「метеор(ミチオール)とは、流星の事だったか」
 立ち寄った店で聞き込みをする月島は、背後で待つ鯉登の呟きにやや驚いた顔で振り返った。
「いつの間にロシア語を」
「父上の……いや、航海暦について学んだ時に目にして覚えていただけだ。それで、心当たりについては何か聞けたのか?」
「この店に立ち寄った事はないようです。流星については、今の時期は北東の空によく見えるので気を付けろと」
「何に気を付けろと言うのだ」
「人が死ぬのだそうです」
 鯉登が怪訝そうに眉を顰めると、月島は店のカウンターに立つ穏やかそうな老婦人の様子をチラと覗ってから続けた。
「近しい者の命の終わりを星が知らせるのだと。この辺りでは、流星は凶兆の印として伝えられているようですね」
「ふっ、そんな事ではすぐ墓地が足りなくなりそうだな」
 皮肉るように言った鯉登は続ける。
「私が昔郷里で見た流星群は、それは幻想的で美しかったぞ。あれを敢えて見ずにいるとは勿体無い」
「まあ、こういった迷信のようなものはどこの土地にもあるのでしょう」
 それから月島は老婦人に二言三言礼を告げて、鯉登と共に店を後にした。
 狭い店だったため他の面々は外で待っていた。杉元が最初に彼らに気が付き、声を掛ける。
「どうだった?」
「何も無い。ここには来ていないそうだ」
「ああ、そう……。待ってる間近くを通った奴にも聞いたけど、アシパさん達はこの村自体に寄ってないのかもな」
「待て、地図を見直してみる」
さん」
 杉元と月島が顔を合わせる傍から、鯉登はほくほくとしながらの方へとやって来た。
「少しですが焼き菓子が売っていました。どうぞ」
「わ、ありがとう」
「ねえ鯉登ニパ、オレ達には?」
「無い」
 鯉登は嬉しそうに菓子の小袋を受け取ったを見つめたまま、チカパシらの方は一瞥もせずにきっぱりと返した。しかしそんな彼の足元にリュウが戯れるように近付くと、つられたように視線を下げる。
「これは?」
 地面に複数引かれた線の跡を見つけた鯉登が尋ねると、が応えた。
「私と谷垣でチカパシに流れ星の話をしてたんだよ。この近くによく見える場所があるんだって」
「ああ、似たような話は私も聞きました。ただこの村では凶兆の印とされているとか何とか……」
「アイヌでもそう言われている事が多い。でも私は、折角見られるなら見てみたいけどな」
 すると杉元との話を終えたらしい月島が「鯉登少尉殿」と声を掛けた。
「これ以上は目新しい情報も無いようですし、次に向かいましょう。おそらく完全に陽が落ちる前には近くの集落に着くかと」
「月島軍曹」
 改まってそう呼ばれた月島が眉を少し上げると、鯉登は腕組みをしながら彼の方を振り向いた。
「地図に描き込んだその集落については、途中で話を聞いただけで場所や距離も確かでは無いはず。万全を期す為にもここは一晩様子を見て、明日の朝に発つべきではないか?」
「……。別に、ここではない場所からでも星を見る事は出来ますが」
「いっ、今そんな話はしていないだろう!」
 鯉登の動揺から何かを察した月島は、瞳を薄くした。


 + +


 南樺太は北海道よりも寒い。しかし、気候がいい日はそう変わらぬと思える日もあった。それでもさすがに夜は冷えるため、万全の防寒をして宿から抜け出した彼らは、達が聞いた“流星が見える場所”へと向かっていた。
 結局チカパシは眠ってしまい、谷垣とリュウが付いている。それは鯉登にとっては望むべき展開であった。騒がしい子供がいては雰囲気も出まい。旅の道中浮つかないと決めてはいるが、白い息を夜空に溶かしながら流星の訪れを待つ、そういった清浄な時を共に過ごす事くらいは許されるだろうと。
 村人から聞いた場所は、村の裏手にある小高い丘であった。普段から人の往来があるのかある程度整備はされていたが、夜闇の中では多少足元が覚束なくなる事は否めない。ふいにつま先で小石を蹴って小さく声を出したに、先を行く相手が気遣うように声を掛けた。
「大丈夫か?」
「大丈夫。ありがとう、杉元」
 そんな彼らの様子を、続く後方から憎らしげに睨み上げるのが鯉登であった。
 鯉登がを誘う前、杉元との方から星を見に行っていいかと申し出があったのだ。先を越された悔しさとそれを知られたくないという意地で、結局は監視などという名目を使うしかなかった。そして一連の流れで最も割を食ったのが、必然的に自身も同行させられる事となった月島である。
「そもそも外出許可を出さなければ良かっただけの話なのでは……」
「それでは私とさんまで星を見に行けなくなるではないかッ。第一、そんな意地悪をして嫌われてしまったらどうする」
