身体が宙に投げ出された瞬間、浮遊感と共に力強く引き寄せられるような感覚があった。岩壁を滑落していく激しい振動にこそ歯を食い縛るも、落下における直接の衝撃は無く。やがてそれらが落ち着き、傍を流れる川の水音がの耳に届き始めた頃、頭上からパラ……と小石が落ちてきた。
「おい。さっさとどけ」
 その声で我に返ったは、急ぎ身体を起こした。するとそれまで彼女を抱えていた尾形も、外套を片手で軽く払いながら立ち上がる。彼は雲に半分隠れた月の明かりが細く届く谷底から、すっかり遠くなった崖の上を見上げた。
「杉元達は向こう岸に渡ったようだな」
 そう言って、尾形は鋭利な切り口が残されたロープを手から離す。おそらくは谷底まで垂れ下がる吊橋の残骸の一部と化したそれを彼が咄嗟に掴んでくれたおかげで、大事は至らず済んだのだろう。
「ありがとう、尾形。助かった」
 それまで機を逃してしまっていたが改めて尾形に礼を告げる。それに対して尾形から何か言葉が返ってくる事は無かったが、彼は彼女に身体を向けると、静かに口を開いた。
「この辺りには詳しいと言っていたな。まずは登って他の奴らと合流するぞ」
「分かった。こっちだ」
 周囲の地形を確認したが行き先を指して歩き出すと、尾形もそれに従う。
「待て」
 すると、尾形は背後からぐっとの腕を掴んで動きを止めた。彼は自身の口元に人差し指を「しーっ……」と立てて彼女に指示を出しながら、しばらく周囲の気配を探るように目線を動かし、やがてその手を降ろした。
「獲物を分断させただけかと思ったが、下にも仲間がいたのかもしれん。今のところ気配は遠いが、念の為用心はしておけ」
 尾形の言葉には頷く。
 しかし、尾形は確認を終えてもの腕を掴んだまま動かなかった。その沈黙にはどういう意味があるのか、指摘をするべきか。影に隠れた横顔を見上げながらが戸惑っていると、彼の口がぽつりと動いた。
「それとも合流はせずに、このまま別行動を取っても……」
 瞬間の身体が強張ると、尾形は見計らったように彼女の腕をぱっと離して開放した。警戒を強めるに向かって、からかうように両手を持ち上げる。
「冗談だ」
「どうして今そんな冗談を言うのか……」
 咎めたいところだが、追手が近くにいる可能性がある以上もあまり強く言い返す事は出来ない。
 反対に、先程まで冷静な分析をしていたはずの尾形の雰囲気は、この状況には不釣り合いなほど落ち着いていた。
「そう睨むなよ。杉元達と合流するまで、二人きりである事に変わりはないんだ」
 二人きりという言葉を聞いて改めて意識せざるを得なくなったが表情を強張らせると、尾形はそれを見逃さず、面白がるように瞳を薄くした。
「まあ……、どうせなら仲良くやろうぜ」


