宿の部屋の隅ではアシパとが寄り添って静かな寝息を立てている。
 対して男達はまだ床にはついておらず、天井から吊るされたランプの灯りの下、輪になるようにして座っていた。杉元はヴァシリから借りた紙の束を捲りながら「へえ」と感心した声を出す。
「頭巾ちゃんは絵うまいよな。このアシパさんと白石の似顔絵も、俺達と合流する前から描いてたやつなんだろ」
 杉元が床にヴァシリの絵を並べていく。
 そこには以前杉元がヴァシリと初めて遭遇した際に見たアシパらの似顔絵に加え、道中に描いたであろう鳥やリスなど動物の絵もあった。すると白石が杉元の隣から腕を伸ばす。
「でも尾形ちゃんの絵だけ描き込まれすぎじゃない?俺の顔とか、この目元の辺りはもう少しキリッとしてると思うんだけど」
「いや似てるよ、そっくり。それに頭巾ちゃんも尾形とは色々あったらしいから」
 杉元の言葉が何となく伝わっているのか、ヴァシリもうんうんと頷く。すると彼らの話を静かに聞いていた房太郎が、並べられた中から尾形の絵を一枚拾って、自身の顔の横に並べた。
「どうだ?どっちが男前に見える?」
「なんだそのクソみたいな質問」
 顔をしかめる杉元に房太郎は自信ありげにふっと笑うと、尾形の絵をぴっと指で弾き、器用に地面へと落とした。
「どう見ても俺だろ。見る目がねえな、杉元は」
 すると、彼はヴァシリに向かって自身を指差す。
「今度俺の事も描いてくれないか。もし画家先生がお望みなら脱いでもいい。外国の絵にも裸の男や女を描いた芸術作品があるだろう」
 ぐいぐいと迫る房太郎に、内容が理解が出来ていないヴァシリが首を傾げる。その様子を見ながら、白石が呆れた声を出した。
「それお前が脱ぎたいだけなんじゃね〜?ボウタロウは自分の裸に自信ありそうだもんな」
「なんだよ僻みか?ああ、シライシはチンチンちっちえもんなぁ」
「はああぁん!?」
「お前らうるせーよ。アシパさんとが起きちまうだろうが」
 杉元は立ち上がり掛けた白石の着物をぐいと掴んで引き戻す。鼻息の荒い白石をいなす様に軽く肩を竦めた房太郎は、ふと気が付いたように再び地面に視線をやった。
「……いいね」
 小さく呟き、今度はの似顔絵を一枚手に取る。
 それはなんてことは無い、彼女の横顔を描いた絵である。彼がそれを頭上に掲げると、ランプの灯りが眩く透けた。
「たとえそれが絵だろうが、俺の妻の美しさは変わらないな。こうして見るとまるで女神様のようじゃねえか」
 そう話す房太郎に対し、もはやいちいち「妻」発言を指摘する事も面倒になっている杉元と白石は、まるで近所の噂話をする女達のように身を寄せ合ってヒソヒソと言葉を交わす。
「そうだ、どうせ描いてもらうなら俺との二人がいい。そうすれば出会いから間も無い今の姿を、子供たちやそのまた子供たちにも見せてやれるだろ」
「……?」
「頭巾ちゃんはこっちの言葉が分かんねーんだからあんまり一気に話してやるなよ。あとに聞かずに勝手に決めるな」
 そうやって房太郎がヴァシリに絵の依頼をしている間、白石は退屈そうに鼻をほじっていた。
「(でも実際頭巾ちゃんの絵の腕は、腐らせとくにはちと勿体ねえよなあ〜……。上手く商売でも出来ればいいんだが、杉元やアシパちゃんに怒られそうだし)」
 白石は地面に散らばった絵に視線をやる。
 人や動物の他、風景、他にもおそらく実在するであろう西洋画の模写らしきものもある。白石は芸術というものに対して興味も理解もなかったが、ヴァシリの絵が上手である事は分かった。
 そう言えば、自分の昔の知り合いにも絵が上手い奴がいたような──。
「…………はっ!!」
 白石が大きく目を開き上げた声に反応して、杉元らも彼の方へ顔を向けた。
「どうした、白石?なんかすげー鼻血出てるけど」
「え!?あ〜、これ?これはちょっと深追いしちゃって……」
 杉元に対し、誤魔化すようにへらへらと返す白石。彼の鼻からは、勢いで奥まで突っ込んだ人差し指を伝い、ちょっと心配になるくらい大量の血液が地面に滴り落ちていた。



