にとって今一人でいるクチャの中は、まるで深い穴底にでもいるかのように、いやに暗く、深く感じられていた。
 原因は分かっている、明らかにいつもとは違う不調を訴える身体のせいだった。熱いのか寒いのかもよく分からず、皮膚はやけに敏感で、しかし思考はひどく鈍い。どうにか自力で薬湯を煎じて飲んではみたがそこまでで、彼女は器を放り出したまま横になっていた。
「(なんとか……日が暮れる前に)」
 虚ろげに開いた視界の先、クチャの外にある昼下がりの穏やかな陽差しを遠くに見ながらは己の肩を抱くようにして背を丸めた。
 日が暮れる頃には、各々外に出た他の仲間達が戻ってきてしまうだろう。
 彼女が一番嫌うのは、辛い苦しいと訴えて周りにいらぬ気を遣わせてしまう事であった。物心付いた頃からいつの間にか、そういった弱味をなるべく隠そうとする癖がついてしまっていた。
 そう言えば。
 最後に残って仲間を送り出した時に、いつもと様子が違う事を気取らせないようにと振る舞っていた彼女の方を振り向き、誰かが言った。

 ──顔色が悪いですね、
 が再び瞳を薄く開くと、そこに彼女を覗き込むようにする黒い影が映った。
 ああ、そうか。今自分は夢との狭間にいるのだ。
 今にも消えてしまいそうな朧気な輪郭に、得体の知れない存在への恐怖というものは無い。なぜなら、自分は“彼”の事を知っている。
 抗えず、ぼやていく視界に溺れるように、彼女の意識は深く沈んでいった。


 + +


 松の木にとまった鳥が高い声で鳴いている。倒れた木の幹、そこにと腰掛けていた彼は、彼女の前髪を掻き分けてその額に手を当てていた。
 が彼に触れられる事に、そして彼がに触れる事を、互いに自然なものと受け入れるようになったのはいつからであったろうか。それは決して劇的なものではなく、花の蕾が徐々にほころぶように。初めて出会ったのは街であったが、気が付けば、麓に近いこの場所で、こうして度々近況を交わし合う仲となっていた。
 しばらくして、彼が神妙な面持ちで呟く。
「やはり熱い」
「それは多分来る時に急い、」
 途中まで言い掛けたは、こちらの身を真摯に案ずる彼の眼差しに思わず言葉を詰まらせた。それで観念したのか、今度はやや小さめにぽそぽそと口を開く。
「昨日の夜から少しだけ……、身体が重い……かも」
 それを聞いた彼は頷いて、の額からすっと手を離す。
「すぐに気が付けず申し訳ない。こういうものはこじらせるとよくありませんし、今からでも医者に看てもらった方が……」
「一晩寝たら大分良くなったし、本当に大した事では無いよ。心配しないで」
 が笑み見せながらそう言うと、彼は何か物言いたげに開いていた口を一度閉じて、浮かし掛けていた腰をその場に降ろした。
「辛いようなら言ってください。人に話すと楽になるという事もありますので」
「……うん、ありがとう」
 応えながらも、は目を伏せて彼から視線を逸らしてしまう。すると僅かに目を見張った彼は、次の瞬間には目を細めて優しげな声で彼女の名を呼んだ。

 隣を見上げたの顔に影が掛かった。
 その影は──、再びゆっくりと離れて。
 のこめかみ近く、髪に挿された一輪の花が風に揺れる。彼は、彼女を真っ直ぐ見つめていた。
「私は、貴女にとって少しでもその心の内を預けるに足ると人間になりたいと思っています」
「────、」
 顔の見えない父と母から、置いていかれる夢を見た。
 コタンでの暮らしでどれだけ温かな輪の中にいても、にはふとその夢の事を思い出してしまう事があった。周囲の愛情に満たされ笑顔を浮かべる自身も事実であれば、その繋がりが切れる事を恐れて、笑顔であろうとする自身も事実だった。
 そんな彼女がつい先程ごく自然に、おそらく初めて弱音を吐いた目の前の相手を見つめながら、そっと指先で花に触れる。すると彼は改めて己の行動を思い返してかあっ……と慌てた声を上げた。
「その花は機を窺っていたのです。……実はこれまでにも、何度も」
 温かな陽だまりの中、照れ臭そうに告げる彼を見て。
 はたとえ熱があっても、どうしても今日ここに来たかった自身の行動理由が、ようやく理解出来た気がしていた。

