白石は、後頭部を掻きながら街へと降りる道を辿っていた。やや尖らせた口先から漏れるのは、残してきた仲間達への不満事である。
「ちぇ……、俺だってそれなりに頑張ってるんだから、ちょっとくらいお小遣いくれたっ、でえぇ!!?」
「シライシ」
 脇の茂みをがさりと揺らし、何の前触れもなくそこから顔を出したのはだった。突然の事に驚き仰け反った白石は、心臓の位置を両手で押さえながら「は……」と息を吐く。
ちゃんかよぉ!熊でも出てきたのかと思って焦っちまったぜ……!」
「この辺りには熊はいないよ」
 茂みから這い出したは、自身の身体を払って葉っぱを落とすと、改めて顔を上げた。
「さっきアシパ達に遊郭に行く金をせびって断られていただろう」
「……ん〜〜、なんの事だろう。お兄さんちょっとよく分かんないかも」
「私が見ていた限りだと、むしろ土下座するまであったような」
 そう言いながら懐を探ると、は小さな布袋を白石に向かって差し出す。はて?首を傾げつつ、つられて両手を出した白石は、手のひらに乗せられたその確かな重みと感触に大きく目を開いた。
「こ、これはもしかして……」
「私個人の蓄えからだから、多くはないけど。あまり羽目を外し過ぎないようにね」
「おバアちゃ、いや、ちゃん!!」
 遊びたい盛りの孫に、影でこっそりと小遣いを与える優しい祖母のような面影をに見つつ。
 瞳を輝かせ、感激の声を上げた白石であったが、直後何かに気が付いたようにハッとした表情を見せた。
「ただ、その。遊郭に行くのはつまり、それも俺なりの情報収集の一環というか」
 そう慌てて付け加えた彼は、今度やや照れくさそうに鼻の下を擦りながら続けた。
「ほら、俺ってそういう恋愛と下半身とは完全に割り切ったお付き合いが出来るやつだから。ちゃんに少しばかり不安な思いもさせちまったかもしれないけどよ、ちゃんと最後に帰ってくる場所は決めてるんだぜッ……」
「シライシはひどい遊び方はしないだろうし、私は心配していないよ。ご飯は用意しておくから、気を付けて帰っておいで」
「あ……、うん。分かったあ、気を付けるねえ……」
 わりと最低な事を、一応彼なりに男としての決め台詞のつもりで言ってみた白石であったが、どこまでも祖母目線なの態度に肩透かしを食らうと今はそれ以上の進展は望まず諦める事にした。
「ん?そういや、ちゃんカネ入れる袋変えた?前はここにお花ちゃんの刺繍とかしてたやつだったろ」
「ひっ、なんでそれを……!?」
「え。いや、普通に見た事あったから……あれ、これ何か触れちゃいけないやつだったの?」
 気まずそうに言う白石に、は自身の口元を抑えた手を下ろすと、それを否定の意味を込めて左右に振った。
「違う、すごく昔に刺したもので下手だったから恥ずかしいなと思って。あれは……この前、買い出しの時に失くしてしまったんだ」
「おいおい大丈夫かよ、もしかしてそれって失くしたとかじゃなく盗られたとかじゃ」
「だとしても中身はほとんど無かったし、もう大分古いものだったから」
「……そぉ……?」
 白石は飾り気の無い革作りの袋に視線を落とす。
 そこからは、じゃら、と金が擦れる音がした。


