「始末しておくべきでしょうな」
 上官室に呼び出した部下が何の躊躇いもなく応えると、鶴見はその身体をゆっくりと傾けた。椅子が音を立てて軋む。彼はそれから自身の顎に手をやって。
「そう?」
「ええ……、他に使い道も無いのであれば。それに、万が一という事も無いとは限らない」
「だが、彼の性格からいって軍内部の事を外部へ漏らしているとは考えにくいだろう」
 白々しい──。鶴見の前に立つ部下の男、尾形は、内心そう吐き捨てた。
 自分を呼んだという事は、つまり“そういう事”だろうに。回りくどいやり取りに辟易するも尾形はそのような事はおくびにも出さず、言葉の端に僅かな憫笑だけを滲ませ応じる。
「女慣れしていない分、いざそういう場面では口の軽い男だったかもしれませんよ」
「…………なるほど」
 鶴見は額当ての下から、尾形の事をじいと見上げる。
 本来名誉の負傷と讃えられるべき鶴見の傷は、戦争から戻って様変わりした彼の様子から、軍内部でも悪い意味で取り上げられる事が多かった。
「そうかぁ、どうしよう困っちゃったなあ……」
「(面倒くせえな……)」
 尾形から言わせると、この男は何も変わってなどいない。敢えて違いを上げるとすれば、以前はただ、静かに狂っていたというだけだ。
 寒気がする程に思慮深く狡猾。今もあくまで己からは決定的な事を口にせぬようしているのだろう。癪に障るやり口ではあったが、敢えて乗ってやり、忠実な部下として振る舞った方が尾形にとっても好都合でもあった。
 それに実際の所、鶴見からの話を聞いて返した言葉は彼の本心に近い。
「では私が。あの周辺であれば、おおよその地理も心得ています」
 そして見上げる鶴見に対し、尾形は笑みを見せた。
「なに……、手間取る事も無いでしょう」


 + +


 翌日おおよそ定時に起床した尾形は支度を済ませると、腹には昨晩の少し硬くなった握り飯だけ入れて、あまり他とは顔を合わす事なくひっそりと兵舎を出た。
 その様子はいつも通り、取り立てて大きな変化も無く。ただ無機質に前へと動かすその足で、彼はこれから顔も名前も知らない女を殺しに行く。

 山中をしばらく進むと、取り囲む緑の匂いが段々と濃くなってきた。朝露を残す美しい花々、力強く屹立する木々や土の匂い。まるで生命そのものに満ち溢れているかのような周囲の輝かしい景色に反して、尾形の視界を通したそれらは彼の心象を映し出すかのよう段々と枯れて色褪せていく。
 周囲にはひた隠しにしながら、人目を忍び逢瀬を重ねていたと言うわりには、この場所には本来あるべき後ろ暗さというものが無さすぎる。本気だったとでも言うのだろうか。まさか。“この期に及んで” 、と。
 そんな事を考えながら進む内に、彼が目的としていたものは案外容易く見つかった。まだ距離があるため遠目にではあるが、事前に聞いていた特徴と相違無い。相手に気が付かれないように身を隠し、首から提げた双眼鏡に手を掛けようとしたところで、尾形はその手をピクッと止めた。そしてもう一度、身体を隠した木の影から僅かに乗り出して、真っ直ぐ背筋を伸ばしたその後ろ姿を見る。
「(……待っているのか……)」
 鶴見から指示された通りの場所で見つけたという事はおそらくそういう事だ。
 この場からただ引き金に掛けた指先に力を込めれば用件は済む。だが気が付いた時には──尾形は、突然現れた彼を戸惑い見つめる女を、正面から見下ろしていた。
「お前の待ち人は死んだ。もう、ここには来ない」
 なぜだろうか。そう直接告げてやらなければ気が済まなかったのだ。
 何かしらの反応があるだろうかと待つ尾形の前で、女は視線を動かした。一応彼もそちらに目をやってはみたが、特にそこに、気になるようなものは無い。すると今度、女は視線を落とすと、先程尾形が告げた言葉に対してようやく力無い声で応じた。
 ──それだけか?
 咄嗟に口を衝きかけた言葉は、では一体他に何を期待していたのかと尾形に自問させる。
 反応を見るに、こちらが懸念するような情報は何も渡っていないのだろう。なにせ戦争に行った想い人が命を落とし、荼毘に付され、その戦争すら終わっても尚──女は何も知らず、誰にも何も知らされないまま、ここで待ち続けていたのだ。
 やはり、少し、“似ている”ような気がした。
 最初に鶴見から話を聞いた時にまず感じた事だ。一緒になれるはずもない女の耳元で、どのような甘言を囁いていたのかは知らないが。そうしてありもしない幸福の影を追う哀れな女は、自身の足を取られている事にさえ気付かず絶望の泥中にあり続ける。それならばいっそ「始末して “やるのが良い” 」、と。
 顔を上げた女は何か話していたが、尾形はただ黙って女に暗い瞳を向けていた。陽の光に晒された細く白い首筋は花をそうする時のような容易さで手折る事が出来そうであった。彼は、自身の手を静かに持ち上げていく。
 だがその手は途中でピクッと動きを止めた。
 「おかえりなさい。私は、貴方が生きていてくれて嬉しい」
 
