扉の隙間から、既に暮れかけている外の冷たい空気が入り込んできていた。
 宿の主人と鯉登、そこに通訳として月島を挟んでの交渉はしばらく続いている。入口近くに立って彼らの話が終わるのを待つ他の面々は、特にすることも無く手持ち無沙汰に身を寄せ合っていた。チカパシは、彼の両肩に手を置くを見上げるように振り返った。
「鯉登ニパ達は何を話してるの?」
「大きな部屋は埋まってるみたい。私達は、来るのが少し遅かったからね」
「だから最初のところにしとけって言ったんだよ」
 襟巻きに半分顔を埋めながら、杉元が愚痴る。
「あれが気に食わないそこが嫌だと細かくケチ付けるから、結局最後にこの宿しか無くなったんじゃねえか。部屋が足りなかったらもうあいつが外で良いだろ」
「しかし金を出してくれているのは鯉登少尉だぞ」
「その通り」
 谷垣が杉元を宥めていると、鯉登達が戻って来た。今の話が少しは聞こえていたのか、鯉登は瞳を薄くして杉元に冷ややかな視線を送る。
「文句があるなら貴様が外だ。朝になって凍死していたら外に繋いでいる犬の餌にでもしておいてやる」
「でもリュウは杉元ニパ食べないと思う。チンチンが付いててまずそうだから」
 特に悪気の無いチカパシにまで便乗されて、杉元は反論しようと開きかけた口をぐっと閉じた。
「空き部屋は二部屋だ」
 そこで月島が二本指を立てて口を開くと、皆の視線が彼に集まる。
「内一つは、宿の主人が普段は夫婦の仮眠用に使っている部屋を用立ててくれる。他と比べると狭いが、寝泊まりする分には問題無いそうだ」
さん」
 すると前に出た鯉登がに恭しく声を掛けた。その際にさり気なくチカパシの背をスススと押しやって、彼女から離す事も忘れない。
「実はさんにはそちらの部屋を使っていただこうかと。窮屈な思いをさせてしまい申し訳ないのですが、鍵が付いているそうなので用心にはなるかと思います」
「私はどこでも大丈夫。そうか、二人部屋って事は……」
「待て。その子供の世話は谷垣にさせる」
 チカパシに視線を向けたの言葉を遮ると、月島は谷垣の方へと向き直った。
「同行を許したのも、元々そういう約束だったはずだ。そうだな」
「は、はい」
 すると杉元は壁に寄り掛からせていた背を離した。
「それじゃあ、俺とが──」
「やはり馬鹿だな」
 杉元が「あ?」と睨み返した先、鯉登は軽く顎を上げながら彼に蔑むような眼差しを向けた。
「折角さんには鍵の掛かる部屋で休んでもらおうという所を、杉元のような賊を中に入れては意味が無いではないか」
 明らかに私情の入った鯉登の言い分に、月島が鼻からふうと短い息を吐いて補足する。
「同室が許可出来ないというのはその通りだ。言葉を話せる奴が一緒となれば、どうとでも動きようがあるだろうからな」
 月島の言葉は、杉元とを二人にした際に勝手な行動を取る可能性があるのではないかという事を暗に示唆していた。
 疑われる杉元にとっては当然あまり気分のいいものではないが、信用していないのはお互い様であり、理由としては納得出来るものであった。仕方がないと引き下がろうとした彼は、しかしそこでふとある事に気が付く。
「おい、って事はは」
さんは月島と同室にする」
 えっ、と。鯉登以外、全員の声が揃った。
 彼らが話してきた条件から消去法で二択、当然鯉登がその権利を主張するものだと思われていた。それは指名を受けた月島にとってもそうであったようで、彼は困惑したように鯉登に問い返す。
「な、なぜ私なのでしょうか」
「?私とさんは誰にも恥じぬ清らかな交際をしているのだ。大部屋ならともかく、婚姻前の男女が二人で枕を並べるわけにはいかないだろう」
「え〜、怖ぁい。勝手に婚姻とか言い出してるう……」