 + +


 そうして街に出た白石は、渡された袋に思った以上の金が入っていた事に驚いていた。も実際そういう場所で遊ぶ時にいくらぐらい掛かるのか、細かい相場までは知らなかったのだろう。嬉しい誤算に、思わず鼻歌など唄いながら袋の紐を締め直して歩き出す。
「(いやぁ、ちゃんってば本当俺の女神様だよなぁ……。優しくて面倒見がよくて、それで見た目は美女でおっぱいも大きくてすけべな感じだし、もしちゃんと結婚したら……結婚したらそうだ、俺は家のお掃除とかをものすごーく頑張ろう。うん)」
 完全なヒモ気質に偏った己の将来設計に頷きつつ、白石は花街の方面へと向かっていた。
 甘ったるく、ひりつく様な空気。段々と足を進めるにつれ周囲の景色や雰囲気も変わってくる。普通の人間であれば警戒心を強めるものだが、この街に溶け込むような彼にとっては慣れたものだ。
「……っと、待てよ」
 途中そう呟き白石は立ち止まる。彼はそのまま顎に手を這わすと、何やら悩み出した。
「つい癖でこっちの方に来ちまったが……。これだけ金があったらいつも行くブスばっかの店じゃなく、もう少しくらい上等な、」
「なあ、おっさん。あんた遊ぶ金持ってんだろ、何か買ってくれよ」
「あん?」
 再び人として最低寄りの発言をする白石を止めようとしたのであれば、実際もう少し早い方が良かったが。とにかくその時、彼の足元から声が掛けられた。
 眉間に皺を寄せた彼がそちらを見ると、年は十二、三といった所であろうか。お世辞にも小奇麗とは言えない身なりの少年が、目の前に敷いた薄汚れた布の上に商品を並べて薄笑いを浮かべていた。
 白石はそれらにざっと視線を走らせると──、少年に対してすげなく手を振る。
「明らかに盗品じゃねえか。いらねえよ。あと、俺はおっさんじゃねえ」
 すると少年は形ばかりの笑みを消して、急に大人びた溜息を吐く。
「なんだ、おっさん同業か。汚え格好してるからそうじゃないかと思ったんだよな」
「一緒にすんな!こんだけ種類も用途もバラバラなもんを並べてりゃ分かるっつうの」
 鼻息荒く言い返しながら白石は少年の前にしゃがむと、今度は呆れたように目を薄くした。
「にしても、売れてんのかぁこれ。ガラクタしか置いてねえじゃ──」
「めぼしいもんは先に売れちまったんだよ。一応残りもさばかねえと、勿体ねえだろ」
「……おーおー、よくもぬけぬけと。盗っ人猛々しいとはこの事だな」
 白石は視線を隅の方へと動かすと、顎をしゃくってそこにある品を示した。
「そいつは?」
「これ?これは本当は中の金目当てで盗ったんだけど、大して入って無かったんだよね。大分くたびれてるしそのまま捨てても良かったけど、物好きがいるかもしれないだろ?」
「……なるほどねえ」
 そう言ってぼんやりと眺める先にはまさに、“どこかで見たような”刺繍が施された布袋があって──、白石はしばし頭を捻るようにしてから「よし」と膝を叩き、少年に対し人差し指を立てた。
「いくらだ?俺がその物好きになってやるよ」
「えっ。なんだおっさん、買ってくれるのか?」
「お・に・い・さ・ん、だ!いいから、俺の気が変わらねえうちにさっさとしろッ」
「…………」
 少年は、白石と彼が懐から出した金の入った袋を観察するように見比べた。そうして、悪童たる憎らしい笑みを見せて品物の布袋を摘み上げる。
「そこに入ってる金、全部置いてってくれるなら売ってもいいよ」
「な!?馬鹿言え、いくら入ってると思、」
「女と遊ぶのを一度我慢すりゃ足りるんじゃないかな。別に、嫌なら俺はいいんだけど」
 いくら年若いとは言っても、相手とて生きる為、これで飯を食っているのだ。白石の僅かな焦りを見抜いた少年は、今や優位な立場で彼に交渉を持ち掛けていた。
 一方の白石は、金の入った袋を握りこんで逡巡する。
 今ここで何事も無く当初の目的である遊郭に向かったとして、それだけだ。誰に何を咎められる事も無ければ、むしろこの小生意気な少年に少しは悔しい顔をさせてやる事が出来るかもしれない。そうだ、それがいい。
 白石が袋を再び懐に引っ込めると、少年はつまらなさそうに目を薄くした。──その時。
「……え?」
 地面に叩きつけるように置かれた袋から、少年は驚いた表情のまま再び視線を上げた。対する白石は先程までとは違いごく落ちついた様子で袋から手を離すと、今度はそれを少年に向かって差し出す。
「これでいいだろ。約束通り、そっちはいただいていくぜ」
「……。言っておくけど、後から文句言ってきても知らないからね」
 少年から品を受け取り、白石は立ち上がる。
「へっ、こっちの台詞よ。こういうやり方で商売すんなら、ちったあまともな目利きが出来るようになってからにするんだな」
 一見ただの古びた布袋だが自分にとっては価値あるものなのだ、と。
 少年は言っている意味がよく分からないとばかりに眉間に皺を寄せた。白石は軽く片手を上げると、年長者の余裕さえ感じさせつつ、その場からゆっくりと歩き出──、
「お、おい待て!この中に入ってるの金じゃなくて全部石じゃねえか!」
 ──す、と見せ掛けて、思いっきり駈け出していた。
 少年は慌てて立ち上がって白石を追おうとするが、既に彼とは大分距離が開いてしまっていた。
「ハハッ!てめえはそこで石っころの勘定でもしてな、クソガキ!」
 不相応な金を持っている時こそ、用心するに越したことはない。白石はこれまで己の身に起きた数々の苦い経験を踏まえ、今回は偽の銭袋をいくつか用意していたのだ。紅潮する頬、走る速度は緩めずに、少しでも綺麗な状態で持ち帰れるようにと、袋を大事に懐へとしまう。大事に、大事に。