 鯉登からの反論を真顔で受け止める月島。それには構わず、鯉登は再び杉元の背を睨む。
「奴が星に興味などあるはずがない、何か企みがあるに決まっている……。杉元め、この坂から転げ落ちてしまえばいいのに……」
 鯉登はぶつぶつと呟きながら念を送る。
 そして対する杉元も、実は密かに背後の様子を窺っていた。
「(くそ、折角とアシパさん達の話が出来るかと思って来たのに……。邪魔くせえから、今すぐ坂から転げ落ちてくんねえかな)」
 それぞれの思惑が交差する中、一同は目的の丘上に辿り着いていた。
 景色が抜け、眼下には村の僅かな明かりと樺太の広大な大地が広がっている。その頭上に煌めく満点の夜空を見上げ、杉元の口からは自然と感嘆の溜息が溢れた。
「おおー……」
 それは杉元だけに限らず、今この時だけは皆が言葉少なに自然の雄大さに圧倒されていた。あまり気乗りしていなかった月島ですらそうだ。
 しばらくそうして空を見上げていたは、ふと思い出したように呟いた。
「やっぱりチカパシの事も起こしてあげれば良かったかな」
 僅かな後悔に表情を曇らせた彼女の肩を、すかさず杉元がポンと叩く。
「どうせ朝になったら忘れてるよ。それにあいつはまだガキなんだし、星くらいこれからいくらでも見られるって」
 そのあまりにも責任感の無い適当な言い回しに、は思わず笑ってしまう。そんな彼女に杉元も穏やかな表情を向けてから、軍帽の鍔に手を添えた。
「お……、どこかで犬が吠えてる。リュウかな」
「ここは犬を飼ってる家が多かったから、反応してるのかもしれないね」
 丘の縁に立って村を見下ろす杉元とを、鯉登は少し離れた場所からそわそわと落ち着かない様子で見ていた。本人としてはそのつもりも無いのだろうが、あまりに分かりやすい態度に、月島が仕方なくといった感じで声を掛ける。
「気になるなら、行ってこられてはどうですか」
「いや、しかし……監視という名目でついてきた私があまり浮かれては、鶴見中尉殿に申し訳が立たないのでは……」
 ばつが悪そうに話す鯉登に対して、そもそも以前を監視対象としていた時は──むしろつい先程までは、直接彼女を誘おうとすらしていたというのに何を言うのかと月島は思った。
 樺太に来てからの鯉登は、以前よりもとの距離の取り方について躊躇する様子が見て取れる。任務の協力者として関係を新たにした事で彼なりに自制心を働かせているのか、しかし時折見せるその揺らぎについては、若さゆえといったところだろう。
 別に放っておいても構わないのだが、側でうじうじされるのも正直面倒だ。月島は今鯉登が望んでいるだろう一押しを掛けてやる事にした。
「あまり離れていては奴らの会話を聞き取る事が出来ませんし、それこそ内密の計画でも練られては監視の意味が無いのでは?」
「!た、確かにそうだ。行ってくる」
 大きく頷いて足を進めた鯉登の背に、月島は鼻から僅かに息を吐いた。
 時を同じくして、流星の訪れを待つの横顔を見下ろすように窺って、杉元は彼女の隣から声を掛けようとしていた。
「なぁ、ちょっと──」
 そんな杉元を強引にぐいと押しのけて、文字通り二人の間割って入ったのは鯉登である。月島の言葉によって大義名分を得た鯉登に既に迷いは無く、彼は周囲に花咲かせながらうきうきとした様子でに話し掛けた。
さん、ここではなくもう少し奥の方へ行かれませんか?それに、杉元のような男と一緒では、折角の流星も美しさが半減するというもの」
「あ?」
 そのまま自然とをその場から連れ出そうとする鯉登に反応し、杉元は彼女を引き留めるようにその肩を抱いて自身の方へと寄せた。それに対しまた鯉登が不快げに眉を顰め、睨み合う二人の間には険悪な空気が流れ始める。
「奥の方とか、何しれっと連れ込もうとしてんだよ。油断も隙もねえな、この変態野郎は」
「へ、変態だと!?私は、ここだと風が当たるので風除けが出来る方へとお誘いしただけだッ。そんな事よりその汚らしい手を今すぐ退けろ」
 鯉登の蔑むような言い方に、杉元はカチンと額に青筋を浮かび上がらせた。鯉登に見せつけるよう更にを引き寄せて、その顎先をこちょこちょと指先で撫でる。
「あーんな事言ってるけど、ちゃんは俺と一緒の方がいいよねぇ〜……?」
「キエェッ!!?杉元貴様ァさんから離れろ!」
「二人とも、星を……」
 が、杉元からまるで猫の仔のように扱われつつ言うも、言い合いによって熱が上がっている彼らの間に入る事は容易くはない。諦めた彼女はその場の喧騒から心を切り離し、一人そっと静かに空を見上げる事にした。
「大体人の事汚いとか言ってるけど、そっちも今風呂に入る頻度は変わんねえじゃねえか。同じようなもんだろ」