 杉元が鯉登の発言に引いている最中、月島とは互いに気まずそうに視線を合わせていた。


 + +


 他の客室とは離れた位置にある所から、おそらく元々は物置のような部屋を改装したのだろう。唯一設けられた天井近くの小窓は最低限の換気や採光を目的としたもので、その圧倒的な閉塞感はつい先頃の網走監獄の独房を思わせた。
 しかし、月島とが扉を閉じてからもその場に立ち尽くしていたのは、この部屋の狭さに驚いての事ではない。そもそも野営には慣れていて、雨風凌げて横になれる場所さえあれば充分という二人である。
 ベッドの数は一つであった。
 確か、夫婦の仮眠用と言っていたか。狭い室内の殆どを占めているそれは、大人二人が並んで寝られるよう大きめの作りにはなっているが、それでもある程度身を寄せ合わなければ難しそうに思えた。
「「…………」」
 他に居場所もない為、取り敢えず無言のままベッドの両端に背中合わせで腰掛ける。
 どこからか隙間風が入ってきているのか、天井からつり下げられたランプが時折カラカラと音を立てて揺れていた。そうしてしばらく続いた不自然な沈黙を、先に破ったのは月島である。
「言っておくが、俺は鯉登少尉殿のようにお前を特別扱いする気は無──」
「パン、食べる?」
 するとほぼ同時に振り返ったと、彼の声が重なった。不意を突かれて目を丸くした月島は、何ともぎこちない表情を向けてくるから、彼女の手元へと視線を動かした。
「……何だそれは」
「パン、少し固いパン。さっき外にいた知らない男がくれた」
「な……おい、そんなよく分からない奴から貰ったものを食べるんじゃない!」
 確かに見た目はパンに近いその塊をさもさと口にするに、月島は手を伸ばした。は驚いて反射的にそれを避ける。
「食べるならもう一つ手を付けてないのが」
「そっちも処分しろ。腹を壊したらどうする、薬は無いんだぞ」
「そんな、ちょっと待っ」
「──何をしているッ!!」
 バターン!!と大きな音を立てて扉が開かれる。
 まだ部屋の鍵は掛けていなかったのだ。ベッド上の二人が視線を向けると、そこには鯉登が立っていた。彼は上下する肩の動きを徐々に落ち着けていくと。
「ベッドが一つだと……!?」
「(面倒くさい)」
 再び愕然とした鯉登に、月島は眉を顰めた。


「なるほど、パンを……」
「でも確かに月島軍曹の言う通り迷惑を掛けてしまうかもしれないし、もう食べるのはやめておくよ」
 の説明によってひとまず誤解は解けたものの、今鯉登が何より気になっているのは彼女らの部屋の様子であった。何と言って切り出そうか落ち着きなく視線を動かす鯉登に、彼に合わせてベッドから立ち上がっていた月島が声を掛ける。
「鯉登少尉殿はどうされたのですか」
「いや、特にこれといった用件は無いが……」
 そう言って考え込むようにした鯉登は、妙案を思いついたとばかりに明るい声を上げた。
「おおそうだ、やはり谷垣とあの子供をこちらの部屋に寝かせれば良いではないか」
「それについては」
 声が外に漏れるのを気にしてか、月島は鯉登に部屋に入るようにと視線で促す。それに疑問符を浮かべながら扉を閉めた鯉登を見て、はベッドから腰を浮かせた。
「話があるなら、座って。立ち話だと狭いでしょう」
「!いえ、とんでもない。さんはどうかそのままでいらして下さい」
「それじゃあ私が少し寄るから、ここにどうぞ」
「えッ」
 が尻の位置をずらして隣に空きを作る。
 すると鯉登は、表情から察するに短い間にもいくらかの葛藤を重ねた後、ベッドの軋む音すら鳴らさぬ程にそうっとの隣に腰を降ろした。背筋は綺麗に真っ直ぐ伸ばし、合わせた膝に拳を置いて、表情を綻ばせていく。
