掛けてしまって」
「あーいいよ、気にするな。それに土曜は元々休みだったんだし」
 言いながら、霊幻は今回の依頼人が置いていった一枚のチラシを手に取った。通年営業しているそのスケート場は、彼もよく知る昔からの施設である。
「調査の為に貸し切りに出来るのがその日だけって言うんだから仕方がないだろ。それにしても俺がガキの頃からあるが、今もそんなに流行ってるのかここ」
「最近はスケート場だけじゃなく敷地を広げて他のスポーツでも遊べるようになってるので、私も友達と行ったりしますよ」
「……へえ、そうなんだ」
 デスクに片肘を突いて応える霊幻の顔の横にエクボが近付く。
「ひょっとしたら男友達かもな〜?」
 意地の悪い笑みを浮かべるエクボを、霊幻がそちらには一瞥もくれずにシュバババと手で払う。そんな無言の攻防を繰り広げているうちに、今度は霊幻の携帯が短く鳴った。
「お、テルも行けるか。よしよし、これで揃ったな。芹沢は……確か法事だったか?」
「はい。実は今までは避けていたんですが……再就職したんだから、一度くらいそういった親戚の集まりにも顔出すようにと言われまして……」
「そうか……親戚の……」
 すると霊幻はふと真剣な表情になり続ける。
「いいか、色々と詮索されるだろうが、耐えていれば時間ってのは過ぎていくもんだ。念の為菓子折りと名刺は忘れずに持っていくようにしろよ」
「えっ!?あ、はい!待って下さい、今メモを……えっと菓子折りと……名刺も、ですか?」
「まあ実際に出す場面はそうそう無いかもしれないが。それがどんなに胡散臭、見慣れない肩書だとしても、個人の社会性を示すのに間違いないツールではあるからな。もしも仕事内容を聞かれたら……そうだな、サービス業って事にしておけ」
「心霊相談所で働いているって言ったら駄目ですか?」
「……そこは依頼人に対しての守秘義務があるし、あまり興味本位で探られるのも困るだろ。ああそれと、他に間違いなく聞かれるのが……」
 霊幻の芹沢に対する熱心な講義が続く中、の傍にやってきたエクボが囁く。
「あいつ絶対自分も経験があるな」
 同意するように、もこくこくと頷いた。


 + +


 屋内とはいえ、やはりリンク内は少し肌寒さを感じるくらいにひんやりとしていた。は氷の感触を確かめるようにリンクを一周すると立ち止まり、寒さに備えて着込んできたはずの身を僅かに震わせる。
 するとの背後から同じように滑ってきた花沢が、彼女を覗き込むように声を掛けた。
さん、大丈夫?もしも寒い時は予備の上着があるから言って下さいね」
「ありがとう。多分、滑ってるうちに暖かくなってくると思うから」
 そんなやり取りを交わす二人を、リンクサイドから無言で見つめるのは律であった。
「?律、どうかしたの」
「……いや、何でもないよ兄さん。それより、危ない時は僕が支えるから心配しないでね」
 弟からただならぬ気配を感じた茂夫が必死に壁に掴まりつつ振り返ると、律はすぐさま安心させるように笑みをみせて兄に返した。
 しかし、彼は茂夫の正面──壁を挟みリンク外に立っている霊幻に目を留めると、再び表情を変えてそちらに冷ややかな眼差しを向ける。
「僕だけならともかく、兄さんやテルさんまでこういう場所に誘うなんて……霊幻さん、二人が受験生って分かってますか?」
「まあまあ、そう言うなよ。こういうのも少しは気分転換になるだろ」
 すると彼らの会話を聞き付けてか、と一緒に滑ってきた花沢もそこに加わった。
「それってもしかして、滑った滑らないのゲン担ぎみたい話かい?弟君も案外古風なところがあるね。僕なら気にしないから平気だよ」
「ゲン担ぎって……」
「ああっ、兄さん!ほら手、大丈夫?」