「風呂に入ろうが入るまいが、杉元は汚いし臭い」
「んな訳あるか!少なくとも風呂入った後くらいは無臭じゃい!!」
「ふん、現に今だって鉄錆のような──」
 言い掛けた鯉登が目を開くと、杉元も同じく何かに気が付いたようにし、揃って視線を下に向けた。
 の瞳に白い光がチカッと光る。
「あっ」
「「あ」」
 空に流星が明るい光の尾を引いて走ったのと同時──そこからはるか丘の下、暗い地面に広がる血溜まりに倒れる人影が見えた。


 + +


 まさか上から見られているとは思っていないのだろう。倒れている人物の側からは、しきりに辺りを見渡しながらまた別の人物が駆け足で離れていった。
 はからずも目撃者となった者同士、杉元と鯉登は互いの出方を探るように、微妙な表情で視線を交わす。一方、そんな事にはまだ気が付いていないは、空を指しながら二人に話し掛けた。
「今のは、はっきり見えたね」
「まあ……、確かにはっきり……」
「見えてしまいましたね……」
 杉元と鯉登は、目配せしながら声を潜めあう。
「多分死んでるぞ、あれ。結局迷信がどうとかじゃなく、それを利用した頭のおかしい奴が村にいたってだけの話じゃねえか」
「むう……」
 肩を並べて地面を覗き込んでいる彼らを不思議に思い、もそちらを振り向いた。
「何か落とした?」
「いえいえ、何でもありません!」
は空見てた方がいいぞ、空!見逃さないように!」
 その必死な態度に若干の違和感を覚えたものの、先程まで言い争っていた二人が息を揃えている事は、悪くないようにも思えた。
 は、視線が合った鯉登に笑い掛ける。
「さっきの流れ星は綺麗だった。鯉登少尉が村に残って、時間を取ってくれたおかげだよ」
 の言葉に、鯉登の瞳は大きく見開かれる。
「あっ……おい、逃げた奴が近くの家に入ったぞ。どうする俺達も行、」
 杉元の話の途中で、鯉登はおもむろにの方へゆらりと歩を進めた。彼はその場で一度立ち止まると、顎先を僅かに上げて杉元に対し完全に据わった目付きを向ける。
「私は何も見ていない。気になる事があるのなら、貴様が一人で行くといい」
「本気かこいつ……」
 鯉登の言動に対してさすがに引いたような様子を見せるも、杉元はすぐに気を取り直して彼の肩を掴んだ。
「待てって!俺だって別に関わりたかねえけど仕方ないだろ、見たくなくても見ちゃったもんはさぁ!」
「だから……私は何も見ていないと言っている!仮に何か見たとして、今ここでさんと星を見る以上に優先すべき事など無いわ!」
「ふざけんな!俺一人に厄介事を押し付けようったってそうはいかねえぞ!!」
 再び騒がしく揉み合い始めた杉元と鯉登は、互いを押しやりながら丘の縁へと流れていく。そして。
「二人とも危な」
 がそう声を上げる間に、彼らはあまりにも呆気なくそのまま斜面を滑り落ちていった。咄嗟に駆け寄ろうとした彼女の前に、背後から来た月島が手を出して制止する。
「そこにいろ」
 言葉少なに指示を出した月島は、丘の縁から覗き込むようにして状況を確認すると──しばらくの間そうしてから、再びの方へと戻ってきた。
 その表情は、いつも通り冷静なままであったのだが。額に手をやりながら「ええと」と少し迷うようにして言葉を紡ぐ様子は、何か彼なりに整理をしているようにもみえた。
「とりあえず二人とも怪我の心配は無い。高さはあるが、急な斜面では無いからな」
「様子を見に行った方がいいんじゃないか」
「……いや」
 月島は少し間を置いて、続けた。
「それはもう少し後でいい。そうでないと、かえって面倒な事になりそうだ」
「面倒?」
「元々星を見にきたんだ。構わないだろ」
 そう言って月島が空を見上げたので、も今の発言にいくらか気になる事はありつつも、彼に従う事にした。
 静寂の中、白い息を吐きながらこうしている姿は当初が思い描いていたものに近い。そうなると、杉元と鯉登が星を見られたのかが気掛かりだった。
 は改めて隣を見る。他の面々と比べると、月島の目線の高さは比較的彼女に近かった。
「月島軍曹は、さっきの流れ星は見えた?」
「ああ」
「そうか。綺麗だったよね」
 すると月島はの方を一度窺って、再び空を向きながら応えた。
「そうかもな」
「いい夜だ。月と星の光だけでこれだけ明るいから、夜なのにどこかで肉でも捌いてるのかな」
「……え?」
「あれ、さっきから血の匂いがしないか」
 聞き返してきた月島に対してがきょとんと目を開く。すると彼はどこか苦々しい表情を浮かべて。
「そう、かもな……」
 今度は無数の星が煌めく夜空では無く。月島は杉元達が滑り落ちていった縁の方へと視線を向けながら、そう返したのだった。