静寂に包まれた闇の中、ぱちぱちと音を立てながら炎が揺らめいている。その炎をどこか虚ろげに眺めていただったが──突如ハッと目を見張ると、脇に置いていたマキリを素早く取って近くの茂みへと向けた。


「……なんだ」
 “ただの尾形”か──。物騒なの行動にさして動じた様子も無く、茂みから現れた尾形は手にしていた獲物を彼女の前にどさどさと落とした。
「血抜きだけはしておいたぞ」
「!二羽も。すごい、よくこの暗い中仕留めたな」
 の賞賛に対し、ちらと視線だけ向けた尾形は彼女から少し離れた場所へと腰を降ろした。笑顔のまま固まったはそのままギクシャクと顔の向きを戻して、取り繕うように続ける。
「そ、それじゃあ私は羽でもむしろうかな」
 単独行動をしていたのは尾形だけなので、杉元とアシパ、白石の三人が戻ってくるまではどうやらまだ時間が掛かりそうな気配がした。ふぅー……と長い溜息を吐く尾形をは横目で盗み見る。
「(尾形か……、やっぱり嫌われているんだろうな)」
 関心が無いのは構わない。だが、は自分に対する尾形の態度に明確な“刺”を感じる事があった。
 道中余計な揉め事を起こす気もない彼女としては、それならそれで当たり障りなく過ごそうと思っていたのだが。
「…………、」
 その時ぽつりと小さな呟きが聞こえたような気がしてが顔を向けるも、先程と変わらず尾形はじっと黙って焚き火を見つめていた。
 何かの聞き間違いだったか。は羽をむしる作業へと戻る。すると再び、
「怪力猪女……」
「聞き間違いではなかったな!」
 は咄嗟に近くの石を手に取った。


 + +


 尾形を睨みながら投石の構えを取るに対し、彼はくつくつと喉の奥で笑い両手を上げた。
「冗談だ。果たしてどの程度こちらの国の言葉を理解しているのかと思ってな」
「何度も言ったと思うが、私がウイルク達と此方に渡って来たのは子供の頃だ。それからはずっとこの地で育ってきたのだから、他のアイヌと変わらない」
「赤ん坊の頃の事は覚えていて、たかが数年前の事は思い出せないのか?」
 またか、とは思った。
 尾形と二人になると決まっていつもこの話になる。なんでも彼が言うには自分達は以前顔を合わせた事があるらしいのだが、の方には全くその記憶が無いのだ。思わずは彼への怒りを一旦収め、申し訳なさそうに返した。
「それも何度も言ったが、やはり人違いだと思うぞ」
「その異人然とした目立つ容姿を見間違ってたまるか」
 そう言われてしまうと、己の容姿について自覚のあるは何も言い返せなくなる。
 このように、いつもこの話になるとが尾形から責められる形になる事が多かった。彼女が彼の態度に“刺”を感じるというのも主にこういった時だ。他の人物がいる時は、彼はこの件に触れてこない。
 は羽をむしる手を止めると、じっと何か考え込むようにしてから立ち上がった。尾形も顔を上げて、彼女の動作を視線で追う。
「……おい」
 すぐ隣にどさりと腰を降ろしたに尾形が声を掛けるも、彼女は彼の方には目もくれず羽むしりを再開した。その手の動きには先程よりも力が入っている。
「忘れてしまっているのなら!私に非があるし失礼な事だと思うがっ!思い出すきっかけとして、もう少しその時の状況を教えてくれてもいいじゃないか」
「どうして俺がそこまで譲歩してやらなきゃならんのだ。後はお前の方でどうにかしろ」
「とことん取り付く島の無い男だな……!」
 尾形は彼女の方から舞い飛んできた羽をすっすっと手で払いのけている。その涼しい表情にむっとしたは、つい口を尖らせて。
「大体、別にいいじゃないか。昔に会っていようが無かろうが……」
 瞬間、その場の熱が一気に引いたような気がした。
 触れてはならない場所に触れた、それだけは言ってはいけないという事に言及してしまった、そんな雰囲気。はどうやら自分がやらかしてしまったようだと気が付き、隣を見られずに固まった。
 ただ、焚き火の爆ぜる音だけが、山中に響く。
「ハハッ」
 突然声を上げて笑った尾形にはビクリと身体を跳ねさせた。彼女が怯えた眼差しを向ける先で、彼は感情の読みづらい不気味な笑みを浮かべている。
「その通りだ。いつまでも“過去”の“どうでもいい”話に拘る事は無かったな」
「あの、ごめん。ごめんなさい」
「何を謝る?なに、ただ俺が未練がましく小さな男だったというだけの事だ。気にするな」
「未練?」
「……ん?」
 尾形の言い振りに違和感のあったは、更に彼との距離を詰めてずいと顔を近付けた。
「未練って何だ?私が尾形と会った時、何かしたのか」
「……別に。今のは深い意味で言った訳じゃない。大体そっちは何も覚えちゃいないんだろうが」
「だから、思い出したいんだ」
 自然と必死な口調になるを尾形は黙って見つめていた。言葉を待つに、彼はやがて目を薄く細めると、ゆっくりその顔を近付けていった。
 の唇に、ふっと息がかかる。
「なんだ。キスするぞ」
「きす!?」
 聞きなれない響きと距離の近さに動揺したは顔を赤くしながら身を引いた。
「な、なんだそのきすって」
「口付けの事だ」
「ウチャロヌンヌン!?」
「いや、その言葉は知らんが」
 は更に動揺し、ぶんぶんと首を振った。
「全く意味が分からない。そんな話はしていなかったのに」
「俺としては、そちらが物欲しげに顔を近付けてきたものだから期待に応えてやろうかと思ってね」
「違う!私はただ暗いから顔をよく見ようと思って」
 しどろもどろ話すを見ながら、尾形の方はいつの間にか上機嫌そうにしていた。
「なんだお前。乳も尻も一丁前に育っちゃいるくせに、こういう話は苦手なのか」
「よぅーし、やめよう尾形。謝る、私が悪い事をしたなら謝るから」
「……なるほど。こいつ相手にはこっち方面で憂さ晴らしすれば良いんだな……」
「な、何か不吉な事を言ってないか、っ」
 すると尾形は片手を伸ばし、の顎を指先で持ち上げて視線を合わせた。
「いいか。お前がどうしても思い出せんと言うのなら、俺は俺のやり方で思い出させてやる」
「それって……?」
 焚き火の灯りに顔の半分を照らされながらじっと見つめる尾形には息を飲む。
 すると、彼はその口角をにいっと持ち上げて──。
「愛してやるぜ、お嬢ちゃん」


