船上の広い甲板、は潮風で頬に流れてきた髪を掬い上げ、耳に掛ける。

 背後から呼び掛けられてが振り向くと、杉元が軍帽の鍔を押さえて立っていた。彼は注意深く周囲の人影を確認してから、彼女の前へと進む。
 向かい合って視線を交わす事で、彼らは無言のうちに互いの意思を確認した。が口を開こうとすると、杉元はしっと人差し指を立てる。
「念の為に小声にしよう。どこで聞かれてるか分からねえからな」
 は頷いて、改めて続ける。
「本当に彼らと同行するのか?」
「ああ。不本意でも、今は大人しく言う事を聞いてやってる振りをした方がいい。……俺は、アシパさんを取り戻すためには手段は選ばねえ」
 そう語る杉元は、瞳の奥に獰猛な熱を籠もらせる。は不満げに眉を顰めて、自身の手の甲を彼の胸元にトンと押し当てた。
「“俺は”、じゃない。“俺達”は、だよ」
 の言葉に杉元は瞳を開くと、彼女に対して「悪い」と申し訳なさそうに謝罪してから、それまで張り詰めさせていた雰囲気をようやく和らげた。そして何かを思い出したように、今度はに気遣うような眼差しを向ける。
も怪我してたんだろ。大丈夫か?」
「杉元に比べたら何も。そもそも私のは仮病だから」
「は?そりゃ何でまた……」
 杉元からの問いをはぐらかす様には笑みを見せると、その視線を杉元の頭へと向ける。
「尾形か」
 の呟きに、杉元は眉を顰めた。
「直接姿は見てねえが間違いねえ。実際あいつら、アシパさんを連れ出すならも一緒に連れて行きたかったろうな」
「私があの時アシパの傍を離れていなければ、どうにか出来たんだろうか」
 が声を暗くして言うと、杉元は一度開きかけた口を閉じて、それからまた続けた。
「……いいや、正直何も変わらなかったと思うぜ。尾形はともかく、がキロランケを疑う事は無かっただろ」
「それは……」
「だから何も気にする必要も無いさ。へっ、つまり今回は全部が全部あいつらの思うようにはいかなかったって事だ。ざまぁみろ」
 おどけるような口調から、ナマエは杉元なりの励ましを感じた。
 あれだけの怪我を負わされて、本来は肉体的にも精神的にも一番衰弱していておかしくない状況にあるのは彼だ。は弱音を吐いた自身の情けなさを恥じると、気合いを入れ直すようによしと拳を握る。
「杉元の言う通りだ。過ぎた事を悔やむより、今はアシパとシライシを連れ戻す事を考えなくちゃ」
「あ。白石もいたな」
「ふふ、まったく杉元は。ふふふ……、……え?」
 意外と本気そうな杉元の反応に、が不安を覚えていると。
「──そこ!何をしているッ!!」
 甲板中に響き渡るような大きな怒声が、割って入った。