 
「…………なんだそりゃ」
 舌打ちと共に吐いた忌々しげな呟きは、つい先程の女の言葉に対してか、たった今その女を仕留め損なった自身の失態に対してか。
 茂みの中に身を隠しながら、尾形はほんの数秒前の自身の動きを反芻するかのように、二発目の弾薬を装填した。
 素早く構えた銃口の先に、女が倒れている。
 一応の距離は取っているが、尾形にとってはこの程度無いものに等しい。それならば分かりやすく額の中心でも撃ち抜いてやれば良かったのだが、自分が去った後、女が手をやっていたその辺りがやけに気に障ったのだ。
「(いいや……そもそもなぜ、“去った”?)」
 銃声を聞きつけてか、似たような装束を纏ったアイヌらしき男が女のそばに駆けつけていた。尾形は一度銃口を男の方へと動かして──、地面へと下ろす。

 その場には、強い硝煙の臭いだけが残された。


 + +


 陽が落ちた頃に戻ってきた尾形からの報告を聞いた鶴見は、彼に労うかのような笑みをにっこりと向けた。
「ご苦労。……しかし、私もまたつらい仕事を頼んでしまったな」
「……?いえ」
「なにせ、お前にとっては義理の妹御になるかもしれなかった女性だ。思う所もあっただろう」
「ああ……、そういう意味ですか」
 尾形は得心したかのように頷いて、「ご安心を」と先を続けた。
「元々そのような事は、あり得ない話です」
 上官室を後にする尾形とすれ違うような形で入室した月島は、扉を閉めながら鶴見に声を掛けた。
「今のは尾形ですか」
「ああ……」
 短く応じながら、鶴見はしばらくその視線を虚空へと固定させ何か考え込んでいるようだった。
「一度手に掛けた獲物への執着心が恐ろしく強いのは、何も羆という動物に限った話しではなかったか……」
 鶴見は瞳を閉じながら机の上に両肘を突くと、フゥーンと悩ましげに溜息を吐く。そうして再びその瞳を開けて、目の前で困惑する月島の事を見上げた。
「やはり……、お前に頼めば良かったかもしれないな」
「はい?」


 殆どが合同官舎の方に戻っているのか、今は廊下に他の兵の姿は無くひっそりとしている。尾形はそこを一人歩きながら、昼間の事を思い出していた。
 花を風に散らしたような幻を見た。褪せた記憶の中にある景色は、途中響いた銃声と共に一変する。
 徐々に広がっていく血だまりの中、透けるような肌を赤く濡らした女が倒れている。艷やかな髪は固まり、今は頬にべっとりとはりついていた。薄い虹彩の瞳は虚ろげで、息も絶え絶えだ。
 だが、それでも女の指先は己の生にしがみつくように地面を抉り掴んでいた。
 その光景は、尾形にとってはいくらか意外なものであった。自分はこうしてやるのが最善であると思ったのだが、どうもあの女は自分の命をここで終わらせる気は無いようだ。
 やがて銃を下ろした尾形はその場から立ち去ろうとしたのだが、男の腕の中に抱えられた女の視線がこちらに向けられているような気がして振り返った
 虚ろげであった瞳の奥に宿る獰猛な炎。先程まではまるで花のように手折されそうだと思えた女は、今やその身体が動かなくとも、喉元に噛み付いてきそうな気配すら漂わせていた。
 気が付くと、尾形の顔には笑みが浮かんでいた。
 互いに潔白な身の上を保ちながら穏やかにお付き合いしてきた彼は、おそらくあのような女の姿は知らないだろう。そしてこれから先知る事も無い。
 それはまた──なんと、勿体無い。

 廊下の暗い窓ガラスに尾形の顔が映っている。
あの女にも傷跡は残るかもしれないが、運が良ければ生きているだろう。そうして自分が残して“やった”傷跡がある女と再び対峙した時に、尾形は尋ねてみたい事があった。
 お前の男を殺した相手に、生きていてくれて嬉しいなどと、それでもまた同じように思えるのか。
 すべてを知った女の答えを聞いてから、また或いは何か心変わりがあり自ら望むのであれば。再び引き金に指先を掛けるべきかどうかは、その時に決めても良い。出処も理由さえ分からず自身の中に生まれた、執着にも似たこの感情に、退屈な日々の戯れとして付き合ってやるのもそう悪くないように思えた。

「いい女だったじゃねえか。……なぁ?」
 責任、取ってやるよ──と。
 自身の背後、まるで何者かに語りかけるように尾形は皮肉げに声を掛ける。窓ガラス越しに見えるそこには、ただ深い夜の闇が広がっていたのだった。