 + +


 追手の事もあるが、尾形の余計な発言のせいでは余計に神経を尖らせる羽目になっていた。しかしその事を彼に悟られるのも癪であり、何とか元の雰囲気に戻そうと足場の悪い砂利道を踏み進めながら話題を振る。
「昼間に見かけた野盗だろうか」
「そうだろうな」
 対する尾形は彼女の影を踏むように従いながら、涼しい顔で応えた。
「だから始末しておくよう言ったんだ。日が落ちてから仕掛けられては、こうして面倒な事になる」
 実際は尾形の言う通りとなったのだが、その時点で何も危害を加えてきてはいなかった相手に用心こそすれ、先に手を出すのはどうなのだろうか。が複雑な心境を込めて尾形の事を見ると、彼は自嘲気味にふっと息を漏らした。
「そういうところで俺と気が合うのは杉元だけだな」
 そこで尾形はふと頭上を見上げ、再び先を行くの背に声を掛けた。
「婆さんは、強風で橋が壊れたと言っていたか」
 の肩がぴくと動く。
 先程尾形に言われたように、アシパとはこの土地周辺の地理にはある程度詳しかった。対岸に渡る橋は二本あったのだ。始めはその場から距離も近かった川下の橋へ向かおうとしていたのだが、山中で採取をしていた老婆に声を掛けられて予定を変更した。
 その老婆が、無いと言っていたはずの川下の橋。今やすっかり雲から顔を出した月の明かりは、こうして敢えて見たくはないものの姿まで白々しく暴き出してしまう。
 思わず足を止めたの隣に尾形も並ぶ。彼が額にわざとらしく手をやってそれを見上げると、彼女は更に居たたまれない気持ちになった。
「立派に直したものだ」
「いいよ……、私にだって騙された事くらい分かる」
 すると尾形はに目を止めて、額にかざしていた手を降ろした。
「だろうな。お前は端からあの婆さんを疑っていた」
 アシパ達からは背丈や位置関係で見えなかったのだろうが──、布が一枚被された老婆の背負い籠の中には食用と毒性のある草花が、雑多に混ざり合っていた。
 そう反論しようと顔を上げたは、瞳を細める尾形の顔に思わず言葉を飲み込んだ。そんな彼女の動揺を見透かすように、彼は口角を薄く上げる。
「俺としては、あそこでお前が何も気が付かない振りをしてくれて助かった」
「……どういう事?」
「バアチャン子だと、伝えた事がなかったか?たとえ、それがよその婆さんだとしても──」
 会話をしながら、特に目立った予備動作も無く銃を構えた尾形に、は咄嗟の反応が遅れてただ目を開いた。
 銃声が谷底に反響するのと同時。橋の上にあった小さな影が揺れて、ガチャン!と弾けた砂利が僅かにらの脛をかすめていった。落下の強い衝撃で周りを巻き込み砕けた石を見て、尾形は一度銃を降ろしながら辟易したように呟いた。
「──気が咎めると、そう言いたかったんだが……この場合はやむを得んな」
「!尾形」
 今の発砲をきっかけとしてか、背後の気配もやや慌ただしくなったように感じられた。が声を掛けると、尾形はチラと背後を窺ってから再び彼女の後に従う。
「おそらく、こちらは三人だ」
「三人も?昼間に金のやり取りを見ていたなら、私達の方に金がないのは知っているだろうに」
「いや、狙いはだろ」
「え……」
「そこらの好き者に売り飛ばす前に楽しむとなると、その辺りが妥当な人数ってとこだろうな」
 尾形の言葉の意味を徐々に理解していったの背を悪寒が這っていく。
 昼間に見掛けた野盗、此方を値踏みするような男達の視線が、今ありありと思い出されたのだ。
「銃を持った奴まで落としてしまったせいで距離を取っていたが、仲間がやられて数で押し通そうとしてるんだろう。……どうした?」
 両肩を抱えるを見て、尾形が問う。
「寒気がする」
 心底嫌そうに応えたに尾形は何か思い付いたかのように瞳を大きく開くと、彼女の肩に腕を回して、朗らかな様子でそこをポンポンと叩いた。
「そう悲観的な想像をするな。口臭がきつく風呂に入る習慣が無いだけで、話してみると案外気の良い連中かもしれんぞ?」
「やーめー」
 煽るような言葉を投げてくる尾形に、は耳を塞いで抗議した。
 緊迫した状況の最中そんなやり取りをする彼らに気後れしたのか、足場の悪さの為かは分からないが、追手は思うよりも距離を詰め切れていないようだった。目的の場所に辿り着いたが足を止める。
「ここ。ここから登れる」
 尾形もの隣に並び、彼女が指差した岩壁を見上げた。
「どうした、追いつかれないうちに早く行こう」
 ここから登れる、とは言ったのか。尾形はそそり立つ岩壁に既に張り付きつつ不思議そうにしている彼女をじいっと見ると。
「……猿に意見を求めるようなものだったか」
「さる?」
 当て付けるように長い溜息を吐いた尾形に、“さる”という言葉の意味が分からなくとも、も彼の言わんとしている事を何となく察した。自分にとっての取っておきの場所を否定された気になったは、慌てて説明を加える。
「ここはいい場所だよ。ほら、他と比べて傾斜も緩くて足場もあるし、丈夫な蔦も垂れているだろう」
「そうか。俺には最初にいた場所とさして変わりなく見えるが」
「そんな事は……そんな、事……」
 自信を無くし始めたに歩み寄ると、尾形は平手で彼女の尻をパシーンと強く叩いた。
「ひゃ!」
「いくならさっさといけ」
「いきなり叩かな、……!」
 言い返そうと振り向いただが、尾形の肩越し、いつの間にか視認出来る距離まで来ていた追手らの姿を認めるとその言葉を飲み込んだ。
 当然尾形も気が付いているのだろうが。が再び見下ろし「尾形」と声を掛けると、彼は手のひらを彼女に向けながら笑った。
「すまんな。谷垣と似たデカ尻だったもので、つい扱いが雑になってしまった」
「……お前とは一度じっくり話したい……登ってこい、必ず……」
 尾形の言葉に表情を消したはくいと顎をしゃくると、それでも最後に一度だけ振り返ってから、岩壁を登り始めた。慣れた様子でどんどんと登っていくを見上げ、尾形は呆れたように言う。
「やっぱり猿じゃねえか……」
 するとという獲物を逃した事で激昂した追手らが、尾形に向かって口汚く喚くような声が届いた。
 夜闇が姿を隠し、足を止めた相手に対しここから一気に距離を詰めて襲いかかれば数の利で後れを取る事はない。こうして現に、彼らが強気に出られるだけの条件は揃っているはずであった。
 