 + +


「……面倒くせぇ奴が来たな」
 舌打ちしうんざりとしたように呟いた杉元の言葉は、彼らの姿を見つけて近付いてくる鯉登の耳には届いていないようだった。
 杉元はに目配せをすると、ここは自分に任せろと口を動かす。
 が小さく頷き返すと、その些細なやり取りに対しての違和感を隠すかのように、自身の方から鯉登に声を掛けた。
「別に何もしちゃいねえよ」
「それを判断するのは貴様ではない」
「あ?」
 敢えて鯉登の話に乗ってやった杉元だが、彼の前にやってきた鯉登の不遜げな態度に思わず眉根を寄せた。しかし鯉登は臆す事なく、そのまま人差し指を杉元の眼前へと突き付ける。
「いいか?今までは少しばかりさんの近くにいられるからといって調子に乗っていたようだが、今後は杉元の分際で私の許可無く勝手な行動は取らない事だ」
「……まいったな。俺にはこのお坊っちゃんの言ってる意味が全然分からねえ」
 杉元は自身の気を落ち着かせるように軍帽の位置を直してから、鯉登をじろりと睨んだ。
「どうして俺がと話してるだけで──」
「馴れ馴れしくさんの名を呼ぶな」
 そこに間髪入れず鯉登が口を挟んだ事で、場の空気がより一層すっと冷えた。
 その険悪な雰囲気を察したも間に入ろうとしたが、先程杉元から自分に任せるよう伝えられた事もありどうすべきか迷っていた。彼女の位置からは、軍帽の鍔の影が目元に掛かった杉元の表情は、完全には窺い知る事が出来ない。
 が杉元から視線をずらすと今度は鯉登と目があった。途端、彼は嬉しそうに顔色を輝かせる。
さん」
 鯉登はの名を呼んで、一歩前に出る。
「なかなかご挨拶に伺えず申し訳ありませんでした。本来であれば私もすぐにお会いしたかったのですが、上官命令で止められておりまして……。病み上がりであると伺いましたが、不便はありませんか」
 その相変わらずの勢い気圧されるだが、鯉登は気にもせず続けた。
「このように揃いも揃って頼りにならない輩共とでは、道中さぞ苦労されたでしょう。これからは私がさんをお守り致します。ご安心下さい」
 鯉登は先程までの杉元への態度とは違って、今度はが戸惑うほど友好的に接してくる。むしろ彼には既に杉元の姿が見えていないのではないかとすら思えた。
 分かっている、鯉登は決して悪い人間ではない。
 一時的にとはいえ行動を共にする以上、必要以上の警戒心を持つ必要も無いのではないかとは思った。言葉を返そうかと鯉登の目を見た彼女に対し何を思ったか、彼はぽっと恥じらうように頬を染めて、指先を擦り合わせる。
「ところで……、実はこの船には私の父が同乗しているのですが、ご迷惑でなければさんとも一度」
 鯉登が最後まで言い切る前に、それまで黙っていた杉元が遮るようにの前へと腕を出した。
「(杉元……)」
 も杉元の横顔を見る。彼は鯉登と静かに睨み合いながら、ゆっくりと口を開いていくと。
は、お前とは口利かねえ」
 これまたとんでもなく──まるで、どこかのガキ大将みたいな事を言い出した。
「口を利……っ、なぜ杉元にそんな事を言われなくてはならないのだ」
「先に似たような事言い出したのはてめぇだろ。つうか俺の方がとは付き合いも長いし、馴れ馴れしいのはそっちじゃねえか」
「ふん、重要なのは時間では無くどれだけ深い付き合いをしているかという事だろう。そこへいくと、貴様は勝手に後をついてきた薄汚い野良犬のようなものだ」
「あーそうかよ。相手の顔色を読める分、犬の方がよっぽど賢いけどな」
 互いにむきになりながら言い合う様は、どうもまた先程の言い争いとは質が違う。何というか、一気に次元が下がったように感じられたのだ。
「そもそも話す相手を決めるのはさんだ!貴様にその判断を下す権利は無いッ!」
「はいはい、その事ね……」
 すると杉元は、の肩に手を置く。その“覚えのある”合図にがハッとして杉元を見ると、彼は静かに頷いた。一体どうしたのかと鯉登は眉を顰める。
「おい。聞いてるのか杉も、」
『わ……、私は、日本語が分かりません』
「…………何?」
 突然異国語を話し出したに、鯉登は目を丸くした。
 それはが杉元と二人で街に出た時に、彼から教わって何度か使った事のある方法であった。明らかに和人には見えないに対して、足下を見るような対応を仕掛けてくる輩も少なくはない。それにいちいち付き合うより、むしろ押し通して遠ざける方が、面倒では無い場合もあるのだと。
「こういう事だ。は今、お前と話す事が出来ねえんだとよ」
「ロ、ロシア語か?しかしなぜ突然……」
「誰にだってそういう時はあるだろ!察してやれよ!」
 取り敢えず杉元の案に乗っただが、さすがに無理があるのではないかと思っていた。いまだ半信半疑といった鯉登からの眼差しに耐えられず、思わず視線を逸らしてしまう。
「……病み上がりの影響というわけではないんだな?」
「ああ。そいつは心配いらねえよ」
「それなら良いが……いいや待て、おかしいぞ。どうして杉元と話す事は出来るんだ?貴様にロシア語など理解出来るはずがないだろうに」
「そ、それは一緒にいるうちに何となく通じ合ってくるみたいなアレでッ……」
 鯉登からの指摘に対してもごもごと歯切れ悪く答える杉元に、は言わんこっちゃないと目を薄くする。
 名も知らぬ他人を相手に、その場しのぎで誤魔化すのとでは状況が違う。それによく考えると、ここまでして鯉登との会話を拒む必要も無いような気がしていた。
『普通に話した方が怪しまれないんじゃないかな……』
「“取り敢えず鬱陶しいから近寄らないでほしい”とさ。ほら、分かったらさっさとあっちいけ」
 が思わずぽつりと口にした言葉を杉元は勝手に訳すと、鯉登を追い払うように手を払った。
 当然激昂するかと思われた鯉登だが、意外にも真顔でそれを受けると、今度はそのまま表情ひとつ変えずに口を開く。
「……いいや。さんは、“杉元消えろ。今すぐ海に飛び込み、泳いで後をついて来い”と仰ったのだ」
「ハッ、適当ぬかすな!どうしての言う事がテメェに分かるんだよ」
「杉元に分かって私に分からぬはずがない!貴様だけが特別だなどと、思い上がらない事だな!」
「な、俺以外にもこの能力(ちから)を持つ奴が……!?」
 いよいよもってどう声を掛けるべきか迷う展開になってきたが、が身動きを取れずにいるのには、もう一つの理由があった。
 ちょうどの位置から見えるのは、彼女らから少し離れた場所で困惑するような表情を浮かべる谷垣と、その隣、冷ややかな眼差しの月島だ。
 一体何をしているんだ、と──そう追求するかのような月島の眼差しは、明らかにへと向けられていたのである。


