町外れに取った宿の一室に、先に一人戻ったのは杉元だった。壁を背に片膝を立てて座り込むと、力を抜くように長く息を吐いた彼であったが──、再び顔を上げると同時に纏う空気を変える。
 古びた床板を軋ませてゆっくりと階段を上がってくる気配。一切の感情を消した瞳が、しかし瞬時に獣となり得る獰猛さを際に潜めて、訪問者を待った。

「……、お前かよ……」
 襖を開けて現れた尾形は、取りようによっては不躾とも取れる杉元からの言葉にも特にこれといった反応を見せる事は無かった。ただ彼はその場に立ったまま室内を静かに見渡し始める。
「(尾形と二人……。……まあ、別に楽しくお喋りする必要もねぇけど……)」
 気が付くと尾形の視線は杉元の方へと向けられていた。それに対して杉元が一体何だと眉を顰めた、その時だ。
 すとん、と。
 素っ気無い音を立てて襖が閉められた。真顔のまま取り残された杉元。彼はふっと自嘲気味な笑みを浮かべて、頭を掻くと──。
「……、はあぁ!?おい、ちょっと待て!!」
 指先を突きつけながらの怒鳴り声に、遠ざかりつつあった気配は立ち止まり、それからいかにも億劫そうに部屋の前まで戻ってきた。再び僅かに開いた障子の隙間から、尾形が身体半分だけを覗かせる。
「テメェ、今人の顔見てから出て行きやがったな!?」
「その通りだが……」
 思いの外あっさりと肯定した尾形に、杉元は一瞬目を開き言葉を詰まらせる。そして堪えるように口端を引きつらせながら続けた。
「へ……、へぇ〜、あっそう……。……まあ別に俺は気にしないけど、普通はそういう露骨な態度って少し考えるもんだよな。子供じゃないんだからさあ……」
 話す杉元を尾形はしばらく見ていたが、それで終わりと判断したのか、自分からは何を語る事も無く障子を閉じた。
 背後では、杉元がまた何やら声を上げていたが。
 尾形が再び階段の前までやって来ると、今度はちょうどそこを登ってくる相手の頭が見えた。その相手、も彼の気配を感じたらしく顔を上げる。
 宿の階段は幅が狭く、脇には手摺も無いという造りであった為、彼らがすれ違うには些か窮屈だ。は足を早めて登り切ると、尾形に道を譲るように壁に背を付けた。すると、その行動を追っていた彼と自然に視線が重なる。
 そのまま、やや間があって。
「……、?出るところだったんじゃ?」
 尾形はからの問いに明確に答える事は無く、ただ不思議そうにしている彼女の顔を見て何かを考えるようにしてから、今来た部屋の方へとちらと視線を向けたのだった。


