一行が山麓のコタンに逗留して数日。突然訪ねてきたにも関わらず、元々フチの遠縁がいるという伝もあってか、村の人々は彼らを快く歓迎してくれていた。
「ここでいいかい?」
 薪運びを手伝っていた杉元が薪の束をどさりと置いて声を掛けると、その場に何人かいた村の女の内一人が嬉しそうに振り返った。それから何やら言葉を続けて距離を詰めてたきた女に、杉元は「おっ……」と僅かに動揺して、両手を前に出しながら後退る。
「待ってくれ、俺は言葉が。なあアシパさん、彼女なんて言ってるんだ?」
 しかし足元で道具の手入れをしていたアシパは杉元の事を見向きもせず、無感情な声色で淡々と応じる。
「知らん。杉元の薪の割り方がへたくそだから怒っているんじゃないのか」
「えっ、これ怒られてんの?」
 すると、杉元に続いて薪を運んできたが、くすりと微笑んでその会話に混ざった。
「“貴方はとても素敵な人だ。もう嫁はいるのか”と」
「は……」
!」
 は顔を赤くして怒鳴るアシパの頭を宥めるように軽く撫でてから、杉元の傍に行って女に言葉を掛ける。そのまましばらく会話をすると、やがて女は名残惜しげに杉元を見つつ彼から離れた。
 その間どういう顔をしていいか戸惑っていた様子の杉元をは改めて見上げる。
「断ってしまったけど良かった?代わりに白石の事を勧めてみたけど、好みでは無いらしくて」
「あー……うん。そうだな、悪い」
 は腕を伸ばし、ばつが悪そうにしている杉元の肩に手を乗せた。
「私達アイヌとシサムの結婚観は違う。杉元みたいな男はそもそも女に好かれ易いんだから、気にしなくていい」
「い、いや。……と言うか、意外にも慣れたような言い方するんだな」
「意外とは何だ。私だってもう子供ではない、男と女の話くらい出来る」
 杉元とがそんな話をしている間に、アシパが女の服の袖を引いて声を掛けていた。
「スギモト オハウ オロ オソマ オマレ ワ エ……」
「あッ!?んもぉ〜アシパさんそれまた俺がウンコ食うって言ってるだろ!、俺はウンコは食べないって事を代わりに伝えてくれ!」
「え。あ、ああ、うん。分かっ、……」
 会話の内容に戸惑いながらも間に入ろうとしたに、今度は少し離れた場所から、別の女が口の横に手をやり冷やかすような仕草で声を掛けた。
 途端動揺したようにが小さく身体を跳ねさせると、杉元は軽く首を傾げた。
「今のは?」
「……それは、おそらく私の薪の割り方がよくなかったんじゃないかと……」
「違うぞ、今のはに“うちの村の男達の調子はどうだ?”と言ったんだ」
「調子?」
「アシパ!」
 先程のお返しとばかりにアシパが杉元に伝えると、“もう子供ではない”はずのは顔を赤くしながら声を張り上げた。


 + +


 タンッ──、と一発の銃声が森に響く。
 地面に敷き詰められた葉を踏みしめながら木の根本までやって来た尾形は、頭部を撃ち抜いた野鳥の背を摘んで持ち上げた。
 雀よりは大きいが鳩よりは小さい。背や頭は尾は茶褐色で、白っぽい腹に鱗のような模様がある。尾形はそれらの特徴をおおよそ確かめてから、ベルトに下げてきた腰袋に納めた。
 そして、踵を返そうかとした時だった。
 反射的に、と言うよりは。己の経験上、この場合に最も的確かと思われる動作を冷静に反復するかのように、尾形はその場に近づいて来る複数人の気配に対して、木の影に身体を隠して様子を窺った。
「(……ん?あれは……)」
 連れ立って歩いて来たのはと、もう一人はその装いから見るにどうやら村の男のようだった。
 彼女らは尾形に気が付いた様子は無く、何やらアイヌ語で親しげに話していた。男が何か言うと、が笑いながら男の腕を叩く。しばらく話し込んでから軽く手を挙げて村の方に戻って行く男を、はそのまま笑顔で見送った。