 + +


『以前にも俺を巻き込むなと話さなかったか』
『ごめんなさい』
 静かな口調で話す月島と、彼の前で項垂れる。彼らが会話する様子を見て、杉元は悔しげにに顔を歪めた。
「チッ……。そっちが話せんのかよ」
「そうでなかったとしても、これからずっとだけ会話させないのは無理があるだろう」
 同じく事情を聞いた谷垣が杉元の隣で呆れたように言うと、鯉登がふんと息を吐いた。
「私は最初からおかしいと思っていたぞ。杉元にロシア語が分かるはずがない。馬鹿なのに」
「言葉が分かんねえのはお前もだけどな」
「私とさんの仲を邪魔しようとしたのだろうが、残念だったな。どだい貴様ごときに引き裂けるようなものではないわ」
「それこそ勘違いだろ。気持ち悪ッ」
「──は?」
「──あ?」
「ま、まだ船の上だぞ。杉元もわざわざ挑発するんじゃない」
 顔を近づけてバチバチに睨み合う杉元と鯉登の間に、谷垣が仲裁に入る。その様子を見て溜息を吐いた月島は、に「行け」と目線で促した。
 いつの間にか出来てしまった彼に対して逆らえない雰囲気に、はまるで躾でもされてしまったような気になった。気持ちばかり反抗的な目付きをしてみるも特に月島には変化が無かったため、彼女は諦めて杉元らの方へと向かう。
「喧嘩は良くない気が」
さんの仰る通りです」
 すると杉元をぐいと手で押し退けて、鯉登がの前に出た。しかし勢いよく出てきたにも関わらず、彼は何やら言葉を選ぶように、彼女の顔色を窺いながら続ける。
「その……、先程杉元が言っていた私が鬱陶しいという話なのですが……」
 は、思わず目を開いた。
 杉元がその言葉を告げた時はあまり大きく反応していなかったはずだが、気にしていたのだろうか。落ち込んだような鯉登を前に、は申し訳なくなって急ぎ否定する。
「鬱陶しいなんて思っていないよ」
「!で、では、さんの本心ではないのですね」
 の頷きに鯉登が表情を明るくしたところで、月島が彼に声を掛けた。
「気が済んだのなら一緒に来て下さい。鯉登少将殿とも、まだ話の途中だったでしょう」
「む……しかし病み上がりのさんを杉元達に任せておくわけには」
「怪我の事なら、心配はいらないでしょう」
 そう言って向けられた視線に警戒心を高めるに対して、月島はゆっくりと口を開く。
『仮病を使って避けるほど、そんなに鶴見中尉殿とは話したくなかったか?』
 流暢なロシア語でそう続けた月島に、彼女の身体が僅かに強張った。二人の間に緊張した空気がにわかに漂い始めようかとした、その時。
「ずるいぞ月島ァ!!」
 それ打ち破るかのように、鯉登が月島の肩を掴んでゆさゆさと大きく左右に揺らした。
「自分だけ話せるからといって堂々と抜け駆けをするんじゃない!」
「抜け駆け……。今後余計な騒ぎを起こさぬように釘をさしただけです」
 それでも疑わしい目付きを浮かべる鯉登は、戸惑うの方を様子を窺いつつ月島にそっと耳打ちする。
「では私に、ロシア語で女性への雰囲気ある口説き文句はどう言うのか教えろ」
「それはロシア語の必要はありますか?」
 鯉登と月島がやり取りしている内に、谷垣がに声を掛けてきた。
「声を掛けるのが遅れてすまなかった。遠目からは様子が分かりづらくてな……」
 眉を顰めながら言う谷垣を見て、はしばらく続いていた緊張感から解放されて、ようやく人心地ついたような気になった。
 大丈夫、心配いらない、と。が谷垣に応えようとすると、それとは反対側から彼女の肩に手が置かれる。

 呼び掛けに振り向いたの視線の先には杉元がいた。
「さっき、何か嫌な事でも言われた?」
 その静かな問い掛けに言い知れぬ不穏な気配を感じたのはだけではなく、谷垣も同じようだった。は一瞬だけ躊躇って、言葉を選ぶように返す。
「杉元が心配するような事は何も。さっき言った通り、余計な騒ぎを起こすのは控えるようにって」
「!……チッ、喧嘩売ってきたのはそっちが先だろ。ちょっとあのボンボンに甘すぎるんじゃねえの?」
 ぶつくさと愚痴る杉元を宥めつつ、は彼の雰囲気が戻った事に安堵した。
 先程に声を掛けてきた杉元は、至って落ち着いていた。“落ち着きすぎていた”。それはの返答によっては、たとえここが陸から遠く離れた船の上で、多くの軍の人間達が乗船していようと、いかような選択肢でも迷わず取り得るかのような──。

 一同を乗せた巨大な船体は、冷たく重い波を切り、まだ見ぬ樺太の地を目指していた。