。ここにいたのか」
 コタン隅の人気の無い場所で平たい岩に腰掛けていたは、掛けられた声に顔を上げた。
「谷垣」
「どうしたんだ、こんな隅の方で。それは?」
 声を掛けてきた谷垣は、の手元を指しながらその隣に腰を降ろす。見れば彼女は指先で長いツルのようなものを編み込んでいた。
「サラニプ。ここでは長く世話になったから、いくつか編んでいこうと思って」
「編み袋のようなものか。確かフチもよく編んでたな」
「うん。私はフチから教わった」
 そのように当たり障りのない会話をしてから、谷垣は「あぁ……」と何か切り出すのに迷うような声を出した。
「ところで……、俺は何かの気に障るような事をしてしまっただろうか」
「えっ?どうして」
「何と言うか……こうして再会した以降、俺に対しての態度が少しよそよそしいような気がしてな」
 そんな事はないとすぐに否定出来なかったのは、実はにも多少の心当たりがあるからだ。その反応に明らかに動揺を見せる谷垣に心苦しくなったは、正直に理由を告げる事にした。
「谷垣は、今インカラマッ達と行動しているだろう」
「あ、ああ、そうだな。今インカラマッは用事があって街に出ているが……」
「……少し、いじけた」
 「は?」と聞き返す谷垣に、は恥ずかしそうに口を尖らせながら続けた。
「谷垣がインカラマッといい仲になったのは喜ばしいが、新しく出来た兄弟を取られたような気になった。それにきちんとした相手がいるのに私があまり馴れ馴れしくするのも良くないかなって」
 谷垣は目を大きく開くと、やがて小さく息を漏らしてから気の抜けたような笑い声を上げた。
「はは。なんだ、そんな事だったのか」
「そんな事だ、ごめん……」
 申し訳無さそうに視線を逸らすに目を細めると、谷垣は彼女の頭に大きな手を置いた。は再び彼の方を見上げる。
「あの時はフチとオソマと……、にしばらく世話になったからな。それは当然インカラマッも分かってくれているさ」
「迷惑ではない?」
「まさか。俺にとってもは……そうだな、家族みたいなものだ」
 谷垣の言葉にが嬉しそうに顔を輝かせる。それに対し優しく笑みを返してから、谷垣はすっと真顔になると。
「だから、いいか。俺は大事な家族と悪い人間との付き合いを、容認するわけにはいかない」
「ほう……、それは一体誰の事だ?」
 彼の背後にいつの間にか立っていた尾形にも聞こえるようなはっきりとした口調で、に告げたのだった。


