先を行くアシパの足が止まると続く一同もそれに倣った。彼女はその小さな身体全身で森の中の気配を感じ取り周囲の地形を確認している。そしてしばらくすると、ん、と頷き振り向いた。
「ここからは沢側と山側に二手に別れるぞ。陽が落ちる前にさっきのクチャで落ち合おう」
「そいつは構わないがどう分ける?」
 杉元が腕組みしながら聞くと、アシパはまずの方へと顔を向けた。
は私と沢に行こう。そろそろ魚が食べたいと言っていただろう?」
「行……、っ!?」
 はアシパからの誘いに当然尻尾を振らんばかりに従おうとしたのだが、一歩踏み出そうとした所で尾形がその首根っこをぐいと引き掴んで止めた。は勢い良く振り返り、尾形を睨む。
「苦しいじゃないか!」
「アホかお前」
「え……?」
 尾形はを手招きすると、怪訝そうにする他の面々からは口元を隠しつつ彼女の耳元で囁いた。
「お前はあいつらをくっつけたいんじゃないのか?自分から邪魔に入るような真似をしてどうするんだ」
「あ」
 するとはしばらく逡巡するような間を置いて、ぎこちない動作でアシパ達の方に顔を向けた。
「私、は、今日は山側に行こう……かな。アシパは、杉元と二人で沢に行くといい」
「私はがそう言うならそれで構わないが……、杉元もそれでいいか?」
「ん。了解、俺らは魚釣りね。おーし、それじゃあ今晩はに旨い魚食わせてやるよ」
「ああ!私も二人に新鮮な脳味噌を獲ってくる」
「あ、いや、そうね。う〜ん、まあそこらへんあまり無理はしないで……」
 杉元は何やら濁すように応えてから、今度はその瞳をすっと鋭く細めての背後へと向けた。
「おかしな真似すんなよ」
「おかしな真似って?」
 尾形が薄く笑って返すと、杉元は顔をしかめて舌打ちをした。しかし尾形は動じる様子も無く、再びその表情を消して淡々と続ける。
「これで話は決まったな。沢はここからまだ下るぞ、さっさと行け」
「言われなくても行くよ!!ねー、アシパさん!俺達、尾形なんかに言われなくても本当にたった今行くところだったもんねっ!?」
「うるさい杉元。置いて行くぞ」
 既に歩き始めていたアシパの後を慌てて追いかけながらも、杉元は覚えてろと言わんばかりに最後まで尾形に対して毛を逆立てながらその場を後にした。
 二人の姿が見えなくなると、尾形は「ふん……」と鼻で息を吐いた。それから彼はを見下ろして、ゆっくりと右手を持ち上げる。
 背後から暗い影が落ち──、気が付いたは振り向きざまにそちらを見上げた。
「よっしゃ、じゃあ俺達も張り切って行くか!今日の俺は特に五感が冴え渡ってるから、二人とも大船に乗った気でいていいぜ」
「あはは。本当か、白石?」
「…………」
 手を宙に浮かせたまま口を薄く開けている尾形からの物言いたげな眼差しに対して。彼の隣の白石は何をどう受け取ったのか、パチッと星を飛ばすように片目を瞑り、力強く親指を立てて返したのだった。