 + +


「階段のところで会ったんだ。尾形も今戻ってきたところだったって」
「ヘー、ソウナンダアー」
 どこか虚ろな目付きで応える杉元に対し、の背後、少し離れた部屋の隅に腰を降ろしている尾形は依然と素知らぬ横顔を向けたままだった。
 そのしれっとした態度に文句の一つでも言ってやりたい杉元であったが、荷を解くの様子に何か気が付くとそちらに声を掛ける。
「そうだ、アシパさんは?ここを出る時は一緒だっただろ」
「杉元はアシパの事が気になるんだな?」
「えっ、そりゃまあ」
 途端嬉しそうに顔色を輝かせるの勢いに、杉元は若干気圧されつつ応える。するとその言葉に満足してか、はうんうんと頷きながら上機嫌そうに続けた。
「アシパなら、チ、牛山と一緒だよ」
「牛山?」
「近くに“雰囲気のいい場所がある”らしい。ちょうどアシパも、もう少しこの辺りを見たかったみたいだから、牛山が後で宿までは送ってくれると言っていた」
「あー……、それ、は行かなかったんだな」
「牛山は腕も立つし面倒見もいいから、心配しなくても大丈夫だと思って」
 の背後でふっと息を漏らし、笑うような気配がした。
「女口説いたつもりが、結果子供の守役任されてちゃざまねえな」
 尾形はまたその笑みを奥へと潜めると、振り向いたに視線を合わせて続けた。
「さっき、一度言い直しただろう」
「言い直す?」
 いまいち話が見えず、は尾形に聞き返す。
 一方何となく嫌な流れを察した杉元はそれを止めようとしたが、既に尾形の瞳の中には、戸惑うの姿がしかと捉えられていた。
 彼はやけにゆっくりと感じられる動作で彼女に人差し指を向けながら、
「──“チンポ”」
「……は」
 聞き間違いようがないほどはっきりと口にし、続けた。
「そう言いかけて、“牛山”と言い直したな。俺達の前で口にするのはさすがに気が引けたか?」
「…………」
「そういうシモの話を避けるくらいの理解があるなら、あのデカブツに対しても少しは」
「もうやめたげたらぁ!?」
 俯き表情が見えなくなったに、さすがにいたたまれなくなった杉元が大きな声を上げた。
「そういうのは気が付いててもそっとしておいてやるのが優しさだろ!」
「……なぜ?」
「な……、なぜってそりゃ、ぐらいの女がチンポとか恥ずかしいだろうし」
「……まったく」
 ハァ、という溜息と共に聞こえた呟きに、杉元と尾形の視線が同時に向けられた。
「男(オッカヨ)は、本当にそういう話が好きだな」
 まるで幼子同士のやり取りを語るかのような口調に、尾形の眉が僅かに顰められる。顔を上げたは、頬に掛かっていた髪を耳に掛けながら続けた。
「何か意識したわけじゃない、ただの言い間違えだ。私もさっきまで二人と一緒にいたから、アシパの言葉が移ってしまったんだろう」
「あら、案外平気そう……?」
「そういう言葉をやたら使いたがったり、反応したりするのは好奇心が強いチカパシくらいの年頃の子供達くらいなものだ。それに獲物の解体をする時などは普通に口にする言葉だぞ」
「…………」
「!おお……、よく考えたらそれもそうだよな」
 の話に納得してから、杉元は尾形に向かってへっと嘲るようにし、引きつった表情で告げた。
「だとよ。恥ずかしいのはどっちだったかなぁ〜……?」
「……何も、そういう意味で指摘したつもりは無いんだが……」
 杉元からの挑発に動じる様子も無く応える尾形。するとそこで先程の会話を思い出したは、目を開いた。
「そう言えば、何か言い掛けて……」
「ああ。そうか」
 の言葉に被せてポツリと独り言のように言った尾形は、しっかりと彼女に視線を合わせると。
「思い出したぞ。そもそも、お前はそいつが“好き”なんだったな」
「…………、……どういう意味の!?」
 二人のやり取りを聞く杉元は深刻な表情でそっと口元に手を添える。
「えっ。これ、俺が聞いてていいやつ……?」
「そういう反応はますます変な感じになるから!」
 今度こそ明らかな動揺を見せて、赤面しつつ慌てる。尾形の口元が密やかに歪められた。
「以前、鹿の解体をしている時に聞いた事がある。アイヌにとってそいつには食用というよりもまた様々な用途があって、お前などは上手く使うのだと」
「……あ」
 途端、は安堵の表情に変わる。
「使うというのは……薬にしたり、あとは占いにも使ったりするという、そういう事で」
 やや早口にも聞こえるの説明を、尾形はいかにも作ったような笑みを浮かべ、頷きながら聞く。続ける彼女の声は段々と小さくなってきていた。
「だから、私がそれを……好き、というか」
「おや……少し、おかしいなぁ……?」
 喉元に絡みつくような尾形からの物言いに、は短く息を飲んだ。
「普通に口にするんだろう?意識もしていないと言うのなら、なぜいちいち濁すんだ」
「別に、それで伝わるなら敢えて言う必要も」
「それにさっきはわざわざ、どういう意味か、と聞いたな」
「あ、あれは、ただ」
「いいから──やましい意味が無いのなら、はっきり言ってみろよ」
「!」
 カッと顔の熱を上げながら口を開いた。だが、上手く言葉が出てこなかったのか、数度そこをぱくぱくさせただけで観念した様に再び俯いてしまった。だって、それは、と小さな声で一応何やら反論めいた事を言ってはいるようだが、それ以上具体的には聞き取る事が出来ない。
 尾形にとってそこで何か、一段落ついたのだろう。鼻から短く息を吐き表情を消す。
 ふと、杉元から向けられている何とも言えない苦い表情に気が付くと、彼はそこから視線を外しつつ自身の髪を撫で付けて。
「……ああも己だけ身奇麗ぶった振る舞いをされると癪に障らんか」
「ねえ、何言ってんの?」
 杉元にとっては理解する事が難しい彼なりの行動原理を、それが世の道理であるかのように述べたのだった。