「今のは何人目だ?」
 背後からの声にが振り返る。
 尾形は腕を組みながら木の幹に身体を寄り掛からせ、口元に薄い笑みを浮かべていた。彼は彼女と目を合わせると、顎先を軽く持ち上げながら。
「ここでは随分と楽しく過ごしているようだな。どういう気分だ、次々と新しい男に言い寄られるというのは」
「……彼には近くの狩場を教えてもらっただけだ」
「誤魔化すなよ。俺が知らんとでも思ってるのか?」
 尾形の声色が一段低くなる。冷ややかな眼差しに射抜かれたは喉を小さく動かすと、やがて、観念したように大きな溜息を吐いた。
「んー……」
 それから悩ましげに首を捻ってひとしきりうんうんと唸った後で、は「よし」と呟くと、尾形の事を改めて真っ直ぐと見据えながら口を開いた。
「尾形。私が男から求められるのは取り立てて珍しい事では無い」
「…………」
「あ、あれ?この言い方は違うのかな……」
 尾形からの眼差しがどこか白けたようなものになった事で、は慌てて続ける。
「滞在中、村の仕事を手伝うだろう?アイヌでは特に働き者の女は良しとされている。だから未婚の男にとって私はおそらく手頃に思われるのではないかな、とか」
 やや早口で言いながらも段々と冷静になってきたのか、は自分自身の言葉に落ち込み、その表情を暗くしていった。
「手頃……手頃、か。そうだろうな、私の年頃で嫁に行っていないのも珍しいだろうし……」
 ふっ……と自嘲気味な笑みで語るの言葉を聞いてから、尾形は徐に木の幹から身体を離す。
「それだけとも限らんだろう」
「だって、会ってほとんど間もない相手だぞ。他に理由も無いじゃないか」
 尾形は眉根を寄せるの前で立ち止まると、改めて彼女を見下ろした。
「そいつはわざと惚けてるのか?そもそもお前は美人だろ」
 至極当然の事実を告げるかのように、さらりと。
 不意打ち過ぎる尾形の言葉に反応が出来ず固まっただが、その動揺を彼に悟られたくないが為に、顔の熱を上げながらも慌てて口を開いた。
「っ、それも外見じゃないか」
「男が女に惚れるきっかけとしては、充分健全な理由だと思うが……っと」
 そこで思い出したように言葉を区切った尾形は、首を傾げるに対し、からかうような笑みを口角に浮かべて告げた。
「しかし、確かにそれだけでは軽いな。もし選ぶのであれば、俺のようにその残念な中身を知っても尚引き受ける事が出来る、愛情深い男にしておけ」
「……、その条件なら別に尾形で無くてもいいな」
「いいや、俺ぐらいだろう。特にお前のような面倒な女はな」
 ほんの一瞬だけ──。は額の傷跡に尾形からの視線を感じたが、確証を得る前にそれはまたすぐに離されてしまった。
 追求しようかと僅かに開いた口を、しかしは再び閉じてしまう。尾形の方はそんなの心の動きを見透かすように瞳を薄く細めて。
「“戦争に行った男”とやらは、お前にこういう話をしなかったのか?」
 そう意外な言葉を放った尾形に、は目を開いた。
 しかし“彼”との事は彼女にとって何も忌むべきような話では無く。は思い返すような間を置いて、脳裏に浮かんだ在りし日の記憶に、自然と穏やかな笑みを浮かべて応じた。
「したよ、してくれていた。どれくらいかかるかは分からないけど必ずって」
 それはとても幸福でいて、だがやはり、少し胸の奥が痛くなるような──。
「でもそれを実現するために色々なしがらみがあるのは私にも分かったから、私はただ共に過ごしていければそれで良かったかな……」
 尾形は瞬き一つさえせず、その黒目がちな瞳に、俯き加減に語るの姿を映していた。
 それは目の前の彼女を見ているようで、彼女越しに別の誰かを──、既に届かぬものとなった過去を見るような、どこか虚ろな眼差しだ。
「ところで、それは何の獲物だ?」
「……、は?」
 尾形が何か言おうと口を開きかけていた所で、がそれを遮って先に声を掛けた。それまでのしっとりした雰囲気は何処へやら、は僅かに腰を屈めて、尾形の腰袋を興味津々に見ている。
「実は銃の音は聞こえていたから近くに尾形がいる気はしていたんだ。その大きさだと何だろうな、リスかな」
 弾むような声色で言いながら見上げてくるに尾形は目を丸くした。それから少し間を置いた彼は溜息を吐いて、紐を解いた腰袋の中身をに見せるように開く。
「マウシロチリ!これを銃で落としたのか」
「……アイヌではツグミの事をそう呼ぶらしいな」
 は嬉しそうに頷き、顔を上げる。
「私も、昨晩の夕飯時にこの辺りに出ると聞いて探しに来たところで……マウシロチリは味が良いから私は好きなんだ」
「ああ。その時は杉元や白石も一緒に、こちらの言葉も混ぜて話していただろう」
「え……。あ……もしかして、それで獲りに来てくれていた、とか」
 尾形はそこでぴくっと唇の動きを止めて、彼にしては珍しく躊躇うような仕草を見せた。しかし次の瞬間には何事も無かったかのように、その声色に皮肉めいた響きを滲ませながら先を続ける。
「どうも都合よく捉えてもらってるところ悪いがただの偶然だ。俺がそこまで甲斐甲斐しい男に見えるか?」
「うん。わりと」
 即答して頷いたは、口を僅かに開けたまま静止している尾形に対して、改めて笑顔を向けた。
「ありがとう。偶然だとしても嬉しい」
 その言葉に一体何を思ったのか。
 尾形はしばらくを見つめていたが──、やがて、その顔をふいと斜めに逸らした。
「容易過ぎる。まさか餌を与えてくれる相手なら誰でもいいというわけじゃねぇだろうな」
「餌とか言わない。素直に礼を言ったら悪いのか」
「いいや……だから、お前はそういう女だったという事なんだろう」
 尾形の言い方には若干の違和感のようなものを感じたが、彼が再び背を向けて森の奥に歩き出した為、も本来ここに来た目的を思い出してその後を追った。
 すると隣からはふっと息を漏らして笑うような気配がした。
「すまん、思い出し笑いだ」
 尾形はに断りを入れてから、独り言のように呟く。
「しがらみね……。御大層な家柄でも無ければ、今や軍も脱走兵扱いの俺とはやはり大違いだな」
 そして一体何を言いたいのかと怪訝そうに見上げるに、彼はほんの僅かに沈黙した後、今度はどこか切り替えたように誘いかけるような眼差しを向けて。
「結局は“手頃”な者同士、納まるのであれば、この辺りが気軽だろうという事だ」
 再び頰を紅潮させていくの反応を愉しむように、そう言ったのだった。