 どこかで見た軍服を着たその男は、戸惑うの顔を静かに見下ろしていた。
 いつか彼と並んで腰掛けた大きな木の幹。苔むして皮が剥がれ落ち、あれから過ぎていった年月を感じさせる。先程まで一人で腰掛けていたそこを見やってから、彼女はゆっくりと沈むように視線を落とした。
「…………、そうか……」
 がそう独りごちると向かい合う男も僅かに口を開きかけたのだが、途中で気が変わったのか、それは再び閉じられていった。
 戦争が終わってからも、の元には何の便りも届けられる事は無かった。同じく満州からコタンに戻った男達の誰かに話を聞けば何か分かる事があったかもしれないが、元より彼との詳細を周りに話してこなかったはそれをしようとはせず、ただ彼との逢瀬を重ねたこの場所に何度も足を運び続けた。
 ひどい怪我を負って療養しているのかもしれない。だがそれならばよい。晴れて武勲を上げて帰還した事で良き縁談が舞い込んだのかもしれない。たとえ、それでもよい。
 そんな祈りにも近い願望とは別に、どこか冷静に日々色濃さを増していく疑念は、背後からの肩に手を掛けてくる。しかし彼女は決してそれらに取り込まれる事は無かった。
 先程、目の前の男から短く告げられた言葉を聞くまでは。

 が俯き黙り込んでからしばらくの時間が経っていた。すると、はすっと短く息を吸い込んで。
「貴方も戦争から帰ってきたのだろうか」
 顔を上げたの表情はどこか吹っ切れたようなものだった。男は、からの問いに対して答えること無くただその顔を見つめ返している。
 ひょっとして、うまく言葉が伝わっていないのか。こうしてアイヌ語以外の言葉を使うのは久し振りである事に気が付いたは、そこで少し考えた。
 それならばなるべく単純に、しかしもう二度と会う事は無いのかもしれない男に対し、どうしても伝えたい事を──。
「おかえりなさい。私は、貴方が生きていてくれて嬉しい」

 男の姿が見えなくなってからも、はその場に一人残っていた。風が吹き、髪が舞い上がると、いつか彼が花を挿してくれたこめかみ近くにふっと自然と指先が伸びる。
 狩りなどに出る度に気にはしていたが、草花に詳しいにもあれと同じ花は見つける事が出来なかった。洋花のようにも見えたし、彼にも会話の途中で花を摘んだ様子は無かったから、あらかじめ街の花売りから買って用意してきたものかもしれない。
 予感がする。おそらくあの花を見つけられる事は二度と無いのだ。そして自分は、同じものを探す事もしないだろう。
 記憶の中、やや緊張したような彼の面持ちに小さく笑みを零して。はそこから静かに指先を離す。