 + +


 尾形は並んで座ると谷垣を見比べると、谷垣に対して払うように軽く手を振った。
「そこ。その重たい尻をさっさとどけろ」
「……特にそうしなければならない理由は無いかと思うが」
 控えめながらも確固たる抵抗を示した谷垣に、尾形はその返答を予想していたかのように軽く肩を竦めると、思ったよりもあっさりと引き下がっての正面に回った。
「家族か、少なくとも馬鹿真面目という事以外は似ても似つかんがな」
「尾形。それは見た目ではなくて、気持ちの問題で」
「ただの皮肉だ。まともに受け取るな」
 正面に座った尾形から呆れたように指摘されると、は言葉に詰まってしまった。
 その間も、谷垣は警戒心を顕にして尾形に対する緊張感を保っていた。すると尾形はから谷垣の方へと視線を移して、ふっとおかしげに笑う。
「そうあからさまに毛を逆立てるなよ、小熊ちゃん。安心しろ、お前が思うよりは仲良くやってるぜ」
 「そうだろ?」と尾形に同意を求められたは、一瞬だけ戸惑いながらも、谷垣を見上げて頷いて見せた。
「分かりやすい性格では無いけれど、頼りになるよ」
「…………、ほらな」
「いや、その割に今驚いたような顔を……」
「していない」
 実際そう返す尾形は有無を言わさぬ真顔であったので、先程に向けられた「本気かこいつ」と言わんばかりの半ば呆れたような眼差しは、谷垣の見間違いであったのかもしれなかった。
「お前達はあの小樽付近のアイヌの村で、一時共に暮らしていたらしいな」
「谷垣が怪我をしていた時に」
 咄嗟の返答に迷った谷垣に代わり、が尾形からの問いに頷いた。
 杉元とアシパが共に行動を始めた頃、は任されていた仕事があった為にまだ村から離れる事が出来なかった。本格的に同行するようになったのは、白石の合流から遅れて少し後の事だ。
 するとはそこで何かを思い出して「あ」と声を上げると、尾形にじとりと半眼を向けた。
「聞いたぞ。私が村を出た後に谷垣の元を訪ねて来て、騒ぎを起こしていった軍人達がいたと」
「ああ。その事か」
 しかし尾形は涼し気な表情で応じると、ちらと谷垣を見て続ける。
「なに、あの時は少し誤解があってな。今となっては痛み分けのようなものだ。……なぁ、谷垣一等卒」
 含みのある物言いに、谷垣の視線があの日銃で撃ちぬいたはずの尾形の胸元に向けられた。
 尾形らは谷垣を殺すつもりだったが、確かに、谷垣も尾形を殺すつもりで撃ったのだ。
 その僅かな負い目とにいらぬ心配を掛けさせたくないという思いから、谷垣は苦い表情を浮かべながらも、尾形の言葉に「ああ」と短く同意する。
「しかし、それを言うならそもそもお前がいなかったというのも良くない。谷垣の世話を放り出して一体どこに行っていたんだ」
「(世話……)」
「私が?」
 突然尾形に話題を振られ、は瞳を瞬かせる。すると尾形はいかにも白々しく溜息を吐いた。
「俺とてそう物騒な男と誤解されたくはないからな……。お前があの場にいたのなら、谷垣の快気祝いも兼ねて和やかに茶でもしたものを」
「それを言われると、その」
「気にするな。そういう相手じゃないという事はお前もよく分かっているだろう」
 尾形の軽口に狼狽えるを落ち着かせてやりながら、谷垣にはやはり不可解に思う点があった。
 今の口振りだと、谷垣がアイヌの村で世話になる前から尾形はと面識があったようにも取れる。実際谷垣がらと合流した時には既に尾形も同行していたが、その人間性の全てを理解している訳では無いにしても、谷垣が知る中でも特に用心深く慎重な性格である彼が短い期間で築いた関係性にしては、違和感があった。
「(確かに、尾形にしては悪い態度では無い……か?しかしからはそんな話は一度も聞いた事はなかったが……)」
 何か他に目的があっての事であれば、やはり自分はを守らねばいけないと谷垣は思っていた。先程話したように自身が怪我をした時にらに感じた“家族”の温かみ、彼女やオソマに対して芽生えた“兄”のような感情は決して偽りではない。
 そうして谷垣は改めて自分の中での決意を固めると、息を整えるように短く吸って。
が作ってくれた、あの、豆を柔らかく煮たやつはなんて言っただろうか」
 谷垣が尾形との間を遮るように身を乗り出すと、尾形はぴくっと反応する。一方のは突然の谷垣からの問いとその勢いに、一瞬面食らったような表情を見せた。
「豆、は……あ、ラタシケプ?プクサを入れたやつの事だろう」
「そ、そうだ、それだ。あれは美味かったな。今でも作るのか?」
「そう言えば近頃は作れていないかな。ラタシケプは煮込みに時間が掛かるから」
「そう、か……。時間が掛かって……」
 そこで言葉に詰まるように黙り込んでしまった谷垣に、は幼子に対するような気遣わしげな眼差しを向けて、肩にそっと手を置く。
「……お腹空いた?」
「う……」
「いや。下手くそか貴様」
 苦しげに唸る谷垣に、尾形も呆れた顔をした。
 しかし谷垣は奥歯を噛み締めて再度己を奮起させると、そこで退く事なく尾形を強い眼差しで見返した。その反応は尾形にとってもいくらか意外であったのか、彼は眉を持ち上げる。
「どういう意図があっての事かは知らないが……、もし弄ぶようなつもりであれば、俺はそれを見過ごす訳にはいかない」
「弄ぶ……ふっ、弄ぶときたか」
 尾形は俯き加減に軽く肩を揺らして笑うと、再びゆっくりと顔を上げて、今度は斜めに見上げるようにして谷垣に視線を送った。まるで金縛りにあったかのように谷垣の身体がぐっと強張る。
「女を知って一端の口を利くようになったじゃねえか、谷垣源次郎。俺から言わせると、自分の女がいない内にこうして他に手を付けている貴様の方が余程のものだと思うがな」
「っ、話を逸らさないでくれ。俺のはそういう事じゃ」
「俺は、自分のもんに手出されるのは嫌いなんだよ」
 尾形の冷ややかな声に、谷垣は息を飲んだ。
 上等兵と一等卒という立場は軍を離れた今あまり強い意味を持たないのかもしれないが、彼の感情の読めない瞳を向けられると、硬い銃口の先に心臓を捉えられているような悪寒と息苦しさを感じた。それこそ当時からの関係性で培われたものなのかもしれないし、それとも元々の相性というやつなのかもしれないが。
 コツン、と小さな音が鳴る。
 尾形は自分の靴の爪先に当てられたどんぐりの実が地面に転がったのを見てから、それを投げてきたの方へと顔を向けた。
「……なんだ」
「ニセウ。それは渋いやつだから、そのまま食べちゃ駄目」
 眉を顰める尾形には笑いかけてから、隣で戸惑っている谷垣の方を見上げた。
「大丈夫。谷垣が尾形に弄ばれないように、私が姉として守るよ」
「え、俺の方が弟……」
「おい、止めろ。気色の悪い勘違いをするな」
 何やら狼狽える谷垣と、不快気な表情を見せる尾形に、は首を傾げた。