 律はいまいち皆のやり取りにピンときていない茂夫の肩に手を置いて、振り返ろうとした視線をぐりんと前方に戻す。花沢は傍から見ていてもいらぬ気苦労の多そうな律の様子にやれやれと肩を竦めると、霊幻の方へ顔を向けた。
「本当にただ滑ってるだけでいいんですか?」
「ああ。転ばされたのは、普通の利用客だったらしいからな」
 誰かに足を掴まれたような気がした。転んで打ち付けた箇所以外におかしな痣が出来ていた。
 客からそういった苦情が出始めたのは、ここ数カ月の話だったという。始めは件数も少なく、何かの勘違いだろうとまともには取り合わなかったのだが、同じような報告が増え一部の利用客の間では噂にもなり始めたとあって、霊幻の元に依頼をする事を決めたのだと──。
 霊幻は腕組みをして、茂夫らに声を掛ける。
「で、俺の見解を語る前に……お前らとしてはどうだ?」
「入った時から見られてはいるので……確かにいるみたいです」
 おそるおそる壁から手を離そうと試みつつ茂夫が応えると、律と花沢もそれに同意した。
「僕も兄さんと同じで視線は感じるんですけど、今のところ何かしてくるような気配はないですね」
「こちらから引っ張り出そうと思えば出来そうですけど、どうしますか?」
 花沢が、以前のヤンチャさを覗かせるやや過激めいた発言を親指を立てて爽やかに述べたところで、霊幻はウムともっともらしく頷いた。
「皆、俺と同じ意見か。だが無理矢理ってのはなるべく避けたい。依頼者には、今回のような事が起こり得る状況の特定まで頼まれてるしな」
 霊幻の背後からのエクボがヒョコッと姿を覗かせる。
「別に、霊にとっちゃ好き勝手やってるだけかもしれないぜ?」
「いや。貰った資料を見てみると確定では無いが、一定の傾向はある」
 霊幻は持参していた資料の束に視線を落とすと、それを手の甲でパシパシと叩いて続けた。
「霊に接触されたのは全員男で、男女同士……つまり、カップルで来ていたところをやられたらしい」
 霊幻がゆっくりと持ち上げた顔の先、の方へと一同の視線が自然と集まった。
「というわけで、今回はにも協力してもらおうと呼んだわけなんだが……」
「私が“女の人”の役をすればいいんですよね?」
 霊幻からあらかじめ話を聞いていたは、頷きながらそう返した。
「トメちゃんにも声を掛けようとも思ったんだが、あの子には一応星田君というフラグの立った相手がいるからなぁ……」
「えっトメさんってそうなんですか?」
「トメちゃんが全く気が付いてない分、今のところは望み薄ってところか。だが高校生活ってのは何が起こるかは分からん」
 驚く茂夫に霊幻が説明してやる間、律と花沢はなぜか黙り込んでいた。はそんな二人を気にはしつつも、今度自分はやや自信なさげに口を開く。
「でもよく考えたら私につとまるかどうか……皆より年も上だし、並んでてもお姉ちゃんみたいな感じにしか見えないかもし、」
「「そんな事(は)ないです」」
 途端、律と花沢から声を揃えて否定され、は思わず言葉に詰まる。彼らの様子を見ていた霊幻は短く溜息を吐くと、ひらひらと手を振った。
「というわけで、律かテルどちらでもいいぞ。モブに至っては霊に足を掴まれるどうこうの問題じゃないみたいだしな」
「面目無い……」
「それじゃあ、僕から行こうかな」
 花沢が、すっと片手を挙げる。
さんと並んでリンクを一周。もしも途中で異変があればその場で除霊。流れとしては、そんなところですかね」
「ああ、そうだな……頼む」
「弟君もそれでいいかい?」
 花沢から声を掛けられた律は一瞬ピクッと眉を動かしたが、ニコリと人の良い笑みを向けてくる彼と視線を交わすと、同じように返した。
「ええ。構いませんよ」
「よかった。それじゃあさん行きましょうか」