 + +


 途中仕掛けてきた罠を確認していく事にした三人はを先頭にもと来た道を辿っていた。
「ここから登れば短縮出来るぞ」
「えっ……え〜?ちゃんってば逞しい……。でもそこ、俺にはほぼ垂直に切り立った崖に見えるんだけど」
 和やかな雰囲気の白石とをよそに、尾形はずっと口も開かずにいた。彼は隣を歩く白石をチラ……と覗き見る。
「あ、ほら白石。あそこの罠にリスがかかってる」
ちゃん見えるの?」
「見えた。少し先に行く」
「はーい、気を付けて〜」
 駈け出したに手を振り見送る白石。彼はいかにも微笑ましげにその表情を緩めながら、尾形に声を掛けた。
「ふふ。見てよ尾形ちゃん、あんなに喜んで」
「どういうつもりだ」
「そうそう、どういうつも……り、って、何が?」
 全く会話が噛み合わなかった事で、さすがの白石も笑顔のまま首を傾げた。
「さっき俺に合図を送っただろう。あれは俺があの女と上手くやれるように取り計らうという事じゃないのか」
「は?な、何だよそれ!?あれはただ一緒の山組として頑張ろうぜッっていう意味だろ」
 話の流れを理解した白石は途端慌てたようにしながら声を潜めた。だがの方はといえば、どうやら罠に獲物がかかっていたようで、二人の異変に気が付いている様子はない。その事に一応は安堵しつつ、更に続ける。
「確かに最近距離感が近いなとは思ってたけど、まさか前に言ってた事も本気じゃないんだろ?尾形ちゃんにそういう甘酸っぱい感じはちょっと似合わないって」
「ふ……、この短い付き合いでお前がそこまで理解してくれているとはな……。安心しろ、俺はただ少しあいつに確認しておきたい事があるだけだ」
「え、そうなの?」
 そこで一瞬力が抜けかけた白石だったが、次の尾形の言葉でまたすぐ我に返る。
「ああいう躾が必要な野良娘は、ちゃんと首に輪っかを付けて繋いでおいてやらんといかんからな」
「待った!その倒錯した感じは確実にややこしい!」
 自称清純派の白石にとって、尾形の理解し難い発言には恐れすら感じるものがあった。大体“短い付き合い”というなら尾形とも似たようなものだろうに、白石から言わせれば、こうして拗れる要素が思い当たらないのだ。
 何だか一気に疲労感が押し寄せてきたようで、白石は思わず長い溜め息を吐きながら腕組みをした。
「つうかそういうのは無理だって。気持ちは分かる、俺だってあわよくばとは思ってるよ?でも番人アシパちゃんと番犬杉元の守りが固すぎて、とてもとても」
「ほう。では聞くが、その二人は今どこにいる」
「どこって。二人は沢に魚、を……」
 言いかけ、ようやくそこで気が付いた白石は驚嘆した表情を浮かべると「天才か!」と言わんばかりに両手で尾形を指差した。尾形はやれやれと呆れた様子で息を吐く。
「ようやく理解したか。理解したのなら、お前はそこらで蟻の後でも追いかけていろ」
「い、嫌だね!ちゃんをみすみす尾形ちゃんの毒牙にかけるわけにはいかねえし、それにこれは俺にとっても絶好の機会って事だろ?」
「なんだ。まさか今になってあの女を好いてるとでも言い出すんじゃないだろうな」
 尾形が瞳の奥に暗い光りを灯した。だが白石はそんな彼の変化には気が付かず、脳天気に応じる。
「いや〜そりゃ好きでしょ。アシパちゃんがいるからだろうけどお姉ちゃん系というか、それでいてちょっと抜けてるところもまた可愛いし」
「……あとは?」
「あとは勿論おっぱい!と、見せかけてー、俺はあの腰周りだな。あれはいいもんだぜ、気付かず無防備にしてる所をこっそり盗み見る罪悪感だけで幸せになれるね」
「ふうん、見ているだけね」
「はいっ!本当は直接ツンツンとかしたいでっす!」
 ばっと鼻息荒く手を挙げて応えた白石に尾形は薄く口角を上げた。白石はてれてれと頭を掻きながら、今度は尾形に問いかける。
「へへ、言っちゃった☆なあなあ、折角だし俺だけじゃなく尾形ちゃんもちゃんのどこが好きなのか教えてくれよぅ〜」
「俺か?俺はそうだな……」
 そう言うと、尾形は先にいるの方へと視線を向けた。木の下でしゃがみ込む彼女の姿を捉え、彼はその瞳を細める。
「耳が良いところ」
「は?」
 疑問符を浮かべて聞き返す白石に、尾形はの方を親指で示してみせた。
「当の本人に聞かれているうえで堂々と性的な発言をするとはさすが脱獄王、度胸があるな」
「えっ、聞か……はは、まさか。冗談でしょ。だって、ここからちゃんの所まで結構な距離があるし……」
 顔色をさあっと悪くした白石がの方を窺った。そう言えば──、彼女は先程からずっと彼らに背を向けたまま、露骨なほど微動だにしていない。
「まあ俺は、嫁入り前の娘相手にするような発言では無いと思うがね」
 まるっきり他人事のような口調で言う尾形に、白石はようやく罠にはめられていた事に気が付いた。