 + +


 先に戻っていた二人の様子がおかしい事に気が付いたのは白石だった。寝床の支度をしている時に、こっそり杉元の傍に近寄って耳打ちをする。
「おい、気が付いたか……?」
「あ?白石のすかしっ屁にか?」
「えっ、やだしてないし!何か臭う!?」
 杉元からの指摘に自身をくんくんと匂う仕草を見せてから、「そうじゃなくて!」と、白石は先を続けた。
「尾形ちゃんとちゃんの事だよ!あの二人、明らかにおかしいだろ!」
「ああ、の方が警戒してるな」
「あれ。なんだよ、気が付いてたのね」
 少し離れたアシパと話すと、そこから更に離れた場所で座り込む尾形。その二人を見比べて杉元は軽く肩を竦める。
「そりゃ尾形相手なら警戒くらいするんじゃねえの?」
「ん、ん〜。そういうのとはちょっと違うんだよなあ。この脱獄王、もとい恋愛王に言わせれ、あだだだだ!顔面!なんで顔面!?」
「いや、何か腹立ったから……」
 白石の顔面を片手で握り潰す杉元の腕を、白石は降参とばかりに必死にパシパシ叩く。その騒ぎを聞きつけてか、立ち上がったアシパが呆れ顔で二人に声を掛けた。
「おい、騒がしいぞ。もう夜も遅い、杉元も白石もはしゃぐなら明日にするといい」
「「はぁ〜い」」
「よしっ」
 二人の返事にふんすと鼻息を吐きながら満足げに頷いて、アシパはに振り返った。
も休むだろ?」
「ああ、そうす──」
「ちょっと待て」
 そこで軽く手を挙げて口を挟んだのは尾形だった。きょとんとするアシパに対し、彼は更に指差しながら言葉を続ける。
「お前らはいつも女同士揃って寝るが……子供じゃないんだ、まさか一人寝が出来ないというわけではあるまい?」
「当然だ。私は狩りに出た時はずっと一人で寝ていた」
 アシパがややむっとして言い返すと、尾形は笑みを浮かべた。
「それなら問題ないな。今夜からは俺と寝る」
「「「…………」」」
 尾形の言葉が理解出来ない面々の視線は、どういう事かと一斉にの方へ向けられた。真顔の三人には居たたまれない気持ちになり、思わず立ち上がって抗議した。
「お、尾形だって一人で寝れるじゃないか!」
「いや、ちゃん。問題はそこじゃない」
「その通りだ。俺がしてるのは大人の男女の話だぜ」
 尾形は前髪を撫で付けながら暗く熱の篭った眼差しをに向ける。は他に助けを求めようと周りを見た。
と尾形はそういう仲になったのか……?」
「えー抜け駆けとかずりぃんだけど尾形ちゃん!」
 思った以上に状況を受け入れてしまっているアシパと白石に一から説明する気力の無かったは、最後の頼りとして杉元の方に顔を向けた。
 杉元はと目を合わすとギクッと肩を揺らした。彼は視線を泳がし、僅かに染めた頬を掻きながら。
「あ〜っと、俺としては尾形はどうかとおもうけど、趣味は人それぞれだし……その、オメデトウ……?」
 意外にも純情路線な杉元からの祝福に言葉を失うを、尾形は相変わらず瞳を細めてニタニタと満足げに見つめていた。