 + +


!」
 それからもう二匹程成果を伸ばして村に戻ろうとしていた尾形との元に、がさがさと草を掻き分けながら走り寄ってきたのはチカパシだった。
「チカパシ?どうしてここに」
 チカパシは達の前で立ち止まると、息を切らせながら顔を上げる。
「アシパから預かった毛皮が売れたから追いかけてきた。インカラマッの知り合いがいて高く売れたよ」
「へえ、そうか。街からだと距離も長いし疲れただろう」
「うん。すっごく疲れた」
 チカパシはそう言いながら、何かを期待するようなきらきらとした眼差しをに向けた。それを受けたは不思議そうな表情を見せたが、次の瞬間には思い当たる事があったのか、両腕を広げて軽く腰を屈めた。そして、顔を輝かせ腕の中に飛び込んできたチカパシの頭を、彼女は優しく撫でる。
「ピリカピリカ。どうだろう、少し大きくなった?」
 そんな一連の流れを、何の気無しに眺めていたのは尾形だ。それに気が付くと、はチカパシを抱き留めたまま彼に顔を向けた。
「チカパシと久々に会えた時の決まりみたいなものだ。これくらいの歳の子供は少し会わないとすぐ成長するから」
 ふうん……と特に関心の無い返事をした尾形は、今度はチカパシの方へと視線をやった。
 チカパシの息は荒い。
 の胸元に顔を埋めたまま微動だにしない彼から聞こえるくぐもった息は、むしろ先程駆け寄ってきた時よりもふうふうと激しくなっているようだった。
「……はっ!」
 尾形がチカパシの首根っこを掴んでべりっとから引き剥がすと、チカパシは我に返ったような声を上げて目を瞬かせた。
「あっ。どうしてそういう乱暴な事をす……尾形!こっちを向け!向きなさい!」
 が咎めるも、尾形はツーンとそっぽを向いて取り合おうとしなかった。は「もう」と眉根を寄せて諦めたように息を吐く。
「いい、行こう。皆集まってるんだろう?」
「あ、うん」
 歩き出すにチカパシが頷いた。それに続こうとした尾形はふと視線を感じて顔を下げる。するとそこには、チカパシがはにかむような親しげな笑顔を浮かべて彼を見上げていた。
「尾形ニパ。尾形ニパもに頭撫でられるとちんちんむずむずする?」
「するか」
「えっ!」
 即答した尾形にチカパシがまさかと言わんばかりの驚いた表情になると、それを見て一考した尾形は、今度は自身の髪を撫で付けながら口を開く。
「“大人”は、そんなもんじゃねえんだよ」
「!ほ、ほわああ……!」
 
「(絶対変な事話してる……)」
 どこか悪戯めいた笑みの尾形とそんな彼に尊敬の眼差しを向けるチカパシに、はやや離れた場所から振り返って苦い表情を浮かべていたのだった。