「あっ」
 ドンッ!という正面からの強い衝撃に負け、白石はその場で尻餅を付いた。
 おそらく初対面のはずだが、逆光の中で太い腕を組み彼を見下ろす強面の大男には強い既視感がある。
「……あ〜、なるほど……。頼りがいのあるお父さまに働き者の息子さんとは、また理想的なご家庭だこと」
 比べてしまうと目の前の男は大分ごついが、先程の少年が健やかに逞しく、いくつかの恐ろしげな修羅場など潜り抜けつつ成長したのならこんな感じだろうか。
 力強く指の骨を鳴らす男、そして背後からの足音もぐんぐんと迫ってくる。白石は一気に脱力して溜息を吐いた。
「あのぉ……、足腰立たなくなるまでとかは止めてね?俺、ご飯までには帰らなくちゃいけないから……」
 せめてもの抵抗として軽口を叩いた彼は、観念したように両手を上げたのだった。


 + +


 中央で揺れる焚き火、ぐつぐつと食材を煮込む鍋からはいかにも食欲を誘うような香りが漂ってきている。
 その緋色の灯りを背にしたアシパは、腕を伸ばして白石の腫れた頬に炙った薬草を貼り付けると、仕上げとばかりに最後そこをぴしゃりと叩いた。
「いたぁっ!?えっ何で叩いたの、何で!?」
「これぐらいで騒ぐな、まったく。店の階段から落ちるなんてそれだけ浮かれていた証拠だ」
「へへ、久々だったから少し酒飲みすぎちゃっ、い゙っ!」
 アシパから同じ箇所を今度はやや強めに平手で叩かれると、白石はまた大袈裟な声を上げる。すると背中を丸めて鍋の様子を見ていた杉元が振り返り、宥めるように言った。
「まあまあ、アシパさん。一応お手柄でもあったわけだし、その辺にしといてやって」
「む……、それもそうか。は喜んでいたみたいだしな」
「そ、そうそう。何日か前に、店近くのガキんちょが偶然拾ってたらしくてさ」
 そう言いながら、白石は杉元に対して助かったと言わんばかりに片目をぱちぱちと何度か閉じて合図を送る。
 杉元はそんな彼の怪我の具合などを改めて上から下まで眺め、呆れた表情で呟いた。
「お前も階段から落ちたとか……」
「ん?なーに?」
「あ〜……いいや、別に何でもねえよ」
 杉元は何か物言いたげにはしていたものの、白石が聞き返すとそれ以上続ける事は無かった。
「遅くなってごめん」
 するとその時、しばらくこの場から離れていたが戻ってきた。
 彼女は真っ直ぐ白石の前に進んでアシパに代わりその正面に腰を降ろすと、両手で恭しく運んで来た器を彼に向かって差し出した。
「近くに水場があって良かった。はい、これを飲めば痛みなんてすぐ引くぞ」
 白石は器の中でちゃぷんと揺れる液体を覗き込み、その表情をうっと引きつらせる。
「これって確か前にも飲んだ、ものすごぉーく苦いやつじゃ……」
「?甘くはないかな。まあ草だから」
「ですよねえ……」
 乾いた笑いで応える白石の顔を見ながら。は数日前の出来事を思い出していた。
 買い出しを終えた直後、脇から伸びてきた腕が“それ”を引き抜いていって。
 すぐさま視線を向けた先にあった想像よりも年若い姿に、咄嗟に次の行動を起こす事を躊躇ってしまった──そんな、僅かな後悔と共に己の胸にしまい込む事にした、一瞬の話を。
「も、もしかしてちゃん怒って……る?いやっ俺も飲むのが嫌ってわけじゃないんだぜ!?ただ、どうせなら飯の後のがいいかなって思っただけで」
 神妙な面持ちで黙り込んだに、白石は何を誤解してか慌てた様子を見せる。だがそんな白石の予想に反してはおかしげに小さな笑い声をこぼすと、そっと優しく手を伸ばして彼の頬に触れた。
「!!?」
 白石はびくっと肩を跳ねさせて、一瞬何が起きたのか分からず混乱しながら、そのまま硬直する。
「怒るはずがない。……ありがとう。下手な刺繍だけど、当時は一生懸命作ったものだから実は気に入っていたんだ」
「そ、そそそう!?それなら良かった〜、本当に……」
 そこで白石の声が思いっきり裏返ってしまったのは、改めて意識するとの距離の近さや、自身を見上げる瞳、そしてアシパから貼ってもらった薬草の上に重ねられた手の柔らかさだったり──彼の密かな奮闘に報いるような、当然そういった理由もあるのだが。
 白石から見えるの肩越し、何やらこちらの様子を見ながらヒソヒソと顔を寄せて審議する様子の杉元とアシパ達の更に奥、囲む焚き火の灯りが辛うじて届こうかというその“際”から。
「…………」
 尾形が、見ていたのだ。
 足元からの灯りに僅かに顔を浮かび上がらせて、何か言葉を発するでもなく。そしてこれといった感情の色を見せぬ彼の瞳は、本来であれば思いっきり浮かれたいところである白石の背筋を、甘酸っぱい夢から引き戻すかのように急速に冷えさせたのであった。