 + +


「おーい、ちゃん」
 三人の間に漂っている微妙な空気感をものともせず、まるで跳ねるような足取りでうきうきと近づいて来たのは白石だった。
「シライシ。アシパと杉元と食料を探しに行っていたんじゃないのか?」
「そっちの事なら成果は上々だぜ。二人はもう少し奥の方まで行って戻ってくるってよ」
 尋ねるにピシッと指差す仕草で応えてから、白石は「あ」と思い出したようにその指先を彼女に差し出した。
「それより見てくれよ〜、草をむしった時に怪我しちゃってさあ」
「怪我?どこ?」
「ここ、ここ。ちょびっと血が出てるだろ」
 が彼の指先を取ってよく見てみると、確かにそこはほんの少しだけ切れて、滲むように出血していた。に手を取られてだらしなくニヤけていた白石は、彼女が顔を上げると再びその表情をしゃきっと引き締める。するとはやや言いづらそうにしながら口を開いた。
「えっと。これ、傷……痛い?」
「痛いッ!!ものすごーく痛い!」
「そ、そうか、そうだな。痛みの尺度は人それぞれだしな」
 は自身を納得させるように頷きながら、背後に置いていた道具袋を探り出した。
「消毒するよ。少し待ってて」
「はーい、待ってま〜す。……ん?」
 の言葉に片手を上げてその隣に正座をした白石は、そこでようやく他の二人から向けられているどこか冷めたような視線に気が付くと、その表情をひくりと引きつらせた。
「あ……あれ、あれあれ〜?どうして二人ともそんな顔をしてるのかな?」
「おい、“弟”。こういう輩は放っておいていいのか?」
 白石を指差しながら言う尾形の言葉に、谷垣は眉間に深い皺を寄せた。その間に道具袋から薬草を見つけたが、それを手にして振り返る。
「あったぞ。シライシ、手を出し……」

 すると白石と向き合おうとしたの肩に、谷垣が手を置いて制止した。
「消毒程度なら俺がしよう。貸してくれ」
「そう、か?それじゃあ頼もうかな」
「えぇ〜〜!?どうしてそういう話にな……嫌ッ、太い!指がゴツくて太いッ!」
 谷垣にぐりぐりと薬草を塗りこまれて悶絶の声を上げる白石の様子を、手持ち無沙汰になったは少しだけ距離を取って何となく眺めていた。

「……っ?」
 ポコンとこめかみに何かが軽く当たったような感触がして。がそちらを向くと、親指の先を狙い澄ましたようにこちらに向けた尾形が、ニッと得意気に口角を上げていた。
「俺の方が当てるのは上手い」
「……負けず嫌い……」
 弾かれて落ちたどんぐりは、その場から逃れるようにころころと地面を転がっていった。