 + +



「絵を描いてもらうって、私が?」
だけじゃない、俺との絵さ」
 翌日。出立の前に、道中狩りで得た獲物を元手に、心許ない財布の中身を少し増やしておこうという話になった。
 アシパと彼女に同行した杉元以外は、街の外に出て準備を済ませ各々の時間を過ごしていたのだが、川のほとりで荷物の整理をするの元にやってきたのが房太郎だ。彼は手を止めるの前にしゃがみ込み、昨晩の事を話して聞かせる。
「これが写真となると、そう気軽じゃないからな。一枚だけでいいから俺に付き合ってくれないか、頼むよ」
「私はいいけど、描く方は面倒なんじゃないかな」
「絵を描いてもらう事自体は、おおよそ話を通してある。あとは二人で行けば伝わるだろ」
「それじゃあ私からも一度聞いてみるよ。それで断られたら、無理は言わないようにしよう」
「ああ、それでいい」
 が腰を上げると、同じく隣に並んだ房太郎が彼女の肩に手を回した。
が受けてくれて良かった。それと頭巾ちゃんか?彼にもきちんと礼をしなくちゃな」
「また大袈裟に言うな」
 本心から嬉しそうに話す房太郎に、も小さく笑う。
 肩に乗せられた手からは、今は異性に対してと言うよりも気兼ねない親愛の情のようなものが感じられた。突き離す理由も無く彼女もそのまま受け入れる。
「俺は自分が生きた記憶や証を出来るだけ残しておきたいんだよ。人の記憶ってやつは薄れていく……、少しでも形として残せるものがあればそれに越したことはないだろ」
「そういう大事な意味を持つものなら、むしろ一人で描いてもらった方がいいんじゃ……」
「その理由を俺の口から言わせたい?」
 低い囁きと共に、の耳元に風が掛かった。
 突如色を持った場の雰囲気にが身構えようとするも、その前に房太郎は彼女の肩から手を離した。彼はこれ以上は何もしないという意思表示のように挙げた片手をひらひらと振ってみせて、続ける。
とだから意味がある。だから、もしも俺が先に死んだ時は貴女に持っていてもらえると嬉しいんだけど」
「それは、急に重たくないか」
「なに、聞けば重たい男はお手の物らしいじゃねえか。今更俺一人増えたところで大して変わらねえだろ」
 そう悪気なくからりとした様子で言われては、も反論する気を無くしてしまった。


 ヴァシリの姿は達がいた川のほとりから間も無い、すぐ近くの森に入ったばかりの場所で見つかった。
 こちらに背を向けて座る彼に声を掛けようとが一歩足を踏み出すと、房太郎がその肩を押さえて制止する。一体どうしたのかと彼女が視線で問い掛けながら振り返ると、房太郎は自身の口元に「しーっ……」と人差し指を押し当てながら、声を潜めて応えた。
「シライシだ」
「え……」
「かーーっ、違う違う違うッ!!」
 すると房太郎とのいる場所にまで、聞き慣れた大声が届いた。
 紙と筆を手に地面に座るヴァシリ、彼が見上げる視線の先で、白石は先程仕上がったばかりの彼の絵に自身の手の甲をパシパシと打ち付けた。
「いいか、何度も言うが芸術なんて腹の足しにもなんねえもんは今必要ねえんだよ!そんなもんは豚の餌にして食わせちまえ、分かったか!?」
 ヴァシリは白石の言葉に頷いて、筆を動かし始めた。
 シャカシャカと迷いなく線を引いていった彼は、そう長くは掛からず完成した絵を再び白石に手渡す。それを受け取った白石はねっとりと値踏みするような眼差しで見てから、当てつけるような大きな溜息を吐いた。
「あのねえ……、俺は何もどこの誰かも分からないご婦人の裸を描けって言ってるわけじゃないの」
 そう言って白石がヴァシリに向けて絵を裏返すと、そこには裸で横たわる女性の姿が描かれていた。顔立ちからするとすると外国の女性だろう。習作のようにあっさりとした線で描かれているからか、いやらしさは微塵も感じられない。
 すると。
「俺が言ってるのはこれを」
 懐からの正面顔が描かれた切り抜きと、僅かばかりの米をサッと取り出し。
「こうして」
 ネリネリと丸めて潰した米を、切り抜きの裏に押し付けて。
「こうだ!!」
 べチーーン!と、裸婦画の顔部分にそれを貼り付けた。
 きょとんと瞬きをして見上げるヴァシリに対し、白石は一仕事終えたかのようにふうと額を拭う。
「まったく同じ男なら皆まで言わせるなよ。樺太の国境に金玉捨ててきたんじゃねえだろ、うごっ!!?」
 ごすっ、と鈍い音を立てて白石の腰付近に握り拳大の石が当たった。彼は前のめりに両膝を地面に付くと、腰を押さえつつ引きつった表情で振り返る。
「この体重の乗った重たい投石はまさか……」
「そ、そんなに重たくない!」
「ヒッ、ちゃん!」
 白石の視線の先、姿を現したは頬を染めながら彼をゆっくりと指差した。
「今何かよからぬものを……」
「あ、あれー、何か見えた?きっとちゃんの見間違いだと思うな〜……」
 誤魔化すように言いつつ、白石は倒れた拍子に手放してしまった絵がどこにいったか必死に視線を動かし探す。すると彼の頭上から大きな笑い声が落ちてきた。
「ははは!シライシ、お前って本当に馬鹿だよな〜〜」
「あっ、ボウタロウてめぇ!」
 いつの間にか絵を拾い上げていた房太郎が、おかしそうに笑いながらそれをひらひらとかざす。
 顔は米で貼り付けた、身体は元々の裸婦画という絵は、当然ながらちぐはぐなものだ。房太郎は「ん〜……」と目を細めて改めてその絵を吟味する。
「これだと、にしちゃ腹周りがちと豊満過ぎか?まあそれでも俺は結構好きだぜ」
「ああ〜それ、頭巾ちゃんに頼むとなぜかどうしてもその体型になっちゃうのよ。趣味なのかな?」
「一体何の話を……」
 つい房太郎の話に乗ってしまった白石は、の呆れと怒りが混ざった呟きにハッと我に返った。
「違うんだこれは。そうッ、あくまで芸術で……」
「さっき豚の餌にしろって言ってたじゃないか」
「たはーー!思ったより前から見られてたのね!」
 からじとりとした眼差しを向けられながらも、白石はどうにか活路を見出そうとする。
 まだ取引の現場を見られただけだ。ほんの出来心、特に深い意味も無いちょっとした男の助平心という事であれば、今の時点では笑い話にも出来るだろう。いや、してみせる。
「しかし、こんなただ無理やり顔を貼り付けたようなお粗末な出来じゃ、勃つもんも勃たねえだろ」
「ちょ……」
「確かお前、網走に来た頃はどこかのガキにでも描かせたような下手くそな絵をズリネタにしてたんだっけ?ああ〜〜!それならこの絵でも上等か」
 房太郎はそうだったそうだったとわざとらしく言いながら、白石を指差す。房太郎が大きく見開いた瞳と、それを睨み返す白石の瞳がバチッと交わった。
「(人がどうにか誤魔化そうとしてるってのに……!こっちはお前がいい子ちゃんぶってんのも見逃してやってんだろうが!!)」
「(はっ、テメェが勝手に下手打っただけだろうが。少しでも俺の恋路を邪魔する可能性がある野郎に容赦はねえ、消えろ!)」
 傍目には視線を合わせているだけのようで、その内ではひどい煽り合いをする白石と房太郎。
 はそんな彼らからは一歩引き、いつの間にか彼女の手元に戻ってきていた絵に視線を落とすと、その眉間に深い皺を刻んだのだった。