 甲高く銃声の音が響いた。


 + +


 ──パキッと乾いた音がする。
 は徐々に瞳を開いていくと、音の出処を探るように、緩慢な動作でもぞもぞと身動ぎをした。
 寝そべるの頭上、その傍らに胡座を掻いていたのは尾形だ。尾形は彼を見つめるの方へ、ゆっくりと見下ろすように顔を向ける。
 彼は、その手の中にある小枝をもう一度パキッと音を立てて折ってから。
「……相変わらずしぶとい女だな」
 元々感情をあまり表に出さない尾形からの言葉だ、更に目を覚ましたばかりのには、それがどういう意味を込められたものなのかすぐ理解が出来なかった。
 未だ眠りから完全には抜け切られずぼんやりとした瞳を向けていると、それに気が付いた彼は軽く眉を上げ、ふぅん……と小さく息を漏らした。
「そこに死人みたいなひどい面で転がってるのを見た時は、さすがにくたばってるのかと思ったが」
 なるほど、適当な表現が決まった。これはおそらく“小馬鹿にされている”、が一番正しい。
 は尾形に対し抗議するかのようにべちっと強い音を立てて地面に手を付くと、腕に力を入れていった。すると今度、彼は呆れたように口を開く。
「おい、おとなしく寝てろ」
「いいよ、起きる。何か完全に目が覚め、──」
「…………何だ?」
 上半身を起こしたは尾形の顔を呆けたように見ていた。彼からの怪訝そうな声で我に返りつつも、いや、と自身でもどこか困惑したように応える。
「調子が良くなかったからかな。普段はあまり見ないんだが、何か……夢を見ていた気がして」
 無意識にだろうか、話しながらこめかみにある傷跡をなぞるの指先を見て、尾形は瞳を僅かに薄く細めた。すると彼はそこからまた、手元の枝に視線をやって。
「弱っている時に見る夢なんてもんは、大概は悪夢の類だろう」
「そうだったかな……」
 そう応えながらもは夢の内容を思い出そうとしていたのだがそれは叶わなかった。むしろ、寝入る前後の記憶さえ曖昧だ。
 だがしばらく休んだおかげか、彼女の体調は完全にとまではいかないまでもほぼ回復していた。そうなると途端、隣で規則的に枝を折る尾形の存在が気に掛かる。今朝方アシパらと同様にここを出て行ったはずの彼の前には今、これまでに手折った枝が積み上がっていた。
「……何をしているの?」
「別に……」
 素っ気無く応えて、尾形はまたパキッと枝を折る。
 火を起こそうとしているのは分かるのだが、が見ると外はまだ明るいようだった。彼の他にはまだクチャに戻って来ている様子もなく、大分寝入ってしまっていたように感じるが、実際それ程長い時間は経っていなかったのだろう。
「(だめだ、何だかまだ状況がよく……)」
 寝ている間に少し汗を掻いたのか身体は少し冷えている。は自身の肩を抱いて、尾形に声を掛けた。
「あ……、そうだ。私が休んでいた事はアシパ達には言わないでくれないか」 
「なんで」
「なんでって。それは、もう今はどこにも問題はないし、わざわざ伝える必要も」
 そこまで言葉を続けてふと、今朝方の出来事がの頭を過ぎった。彼女は気まずそうに眉を顰める。
「……ここを出る時、そんなに私は顔色を悪くしていただろうか?」
 そうだ、あの時に声を掛けて、その顔色の悪さを指摘したのは尾形だった。すると枝を組み終わった尾形は、自身の前髪を撫でつけながらの方へと改めて顔を向ける。
「まさか、あれで隠せていたつもりとは言わねえだろうな」
 図星を突かれたが応えられずにいると、尾形はやれやれといった感じで溜息を吐く。
「あいつらはお前の言う事を信用しすぎる。それとも、実は秘めた自死願望でもあるというのなら、その時は俺に言う事だ」
「そんなものは無いし、仮にあったとして尾形には絶対言わない」
「なに、既に知らない仲ではあるまい。遠慮するなよ」
 口角を薄く上げ、囁くような低い声で──。
 冗談なのか、何なのか。こういう不謹慎な発言をする時に限って分かりやすく愉しげな表情を見せる尾形に、はじとりと半目を向けた。
 すると尾形はふっと短く息を吐いて取り出したマッチに火をつける。はゆっくりと燃え広がる焚き火を見ながら、同様に自身の身体にも熱が広がっていくのを感じていた。安堵感に和らいでいく彼女の横顔から、尾形は視線を移す。
 静寂と共に燃える暗い炎が、伏し目がちにした彼の瞳の中でゆらゆらと揺れていた。