「うん。よろしくお願いします」
 そうして滑り出す二人を見送りながら茂夫は感心したように声を出す。
「二人ともスケート上手だなあ……」
「シゲオはちょっと下手くそすぎだろ。どうなってんだその足」
 バランスを取るためにプルプルと小刻みに震え続ける茂夫の足元を、エクボが呆れたように指摘する。霊幻は遠くに離れた二人の姿を眺めながら、ポツリと口を開いた。
「だが確かにの方は意外だったか……。ずっと眼鏡だったし、あんま運動のイメージとか無かったのに」
さんは元々運動は得意ですよ」
 霊幻は壁際に背を預けながら話す律をちらと見下ろすと、視線だけは前に戻しながら、やや声を潜めて彼に話し掛けた。
「……意外といえば、律。よくあそこで素直に譲ったな」
「譲ったとか、そういうつもりはないです。それにあの二人では何も起きませんし」
「は?」
 すると律の言う通り、花沢とはリンクを一周するとまた何事も無く元の場所へと戻ってきた。
「んー……、これといって変わった事は無かったな。それに思ったより気配が薄くて掴みづらいというか……さんはどうでした?」
「私の方も何も」
 なぜ分かったのかと霊幻が律を改めて見下ろすと、その視線を感じた律が何て事はないとばかりに応える。
「もしも何か起きるなら、さっき二人でいた時に起きてるでしょう」
「!あー……、それはそうか」
 律は「それに……」と付け加えながら、待機していた壁際からゆっくりと背を離した。彼の視線の先には、和やかに談笑を続ける花沢との姿がある。
「カップルには見えませんから。──どう見ても」
「(本気で分かりやすいなこいつ……)」
 一回りは年の離れた霊幻から言わせると、普段大人びた律のこういった一面はいっそかわいらしくさえ思えるものだったが、本人に伝えるとまた露骨に機嫌を悪くさせそうなので黙っている事にした。


「──まあ、しかし。何も起きなかったな」
「ま、待って下さい!もう一周すれば何かあるかもしれないっ……!」
「弟君それさっきも言ってたよね」
 その後、パートナーを替えて律とが滑ってはみたものの、結局何も起こる事は無かった。リンクを何周もした事で段々と紅潮し始めたの頬の横へ、エクボが同情するような素振りで近付く。
も付き合わされて大変だな」
「私は運動不足だしちょうどいいよ」
「ここはいよいよシゲオの出番なんじゃねえか〜?」
 エクボに振られた茂夫は再び壁に掴まりながらえっと声を出す。
「い、いや。律や花沢君みたいな見た目もカッコいい二人で無理だったなら、僕なんてとてもさんとカッ……、カップルだなんて」
「そうじゃなくて。お前ならさっき花沢が言ってたように引きずり出せるだろ」
「……ああ、そっち」
 すると茂夫はやや落胆した様子をみせてから。
「でも無理矢理はよくないんですよね、師匠」
「そうだ。そう言えば、霊幻さんはまだ試してないじゃないですか」
 花沢が何気無く発した一言に、一同の視線が霊幻へと向けられる。
「今日唯一の社会人枠でしょう。パターンの一つとして試してみるのもありかなと」
「まあ……この霊にはどうやら本質的な所は見えていないみたいですからね」
「…………師匠?」
 しかし、気まずそうに視線を泳がせる霊幻は、その場からすぐには動こうとはしなかった。途端一同の中に広がった疑念を、エクボが代表して投げ掛ける。
「お前ひょっとして滑れな──」
「いや、滑れる」
 そこはなぜかキメ顔で、霊幻は食い気味に否定した。だが彼は皆からの問い質すような視線を受けると言葉に詰まり、今度はやや歯切れ悪い口調で続ける。
「ただ、俺もここに来たのはガキの頃以来で、多少のブランクというのは否めないというかだな。それに氷の上で塩を撒くってのにもリスクがあるし……」