 銃声は“三発”。尾形は銃の構えを解くと、いずれも川の側で倒れている追手らの元へ、ジャリ……と静かな音を立てて歩み寄る。何が起きたか理解する間もなく次々と急所を撃たれた彼らはその殆どが即死であったが、かろうじて息のあった一人の男が僅かに顔を動かして尾形を見上げた。
 お前は一体何だ。どうして俺達は、お前に殺されなけらばならないのか──。
 眼前に迫る死を受け入れられずに混乱と恐れが混濁する眼差しを通して、尾形は、昼間に見掛けた彼らがに向けていた下卑た視線を思い出していた。はるか頭上を吹いた風に雲が流されると、青白い月明かりは、男を見下ろす尾形のひどく冷たい表情を照らした。
「テメェらの事は、始めから気に食わなかったんだ」
 果たしてその言葉は、男の最期の疑問に答え得るようなものだったのか。
 尾形が足先に力を込めて、すっかり動かなくなった横腹を押す。するとそれは意外なほど呆気なく転がって、川の中にぼちゃんと水音を立てて落ちていった。


 + +


「!尾形か……」
 谷底に銃声が響くと、崖を登ってきたの手を取りながら杉元が呟いた。彼に力強く引き上げられてからも思わずそちらを振り向く。
!そっちは大丈夫だったか」
 駆け寄ってきたアシパから声を掛けられたは、ハッと再び顔の向きを戻して彼女を見下ろした。
「私は……尾形と一緒だったから。アシパ達は?」
「ああ。襲って来た男達は、杉元が全員ぶん殴って倒した」
 ぐっと力拳を握って話すアシパの背後、なぜか頬を大きく腫らしている白石がハハッと笑って付け加える。
「暗くて見えなかったとかで、ついでに俺まで殴られたんだけどね〜。ね〜ちゃんどう思う〜?」
「しつけーなぁ……。謝っただろ」
「謝罪とは!それを受ける側が納得する事で、はじめて謝罪として成立するのだッ!!」
 目を見開いた白石に人差し指で頬をぐりぐりと押されながら、杉元はうんざりしたような表情を見せていた。おそらくが来るまでに何度も絡まれているのだろう。一先ず彼らの無事を確認出来た事で、は安堵した。
 その時。地面が擦れるような音がした。
 それは、の後に続いて岩壁を登ってきた尾形だった。がすぐ手を伸ばして差し出すと、彼は彼女と視線を合わせてから──、その手を掴んだ。
「尾形も怪我はないか?」
「ああ」
 アシパからの問いに短く応え、尾形は軽く自身の汚れを払う。
 強い視線を感じた彼は杉元の方へ顔を向けた。
「殺したのか?」
「……殺さなかったのか?」
 尾形がまるで嘲笑するかのように口角を上げて聞き返すと、杉元は彼を睨み返した。は咄嗟にアシパの心情を気遣ったが、彼女は眉を顰めたものの、険悪になりかけた雰囲気を仕切り直すように大きく手を叩いた。
「全員が無事だったなら行こう。この少し先に、今夜休む予定のクチャがある」
 改めて方角を指差すアシパに先導されながら一行も後に続く。すると大体こういう時は最後尾を歩く尾形の隣に、珍しくが並んできた。何やら物言いたげな視線を向けてきたに、尾形は自身の前髪に手をやりながら眉を僅かに上げる。
「私は谷垣ほどは大きくない……」
「なんだ……、その事か」
 面倒そうに応える尾形。対するは彼の態度に思わず大きな声を出してしまいそうなったものの、先を行く他の面々の背中を視界に入れると、ぐっと堪えた。
「それに、ああやって突然叩くというか……それが必要な事だったなら分かるが、あまり、良くはないような……」
 羞恥心からか、辿々しく抗議してくるを、尾形は黙って見つめていた。そうして彼はの言葉を最後まで聞き終えると、「確かに」と同調するように頷く。
「では次からはご要望通り、そちらの尻はもっと丁重に扱ってやるとしよう」
「そういう事じゃなくて!」
 半ば眠りの中にいた鳥達が驚き羽ばたくと、前方を歩いていた面々も足を止めて振り返ったのだった。