「おお……、見た目よりも座り心地は悪くないですね」
「敷物も取り替えてくれたみたいで、すべすべしてるよ」
「フフフ。本当ですね、すべすべしてる」
「話を続けていいですか?」
 鯉登との、取り留めないほのぼのとした会話を月島が打ち切った。そうして二人の視線が再び自身に向いたところで、彼は続ける。
「まず、この旅で警戒すべきは杉元の動向です。奴が何か行動を起こす事を考えると、監視には最低限二人で当たるべきでしょう」
「杉元相手なら私一人でも問題無いがな……」
 鯉登が腕組みながら不満げに言った。
 はというと、なぜ月島が自分達の手の内を明かすような話を彼女もいる場で始めたのか戸惑っていた。そんな中、改めて月島から視線が向けられると、は思わず身を固くした。
「そうなると……、先程も言ったようにこちらの言葉が話せる人間も抑えておくべきです。見知らぬ土地でもある程度動けるとなれば厄介ですからね」
「そこは正しく言い直せ月島。さんに限って、月島が心配するような事は何も無い」
 すると月島は、一拍間を置いて頷く。
「ええ。そうかもしれませんが、杉元に強制される事も無いとは言い切れないですから」
「ぐっ……おのれ杉元、卑劣な奴め……!」
 一応は鯉登の話に合わせた月島だが、感情の籠もらない口調からもを信用していない事は明らかだった。は理解する。彼は警告の為に、敢えてこの話を彼女に聞かせているのだ。
「谷垣は女の事もありますし、我々には従うでしょう。しかし咄嗟の情に絆される可能性も考えて、あの子供を傍に置いておけば下手な真似はしないかと」
「ふむ。となると私と月島のどちらか、それと谷垣が杉元の様子を見ていればいいわけだな」
「先程も同じ話をしましたよね」
 月島は最早隠す事なく、やれやれと呆れた様子で肩を竦めた。
「やはり鯉登少尉殿がこちらの部屋で休まれては?外で話を聞かれていたのも、様子が気になっての事でしょう」
「ご、誤解されるような事を言うんじゃない。私は、そのッ……たまたま、通り掛かっただけだ」
「突き当りにある部屋の前を、たまたまですか」
 問い詰めるような月島の眼差しから、鯉登は気まずそうに顔を逸らす。すると鯉登は隣のにチラと視線を向けた。が目を瞬かせると、彼は眉尻を下げて、何かを断ち切るかのように頭を振る。
「いや、やはり駄目だ。私は今回の任務にあたって、この状況を利用するような真似はしないと決めている」
 固い決意で言い切った鯉登の横顔に、は目を見張った。すると月島も諦めたように肩の力を抜いていく。
「分かりました。私は床で寝ますのでご心配なく」
「その必要は無い。月島も休める時に休んでおかなければ、いざという時に困るだろう」
「はあ……。そう仰っていただけるのはありがたいのですが、先程は何やら誤解もあったようなので」
「あ、あれはちょっとした手違いだ。私は部下の事は信用している」
 鯉登はそこでハッとすると、慌ててに顔を向ける。
「勿論、さんが嫌でなければですが……。月島はこの通り見た目は小汚い男ですが、これでも風呂には入っているので辛抱いただければと」
「こちらこそ、私が女であるばかりに面倒掛けてしまって申し訳ないな……」
「何を仰る。さんの様な方とご一緒出来るのですから普段男所帯の我々にとっては喜ばしい事です。そうだな月島」
 同意を求める鯉登に、月島は眉一つ動かさずに返す。
「いえ。私はそういうのは特に無いですね」
「ええい、いい格好をしようとするんじゃない!」
 すると鯉登は横目で月島を見ながら、にさっと耳打ちをした。
「あれで月島は、以前は私にさんの事を綺麗な女性だと言っていたのです。気を付けて下さい」
「ちょ……」