「昔は滑れたって事ですか?」
「滑……滑れたに決まってるだろ、そりゃあ」
 花沢からの確認にも、霊幻はどことなく頼りなさげに返した。するといたたまれない気持ちになったが、努めて明るく声を出した。
「やってみましょう。霊幻先生の感覚が戻るまでは、私が手を引かせてもらいますから」
 そこで大きな反応を示したのは、律と花沢である。律は目を見開き、花沢は腕を組んで苦笑する。
「(くっ、しまった……!)」
「……その手があったか……」
 一方霊幻は、の言葉に希望を見出したように安堵の表情をみせた。
「そうだな、感覚が戻るまで……」
「はい。ゆっくり周ってみましょう」
「……。よぉし、行くか!まー確かに、この課題は中学生には荷が重かったかもしれないな」
 霊幻の余計な一言に、冷ややかな視線が集中する。
 しかしすっかり元の調子を取り戻した彼は特に気にする事は無く、しかしなにか思い出したように「あっ」と小さく声を出すと。
「ちょっと待ってろ。ヘルメットと……、サポーター借りてくる」
 またほんの少しだけ弱気になって、そう言った。


 + +


「だ、大丈夫か!今俺は、結構そっちに体重を預けてしまっている状態なんだがっ!?」
「大丈夫ですよ。ただもう少し身体の力は抜いて、上体は起こした方がいいかもしれないです」
「そうしたいのは山々なんだが、さっきから足がどんどん後ろに下が……はっ、まさかこれは霊の仕業か……?おーい、出たぞ!見てるかモブ!」
 おーいおーいと遠くから必死に呼び掛けてくる霊幻に、茂夫が口の横に両手を当てて返した。
「大丈夫です、師匠。どこも掴まれてません」
「まあ、でも……」
 そうぽつりと呟いて、花沢が続ける。
「……いるにはいるね」
「何か、出てきちゃってますね……」
 茂夫らの位置からも視認出来る程にはっきりと、霊幻の背後には黒い影のようなものが現れていた。しかし影は特に行動を起こすでもなく、その場で消えては現れてを何度か繰り返している。
「霊も困ってるような……。実際そんなに悪い気配もしないようだけど、影山君どうする?」
「……エクボ。エクボから話してきてもらえないかな」
「はあ、俺様が!?……ったく、他の奴と波長合わせて会話するのって疲れるんだよな〜……」
 茂夫に頼まれたエクボは渋々ながら影の方へと向かって一言二言声を掛けると、やがてその影を連れ出すように、建物の壁を一緒にすり抜けて出て行った。すると先程までリンク全体に漂っていた重苦しい気配も、波が引いたようにすっと消えていく。
 律は首を動かして、確認するように辺りを見渡した。
「よかった。これで問題なさそうだね、兄さん」
「うん。後でまたエクボにはお礼を言わなきゃ」
「──聞いてるか、お前ら!?」
 そこで相変わらず、必死の形相で呼びかけてきたのは霊幻であった。
「そっちでいかにも一件落着のような雰囲気を出しちゃいるが、今まさに俺は霊に足をもっていかれそうになっているんだぞ!?両手が塞がって塩も撒けない今、お前らにどうにかしてもらうしか……ああっ転ぶ、今度こそ転ぶ!信じてるぞ、絶対手離さないでねっ!?」
「し、しっかり支えてますから。落ち着いて下さい先生」
 後ろ向きに滑るに両手を支えられながら、腰が引けた状態で、先程の茂夫のように足元をプルプルと震わせる霊幻。その姿を眺めながら、花沢が律に話し掛けた。
「霊が出たって事は、一応カップルには見えたって事なんだろうけど……どう?弟君は妬いたりする?」
「あの状態を見て、そういう感情は湧かないですね」
「はは。僕も」
「あ!」
 声を上げた茂夫の視線の先、霊幻はに手を取られたまま思いっきり足を滑らせていた。