 + +



「うう、取れない」
 が元の裸婦画から自分の顔をどうにか剥がそうと爪の先でカリカリ擦るも、既に米のりが乾きかけ、紙同士が密着してしまっていた。
 当然無理に剥がせない事も無いのだが、そうすると絵は確実に破れてしまう。そうする前に許しを得ようと、はヴァシリに向かって口を開いた。
『悪いんだけど、この絵を……』
「う〜ん、これは困ったなあ!折角頭巾ちゃんが描いてくれた絵まで破いちゃうのは心苦しいもんねえ!」
 すると何かを察した白石がの横にサッときて、顎に手をやりながら悪びれもせず絵を覗き込む。
 彼の言葉に罪悪感を刺激されたはヴァシリへの声掛けを止め、代わりに小さくゴニョゴニョと口を開いた。
「でも、このままにしておくわけにもいかないし」
「なんで?芸術だよ?少なくとも俺はそう思うし見る側にやましい気持ちが無ければこの作品には何の問題もないよね?」
 よくもそんな顔が出来るなとばかりに瞳を輝かせて話す白石の勢いに、もつい気圧される。房太郎は彼らのやり取りを瞳を薄くしながら半笑いで眺めていた。
「(最低だなこいつ)」
 なんでどうしてと自分の周りをぐるぐる周り続ける白石に、は自身の判断が揺らいでいくのを感じていた。ひょっとしておかしな事を考えてしまっているのは自分だけなのではないかと、恥じ入るような気持ちさえ湧いてくる。
 そんなに向かって白石はとどめのように微笑んだ。
「迷ってるなら、一旦こっちで預かるけど……?」
 差し出された手のひらに視線をやったは、僅かな逡巡の後、持っていた絵を彼の方へと──。
「あっ」
「あぁ!!?」
 その時だ。いつの間にの斜め後ろに立っていたヴァシリが、彼女の手から絵を引き抜いた。彼が摘み上げるように持った紙をピリリと真っ二つに裂くと、と白石は驚きの声を同時に上げた。
「何しやがんだ俺のズリネタを!!」
「ズリネタじゃねえか」
 思わず本音をもらす白石に、房太郎が突っ込む。
 もなぜヴァシリがそんな事をしたのか分からずロシア語で問い掛けると、彼は懐から出した紙に文字を綴った。
 するとと一緒に白石と房太郎も彼女に両側から身体を寄せて、ヴァシリが差し出した紙を覗き込む。
「頭巾ちゃんは何て?」
「あー……、“これはもう私の絵じゃない”って」
「だっはっは、そりゃそうだ。残念だったな、シライシ」
 そうしてひらりと風に乗った二枚の紙は近くの小川へと落ちると、見る間に下流へ流れていった。