 狭い部屋で声を潜めたところで意味は無く、むしろ当てつけのように囁かれた言葉に、月島はそれを制止するように僅かに手を上げて焦りを見せた。
 一瞬。とぶつかった視線を眉を顰めて逸らすと、彼は再び手を下ろす。
「それこそ勘違いされるような言動は控えて下さい」
「勘違いも何も、確かに言ったではないか」
「あれは監視の任に付かれる鯉登少尉殿に、余計な情を持たぬよう注意を促しただけの事です」
 すると月島は何かを思案するような沈黙を作った。
「そう言えばあの時……、“自分は全く趣味ではない。お前達は女を見る目が無い”と……」
「とうに過ぎた話を持ち出すんじゃない!いつまでも過去の事を根に持つ、陰険な奴だと思われても知らんぞッ!!」
「(二人ともまだ休まないのかな……)」
 何だかんだと旅の疲労が溜まっていたは、月島と鯉登の会話を夢うつつに聞きながら、ウトウトと船を漕ぎ始めていた。


 + +


 鯉登が名残惜しげにようやく部屋を後にしてから、月島とはそれぞれ床に就くための身支度をしていた。狭い部屋の中やはりこれといった会話は無いが、あまり口数の多くない彼らにとって本来これが自然な状態なのだと分かると、先程のような重たい雰囲気は無い。
「……あの通り、やや人の話を聞かれないといったきらいはあるが」
 呟きにが視線を向けると、そこで月島は彼女に背を向けたまま上着の汚れを払っていた。
「軍人としては優秀な方で、いずれ指揮官となる道も約束されている。本人の意向で先頭に立つ事が多くなるにしても、それでも、その他大勢の駒のように使われる事は無いだろう」
 月島は、更に淡々と続ける。
「正式に夫婦となる事は難しいだろうが、お父上である鯉登少将殿もおそらく悪いようにはしない。少し前向きに考えてみてはどうだ」
 その言葉を受けて、は驚いた表情をみせた。一度開いた口をまた閉じて、は彼に問い返す。
「月島軍曹も……、女だったらああいう人を夫にしたいと思うんだろうか」
「は?」
 すると月島は手を止めて、肩越しにの方へと振り向いた。脳裏には紋付袴姿の鯉登と隣に寄り添う白無垢姿の自身がぽっと浮かぶも、彼は直ぐ様げんなりした表情でそれを打ち消す。
「俺は遠慮する」
「お似合いなのに」
 はそこでますます苦々しい顔をみせた月島に笑いを零すと、自身の頭に手を伸ばした。そこに巻いていたマタンプシを外すと、中にしまい込んでいた長い髪がはらりと落ちる。
 アイヌの女は髪を短くしている者が多いが、自身はどちらかと言うと長くしている方が好きだった。解放感に息を吐き、彼女はベッドの端に横になって瞳を閉じる。
「ちょうど一年前ぐらい前、世話焼きのウナラペ達から似たような話をよくされたな……」
 おやすみなさい、と。そう呟いたのを最後に、はやがて静かに寝息を立て始める。
 一年前というと──、が頭を撃たれた怪我から回復した頃だ。
 待ち続けた想い人の訃報と共に、事故でその前後の記憶さえ疎らとなった女を、周囲はさぞ哀れんだに違いない。の先程の口振りだと、おそらく鶴見から話を聞いて自身の事情を知る月島からも、同じような意味で言葉を掛けられたと思ったのだろう。
「…………まさか」
 ランプの灯りが消えた暗い部屋の中、突き放すような呟きが月島の口からぽつりと漏れた。
 そこに滲む僅かな苛立ちは、結局のところ今も真実を何も知らないままでいると、彼女の好意的な解釈を否定しつつ、かといって他に上手く理由付けする事も出来ない自身へと向けられていた。
 伏せられた長い睫毛と、ベッドに広がる細く柔らかそうな髪。体を小さくして無防備に横たわるは、どこをどう見ても“綺麗な女性”である。月島は疲れたように溜息を吐くと、今晩これ以上余計な事は考えぬよう、自身も彼女に背を向けてベッドに横になった。