 + +


 に渡された獲物を抱え白石は何度か名残惜しげに彼女らの方を振り返っていた。しかしそんな彼を遠ざけるようにが全身から放つ空気で威嚇すると、怯えたように身体を揺らし、やがて項垂れその場を後にする。
 その姿が完全に見えなくなってはそれまでいからせていた肩を、気が抜けたようにやれやれと下ろした。その様子を彼女の背後から斜めに見下ろしていた尾形が口を開く。
「二匹かかっていたのか」
「ああ、うん」
 は尾形の方へ振り向いた。
「一匹はそうだけど、もう一匹は同じ餌場に来たのを今捕まえたんだ」
「へえ……いつの間に」
「それは、お前たちの話が長かったから」
 が僅かに頬を赤く染めつつ口籠ると、尾形は口元に加虐的な笑みを浮かべた。
「実際はどこから聞いていた」
「……お、おっぱいのところから」
「は?なんだ、そんなものか」
 途端拍子抜けしたかのように目を丸くした尾形に、はむっと口を尖らせた。
「どういう意味だよ」
「……いいや、別に」
 言葉のわりにいかにも意味深な含み笑いを見せる尾形に、も「別にって顔じゃないぞ!」と思いっきり言い返してやりたい気持ちはあったのだ、が。
 このまるで底が見えない暗い穴を今の時点でこれ以上掘り進めていってはいけない気がすると。本能が警鐘を鳴らし、ただ下唇を噛みしめた。
「それより、相変わらずさっさと進んで行くがお前は大丈夫なのか」
「ん……?」
 一体何の事かとが聞き返すよりも先、手を伸ばした尾形が彼女の前髪をかきあげていた。
 あらわとなった額。そのこめかみ付近には、そう目立たないながらも痛々しい傷の跡が残っている。尾形の手の隙間からはらりと落ちてきた自身の前髪を、は目だけをゆっくり動かして見上げた。
「もしかして、アシパから聞いたのか?これの事ならもう完全に塞がっているし何も問題は無いぞ」
 の言葉を聞いているのかいないのか、尾形は彼女の傷跡をじっと黙って見つめている。そんな彼に対し、は怪訝そうに眉を顰めた。
「私の話を聞いて、」
「──ああ、やっぱり……」
 そう、独り言のように呟いて。
 尾形はからゆっくりと手を離す。そして少しの間を置くと、肩の小銃を担ぎ直し踵を返した。
「……行くぞ。さっきのリスだけでは足りんだろう」
「え。あ、そう……だね」
 尾形に促され、も慌てて彼の横を過ぎるとまた先を歩き始めた。

 “あった”、と。

 先程の呟き。ともすれば聞き逃してしまいそうな言葉の後に、には尾形の口がそう動いたように見えた。どこか虚ろげな視線の先、ややかさついた指先でその存在を確かめるように撫でながら──。
「おい。そんないかにも警戒心の強い歩き方じゃ、獲物にも気取られるんじゃないか」
「わ、分かっている」
 まるで何事も無かったかのようにしれっと指摘してくる尾形に、このざわつく心臓の音が聞こえてしまわないように。は不安な気持ちと共に強く胸元を押さえたのだった。