 + +


 重量級の大きな足音が階段を駆け上がってきたかと思うと、その勢いのまま部屋の襖がぴしゃっと開かれた。部屋の中にいた杉元と尾形、は、各々身体を起こしてそこに現れた人物を見上げる。
「……、あれ……?」
 肩にアシパを乗せて登場した牛山は、中の様子に意外そうに目を開いていた。彼は何かを探すかのようにそこでしばらくきょろきょろと視線を動かしてから首を捻る。
「何も……、ないのか?どうも卑猥な気配がしたから、あわよくばと思ったのに……」
「ヒワイな気配ぃ?」
「「止めろ!」」
 牛山の肩に乗るアシパが反応した事で、杉元とが慌てて声を上げた。
「う〜ん、おかしいな。俺はこういう事に関しちゃ鼻が利く方なんだが」
 牛山はアシパの両脇を抱えて床に降ろしてやりながら、唯一無言のままでいる尾形に問うような視線をやった。それを受けた尾形はふうと息を吐き、瞼を伏せつつ応える。
「こちらには気の利かない坊やがいるんでな」
「なるほど、そういう……」
「あぁ!?何見てんだよコラッ!」
「杉元、どうどう」
 尾形と牛山に向かって吠える杉元の肩を、アシパが軽く叩き落ち着かせる。
 一方の方はというと、先程の自身の失態を省みて危うげな会話からは距離を取るようにしていた。不自然に背筋を伸ばす彼女は、しかしアシパが傍に来るとその表情を和らげて強張らせていた身体から力を抜く。
「お帰り、アシパ。目的の場所は見て回れた?」
「ああ、チンポ先生がちゃんと案内してくれたから大丈夫だったぞ」
「そ、そう。それは……、良かった」
 アシパが「チンポ先生」と口にした時、は尾形がじっとこちらを見ている事に気が付いていたが何とか素知らぬ顔で押し通した。対して、彼女らのやり取りを腕組みしながら微笑ましげに眺めていたのは牛山だ。
「華やかだなぁ。お前らの所には女っ気があって羨ましいぜ」
「そっちにも家永の野郎がいるだろ」
「“野郎”がな……」
 杉元の言葉にそう返した事で、途端現実に引き戻された牛山は大きな溜息を吐いた。
「俺はこれで戻る。あまり遅くなるとジジイ共がうるせえ」
「それなら私も途中まで送、」
 腰を上げたの手首を、その背後から腕を伸ばした尾形が掴んで制止する。
「本気でアホなのか?いいから座ってろ」
「でも付きあわせたのは私達だ」
 牛山は尾形の言葉を聞いて、鼻から軽く息を吐いた。
「余計な事を……と言いたいところだが、まあ、そいつの話も一理ある。例のごとく俺もみたいないい女の前でどこまで抑えが効くかは分からんからな」
 が顔を上げる。戸口の鴨居に手を掛けた牛山は、そこを窮屈そうにのっそりと潜りながら彼女の方を振り向いた。
「じゃあな、お嬢さん。そちらがいつか覚悟を決めてくれるまで、俺の方もまた気長に誘わせてもらうとするぜ」
 そうして彼の姿が消えた後、アシパが腕組みしながら深い頷きを見せた。
「やはりチンポ先生は信の置ける男だな。と歳は離れているが……、いいんじゃないか?ん?」
「アシパ、またそんなフチ達みたいな事を……」
「杉元と尾形もそう思うだろう」
 アシパが二人に同意を求めると、先にえっと戸惑うような声を出して反応した杉元が、尾形の方をいかにも意味ありげに見つつ応えた。
「ああー、確かに思ったよりはというか……、どこかの陰湿クソ野郎よりはマシかもな……」
「…………」
 その言葉を無言で受けた尾形は、杉元の事は放ってに向かって声を掛けた。
「おい。元々ああいう歯の浮くような台詞に転ばされる質ではあるんだろうが……そこのところ、容易いなりに考えるようにしろよ」
「な。容易いとか、どうして決めつけるんだ」
「いや、絶対そうだろうお前は」
 まるで何か確たる根拠があって断言するかのような尾形の物言いに、実際心当たりが無くはないは口を噤んだ。
 そんな彼らの様子を複雑そうな顔で見ていたのは杉元だ。彼の袖をこっそり引いて、アシパが声を掛ける。
「もしかして、あれはを心配して言ってるのか?」
「……さぁ。そういうのはあまり考えてないんじゃねえの」
 そもそも、冷静になって思い返してみれば始めから“そう”であったのだ。杉元がそれを認めたくなかったのは、己の思考が及ばなかった悔しさと羞恥。それと、もう一つ。
「単純にチンポって言わせたかっただけだろ……」
「チンポ?どうした杉元、ひょっとして白石みたいにチンポが痛むのか?」
「いや、アシパさん俺は……あ」
 アシパと杉元に背を向けながらびくっと肩を跳ねさせたを、彼女の正面に腰を降ろす尾形がその逃げ場を塞ぐかのように見上げていた。